私の彼は中佐殿??
上官殿から投下された思わぬ爆弾発言に、シズリは言葉を失った。
いや、むしろ完全に思考停止、戦意喪失状態といったところだろうか。
一体いつから、そしてどこからこんな話になったのか。
絶句状態のシズリを尻目に、元から無口無表情な上官殿はシズリの心中も知らぬのか、冷めた紅茶に再び静かに口をつけている。
先程の自分の発言などどこ吹く風といった、いつも通りの態度だ。
普段ならその整った容姿と威厳ある空気に見とれることはあっても、散々慌てふためかせられた今晩は、やけに癇に障る態度に見える。
尤も、彼が人をからかったり陥れることをするような人間ではないことはシズリ自身、よく知っている。
だが、もしかしてこれは何かの余興かドッキリではないかと思えてならないのだ。
それほど普段の彼と先程の彼の爆弾発言には乖離がある。
とにかく自分には今夜の彼の言動の理由を知る権利がある、そう自分自身に言い聞かせ、何とか口を開くべく意識を集中した。
「あの、」
思い切って唇を開くと、目の前の群青の瞳がより濃さを増した気がした。
月明かりを背にしたシルバーブロンドの髪が夜気に揺れる。
昼間に部下達を従える威厳ある姿と違う、どこか風情ある雰囲気に戸惑う。
男性の、しかも自分より6歳も年上の上官に対しておかしいかもしれないが
色香のようなものを感じて思わずくらっとなる。
上官殿はその群青の瞳を細め、月明かりの下にその濃い睫毛が頬に陰を落とす。
シズリはその視線に負けるまい、と心の中で故郷の古い文言を唱える。
(…寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末…)
「えーと・・・あの、その・・・先程、中佐殿と私がけ、け、結婚する予定だと仰られたように聞こえたのですが・・」
聞き間違いですよね?、と続けようとしたところにあっさり返事が返ってくる。
「そうだが?」
相変わらずヒューバートは無表情のままだ。
シズリは泣きたくなった。
なぜ、どうして、こんな訳の分からない羽目になるのか。
誰か説明して欲しい。
ドッキリなら責任者よ出てきやがれ!今なら1発殴って許してやる!
私も女だ。ここは腹を括ろう。
そしてきっちり上官殿に説明して頂き、訳の分からない話はどこか官舎の裏でも
犬小屋でもどこでもよいから埋めていただかねば!
「なぜですか?」
上層部が独身の上官殿を憂慮するあまり強制してきた偽りの結婚だとか?
それともあの男の差し金か、はたまた実は故郷の母が危篤で、息子の結婚を心待ちにしているための偽装なんです、とか??
「私が君に結婚を申し込んだからではないか」
さらりと返されたよ。
何を今さらといった風情の上官殿に負けじとシズリは言葉を畳み掛ける。
「いつ!?」
思わず大きな声でがなってしまった。
静かな部屋に自身の声がやけに響いた気がする。
上司に対する言葉ではなかったと、は、と口元を押さえる。
「・・・・・・」
今さらながら、辺りを包む静寂と沈黙が怖い。
昼間は多くの軍人達で賑やかな庭も廊下も、そしてこの執務室も今はシンと静まり返っている。
まるでこの世界にシズリとヒューバートしかいないかのような、そんな錯覚を覚えそうになってしまう。
まずい、非常にまずい事態だ。
そもそも上官殿が腹を立てたり、感情を曝け出す姿を見た記憶がない。
そしていつもながらに何を考えているのかさっぱり分からない。
故に、この沈黙がよけいに重く感じる。
しかし雄弁は銀、沈黙は金とも言うではないか。
黙したまま様子を窺うべく、上官殿にちらりと視線を向けてみる。
そして見たことを後悔した。
・・・笑ってる。
声を出さずに笑ってる。
普段、ちらりとも笑顔を見せない無表情な上司の顔しか知らないシズリとしては、戦慄すべき事態であった。
思わず身をひくと、ソファの背もたれにとん、と背中が当たる。
逃げたい、でも逃げられない気がする。
逡巡してる間に、沈黙を破ったのはヒューバートの方であった。
「忘れたのか?」
発された声は普段の落ち着いた、低い声とは違い、やけに艶めいて聞こえた。
ぐっと身を乗り出され、思わず後ずさる。
その脚が2人の間のテーブルをやすやすと跨ぎ、シズリをソファの背もたれに追い詰める。
「…思い出させてやろうか、シズリ少尉?」
耳朶に直接息をふきかけるかのように囁かれ、全身が総毛だつ。
背筋に何か奇妙な感覚が走り、ぶわっと肌が粟立つ。
髪が、肌が、伝わる空気の振動が、目の前の男の存在を全身に伝えてくる。
――――この男は危険だと。