雨上がり、鳥は再び手の中に
宿屋のドアの外へと踏み出せば、昨晩の嵐が嘘のように晴れ渡った雲一つない空には太陽が輝き、雨上がりならではの水分を含んだ、みずみずしくもさわやかな空気と風が優しく頬を撫でた。
木々はしっとりと濡れ、葉に残された露が太陽の下できらきらと透明な光を放ち――まるで宝石のように眩しい。
嵐も、嵐の後の静けさすらもすでに去り、無事に明るい朝が来たことを喜ぶ人々の声が街に溢れている。
誰にも平等に明日はくるし、朝日は照らす。
窓を開ければ日ごと新しく届けられるプレゼントのように、それは穏やかで平和な新しい一日の始まりを教えてくれる。
・・・と、思えたならばよかったのですが!
てか、何でどうして、いったいどんな前世の因縁でこんな目にばかり遭うのでしょうか!
つい先ほどまで、いたずらな天使のような風が白い頬をやわらかにくすぐり、シズリの長い黒髪をさらさらと梳いていたかと思えば―――今この瞬間、乱暴な小鬼の角笛のような突風が、吹き飛べとばかりにあたりを吹き荒れた!
それは海風にたなびく船の帆のように着衣の裾をふくらませ、バタバタとはためかせる―――。
――だからこんなの着るの、嫌だったのに!!
相変わらず心中に渦巻く嵐を抱えたまま、咄嗟に下ろした両の掌をぐぐっと拳の形に握りしめながら・・シズリは吹く風の中を立ち尽くす・・・。
普段の彼女の基準からすれば格段に、確実に、破廉恥なほどに短い――ミニスカワンピの裾を必死にぐーの手で押さえながら・・。
* *
そもそもケチのつけどころ?はその日の朝からで。
寝衣の隙間から見えた(らしい)彼女の・・・について余計な、いやいや・・もとい、素直な感想を述べた上司の顔面に思わず膝蹴りをお見舞いする、という通常では(通常外でも、だが)ありえない事態で一日の幕が上がった。
そして、本日二度目の土下座でシズリ・シノノメのローザンヌでの華麗なる朝は始まった、ととりあえずここに記しておこう。
彼女の良心と名誉のためと、数日間ヒューバート氏の顎に居座った痣と切れた唇の理由として。(もっともこの件に関しては彼への同情の余地なし、かと思われる)
そしてシズリは上司から手渡されたそれを見て、まじまじと、ただじっっとそれに視線を落とし――絶句した。
なぜ、どうして…これがここに?
これをどうしろと?まさか。まさかまさかまさかの―――?
「何か問題でも?シノノメ少尉」
吐息とともに耳元に落とされたのは、思わず背筋を震わすほどのいいお声。
・・・何で背後から、しかも私の耳元から上方鋭角80度、距離10センチメートルの距離からなんですか!
約20センチメートルの身長差は、対上司部下の安全安心絶対距離はどこにいったんですか!!
ちょ・・ち、近いです!息、息が耳にかかってますから!!
心臓に悪いのでやめて下さいと言えたら・・言えたなら・・・くぅっっ・・。
それこそ自意識過剰女みたいで・・・とてもじゃないけど言えません。
そして声を、吐息を落とした当人は、誰もが認めるすこぶるつきのいい男。
(最近、その内面について少々・・・疑問が生じてきたような気がしないでも・・いえ、何でもないです・・げふんげふん!)
ここのところのあれこれやどれそれで身体が即時に緊急防衛反応を起こすのは、最近の仕様ですからあしからず。
さて、落し物は交番へ。これが常識でございます、そして速やかに回収願います。
ならばお礼の一割をぜひ?
いえ!いえいえ!!けっこうでーすーかーらー!!
落としたものが示すもの。
床に落ちた白いレースのハンケチならば、それは女が男を誘う甘い媚態。
頬に投げ落とされた白い手袋ならば、男と男の命と名誉をかけた決闘。
この手が引いた引金の数なぞ数え切れぬが、男の気を引く術なぞ身に着けたこともないしその気もない。
では、耳元に落とされたそれが甘く囁く上司の声ならば―――何を引く?
そう、この場合の解は一線を引く、だ。
――流されませんよ、今日の私は!
そう、昨日の私は少しばかり・・・ううん、かなーり変だったんです。
カンザキ少佐との一件とか、魔剣に負けたからとか、怪我してたからとか色々・・ち・ちょっと弱ってたといいますか。
そして今回ばかりは違いますとも!!
断固抗議するぞ、うん。民衆よ、蜂起せよ!の精神です!
シズリは再度腕に抱えたそれをじっと見つめる。それは軽く、やわらかく・・・甘やかで。
それだけに、普段の彼女とはおよそ縁遠く――彼女にもそれにもお互いに縁なぞあるはずのないものだと告げられているかのようで。
そう思うと泣きそうになる。
涙なぞ・・シズリにはらしくないものだ。似合わないものだ。
この手に握られるものは、魔導の光と引金、纏うは軍服と硝煙と戦場と・・僅かに匂う生と死の残り香で。
分かっている―――こういう甘やかなものも、女らしい涙も仕草も・・・似合いなどしないと己が一番分かっているのだ。
くるりと身体を反転させ、背後にいる上官殿にきっっと強い視線を向ける。
そう、きっと彼は私の反応を見て遊んでいるに違いない、からかっているに違いない、と。
ふざけるなどと・・・彼らしくないことだ。
だが――見れば上官殿はいつもの如く無表情のまま。
先ほどの行動、言動なぞどこ吹く風といった様子のまま、そばにあった椅子をつい、と引き寄せたかと思えばシズリに向かい合うようにすとん、と腰を下ろした。
膝に肘をつきながