<閑話小話>彼と彼女とその兄と その1
このお話はヒューバートとシズリがローザンヌから帰還した日のことで。
シズリ・シノノメ少尉とヒューバート・ヴァン・ラーツィヒ中佐の外泊★ロマンス疑惑が瞬時に軍部内に音高く流布した頃のこと。
日は既に地平線の傍近くまで傾き、半ば青く染まった空の色が夕刻の時間が近いことを示していた。
そして――それはドアを蹴破らんばかりの開閉音とともに転がり込んできた。
「ひゅぅうばぁぁとぉぉお――――!!!歯ぁ喰いしばりやがれ!!」
ミナト・シノノメ中佐はその拳にありったけの憤怒を籠め、一撃で仕留めんとばかりに、内側から溢れんばかりの呪詛をものせて突き上げる!
拳の向かうは諸悪の根源、大魔王――もとい、ヒューバート・ヴァン・ラーツィヒ中佐その人だ。
只今帰宅したばかりといった、上着を脱いだだけという姿で、ミナトの怒りも憤りも知らぬまま――ここ、ヒューバートの自室で呑気に茶なぞ飲んでいる。
その見るからに平和な、のほほんとした様子にミナトはさらなる怒りを駆り立てられた!
目標補足!
以下、このまま迎撃行動に移る!
目標まであと5メートル、4、3、2、1……ぜろ!!
――が!
だがしかし。駄菓子菓子!(笑)
しかしてあっさり避けられ、空を切る己が拳の空しさよ――・・。
だがそこでめげるミナトではない。
今日のミナトは一味違う。
いや、一味も二味も七味唐辛子もかくや、とばかりに違うのだから!
山椒は小粒でもぴりりと辛い、といったか?
いやいや、ヒューバートにはやや負けるものの、上背のあるミナトは一般に比してけして小さいとは言い難い――が、今はこの男にせめても一矢を報いたい!
ただそれだけだ。
ミナトは前のめりだった体勢から瞬時に背を丸めて背後に飛び退り、それと同時に両の手を軍服の胸元に突っ込む。
現れるは五指の間でぎらり、と光るナイフたち。
瞬間、銀色のナイフたちが意思を持つ雨のようにヒューバートに降り注いだ!
「ふん?」
ヒューバートの片眉が上がる。
だが――相変わらず腕は組んだまま、脚も組んで座したままという無造作な恰好に、無表情のおまけつきで己に向かってくるナイフの雨を見つめる。
その群青の瞳には何も映していないかのように一片の感情の揺らぎもなく、その表情からは何もよみとることはできない。
ふっ、と溜息ともとれそうな吐息がひとつ、薄く開いた唇から洩れる。
さも面倒くさそうに、まるで他人事かのように瞼を伏せながら。
声を出さずとも、動かずとも喚べばよい。
心の内でただ一言、その名をつぶやけばよいのだから。
もっとも、彼の内に隠されし魔刀〝天冰〟はなかなかどうして心配性で、少々過保護気味なせいか――喚ばずとも勝手に出てくることもままあるのだが。
だが、ここのところ、ヒューバートの感情の揺らぎに呼応しすぎな気もしなくはない。
〝再教育〟という名の躾をする必要があるかもれしれないな、とちらりと頭の端で考えながら、伏せた瞼をゆっくりと上げた。
その瞬間、ナイフの雨はぱたり、と地に落ちていた――白く、燃え立つ炎のように烟る冷気の火によって。
真白の幕の中に浮かぶは白銀の刃。天冰という名をいただきし、氷の魔刀。
そして、刃から吹き出す冷気が部屋中に広がり、渦巻き、流れ始めた。
それはまるで煙幕のように広がり、水面に広がる波のようにさざめき、焔のようにゆらり、ゆらりとふるえる。
地に落ちたナイフの刃はみるみるうちに白く曇りはじめたというのに――その刀身は一滴の曇りもなく、白銀にきらめいたままで。
ぽたり。
雫が一滴、刀身を伝いながらゆっくりと、流れるように零れ落ちた。
その様はまるで涙を流しているかのように儚くも――獲物を狙う獣の舌なめずりのようにも見えた。
「んにゃろう――!!」
得意のナイフ技による奇襲攻撃をあっさりと封じられたミナトは、諦めじとばかりに続けざまに腕を再度振り下ろす。
だが、仕込みナイフが軍服の袖口から飛び出し、頭上で振りかぶったところで―――ぴたり――その動きを止めた。
否、止められたというべきか。
ミナトの喉元を喰い破らん、とばかりに襲いかかった天冰の刃の切っ先に。
そしてそれをミナトの喉元まであわや一寸、とばかりのところで引き止めたヒューバートの指先2本に。
「……で?」
ヒューバートの唇がゆっくりと笑みを描く。だが、その瞳には笑いも嗤いも浮かんでおらず――ただ、濃い群青の無感動という名の静けさのみで。
それが高ぶったミナトの神経を苛立たせる。
「何のご挨拶かな、ミナト・シノノメ中佐殿?」
「ちっっ」
ミナトは舌打ちした。
再度つむがれたその声は静かで――むしろ猛る血を、今なお沸き立つ感情を逆撫でした。
ミナトの今なお洩れる殺気を感じるのか、ヒューバートの人差し指と中指に挟まれたままの状態で天冰がカタカタと震えるように立てる音が、黙した二人の間でやけに響いて聞こえた。
「いい加減ナイフを下ろせ。天冰が五月蠅くてかなわん」
「天冰を出すなんて卑怯だぞ…」
喉元に今なお主に逆らうようにカタカタと音を立てて震え続ける魔刀の切っ先を突き付けられたまま、という状態でヒューバートの顔を、横目で睨めつける。
魔刀を出されてしまえば勝てるわけがない。
もっとも――悔しいことではあるが、魔刀なしの勝負でも勝てるとは思ってはいないのだが―――。
ゆっくりと両腕を下ろし、仕込みナイフを再び袖に戻しながらミナトは恨みがましい視線をヒューバートに向けた。
「…仕方あるまい。この二日ほど、やけに気を昂ぶらせているのだから。俺の意思に構わず出てこようとする」
――そろそろ仕置きが必要か?ぼそりとつぶやきながら、指先2本で捕えたままの愛刀にゆるりと視線を流す。
ヒューバートの冷たい、無感動な視線を向けられた天冰はぴたり、と悶えるのをやめ――次の瞬間にはその姿を掻き消した。
まるでその場にいなかったかのように。存在すらなかったかのように。
虚空の彼方へと、物音ひとつもたてずに。
二人きりとなった部屋に再び沈黙が落ちる。
ミナトの下ろした両の拳が、肩がふるふると震えていることに気付いたヒューバートが声をかける。
「……ミナト?…厠か?ならばさっさと行って来い」
「ちげーよ!!」
見当違いな、むしろわざとかと思えるほどにとぼけた言にさらなる苛立ちが募る。邪魔な魔刀が姿を消したのをよいことに、さっさと間合いをつめ、再び拳を握りしめる。
不本意ではあるが――天冰のおかげで、部屋に飛び込んだときに比べれば、いささか頭も心も平時に近いほどには冷えた。
だが、それはあくまで先ほどに比べれば、であり。
内なる憤りも怒りも未だ胸の中で燻り、ともすれば再度燃え立ちかねない。
だからなるべく心を穏やかに、心頭滅却すれば火もまた涼し―――ヒューバートのムカつくほどに整った顔に、裏拳を突きだした。
顔にはにっこり笑みを貼り付け、心の中ではこれでも喰らいやがれ、と毒づきながら。
「……何をする」
怪訝そうな、心外だといった色を浮かべた群青の双眸がこちらを見つめる。そしてその掌の中には先ほど突き出したミナトの拳。
殺気は消したはずなのに、とミナトは内心歯噛みする。
再びあっさりと攻撃を封じられたこと、その瞳には何の邪気も悪気もないことが、よりいっそうミナトを苛立たせた。
「そこは避けんじゃねぇよ!!ここは男らしくガツン、と正義の拳を喰らいやがれ!」
「何のために?」
うわ、あっさり返されたよ。
その聖人君子でござい、清廉潔白な軍人です、といった顔がムカつくんだよこのムッツリ野郎が!!
その腹黒さ、俺はちゃーんと知ってんだからな!!
ミナトは心の中で唾を吐きながら、その指先をヒューバートの顔目がけて突き付けた。
「シズリのためだよ!このムッツリ野郎が!!」
その名を聞いてようやくその群青の双眸が黒に近い、濃い色合いに変わる。
手が上がり、顎に当てられたかと思えばその指が唇を撫でる様が妙に色気があり――さらに、さーらーに腹が立つ!ムカつくことこの上なし!
そして、その手の動きに視線をたどれば自然とその顎と唇に目が行く。
顎には痣、そして口の端は切れて血が滲んでいる―――常日頃、任務ですら傷ひとつ負わないヒューバートには不似合いなその傷の意味が、ミナトの考えている理由ならば――ぶっ殺す!!
殺す、コロス、ころーす!!
闇に葬る!!
親友のよしみで正面切って攻撃した己の紳士ぶりに今さらながら後悔の念がやまない。
何としても、不意を衝いてでも、寝込みを襲ってでも闇討ちの刑にするべきだった。幸い、ミナトは闇討ちは得意中の得意なのだから……未だ暗部から引きも切らないスカウトが来るほどに。
「何のことだ?」
今さらながら、相変わらずとぼけるつもりらしい。
「とぼけんじゃねえよ!!二人で休暇届出して連れ立ってどっか行った挙句、翌日に連れ立ってわざわざ転送陣で還ってきたって噂でもちきりだぞ、この野郎!
しかもシズリが、あのシズリがと・と・と……!!」
「と?……やはり厠か?いいから早く行って来い」
「うっせー!この腹黒ムッツリどスケベ野郎が!!しかも、あのシズリがとんでもなく短いミニスカワンピ着てたって、怪我してたって話だぞ!!!
この野郎、俺に黙って何しやがった!?まさか、まさか無理やり手ぇ出したんじゃねぇだろうな!?」
うぉぉぉぉ、俺の可愛いシズリが、シズリがぁぁ!!―――泣きながら床を転げまわるミナトを見つめるヒューバートの瞳は冷たく、口元は薄い哂いを浮かべている。
28にもなる、いい年をした男が妹が上司と出かけたぐらい、噂ぐらいで動揺するとは情けない――その目はそう言っている。
ヒューバート自身も同じように妹がいる身であることからも――仮にも成人した、しかも立派な軍人として職務をこなす妹にこれほど構いつけるなぞ――お前は阿呆かと言いたい、と。
だが、幸いにもミナトがぜいぜいと肩で息をしながらではあるが―――再びヒューバートに向き直ったときにはその色を消すぐらいの処世術はヒューバートも心得ていた。
一度感情と言う名の導火線に火のついたミナトは弱い犬よりもさらに煩く吠え付き、ヒューバートの容色と身分につられて纏わりついてくる女共よりもさらにしつこいのだから――。
「……彼女が怪我をしたことは、その場についていてやれなかった俺に上司としての責がある。
任務外の遠出だったとはいえ、捨て置けぬ事態が起きたのでな。
まぁ、その件についての経緯はお前にも相談するつもりではあったが――なぜ俺と噂になるのがそんなに問題なんだ?」
怪我の件を口にしたとき、無口・無表情を常とするこの男が――珍しく苦虫をかみつぶしたかのような、苦渋の表情を浮かべたことでいささか拍子抜けする。
だがその次の、最後の一言がいただけない。
やはりこいつはなんにも、なーんにもわかっていないのだから!
「――っ!てめぇが言うか!?そりゃ、お前と何かあるとの噂が流れてみろ!シズリが嫁に行けなくなるだろうが!!」
「!!……そうなのか!?」
「ったりめーだ!!」
「なんてことだ!まさか、そんな――・・」
ようやく。
初めてその瞳に驚愕が、動揺の色が浮かぶ。
はは、ざまーみろ!ちったぁ驚け、慌てるがいい。そして反省しやがれこの野郎。嫁入前の若い娘をよからぬ噂の口の端にのぼらせたお前の迂闊さを呪うがいい!!そして、せっかくお前の恋心を応援してやった俺の信頼をぶち壊したんだ、バチが当たるがいい!!
ミナトは内心ひっそりとほくそ笑む。
次のヒューバートの自分自身に問いかけるようなつぶやきを聞くまでは。
「そうか――ならば、俺が婿に行けばよいのか?」
と。
「――まぁ私自身、家を継ぐことには興味がないが……父を説得せねばならぬな。さて、そうとなれば話は早い。父との面談を取り付けねば――」
その言に、続けられた言葉と似つかわしくないほどに晴れ晴れとした、と言うよりも寧ろ――うっきうきと浮き立つようなその表情に、あんぐりと口を開けたままのミナト中佐の姿がそこにあった―――・・・。
どこまでもとぼけた人です、上官殿…。
以下、この小話にてなぜローザンヌに行くことになったのか、そもそも上官殿は一体何を考えて、どんな経緯からこんなことを企画しあそばされやがったのか、等についての補足小話をば。(ミナト視点によるツッコミも挟みつつ…)
小話終了後、新章へと移れたらと思います。
暫しおつきあい頂けましたらとても嬉しいです。




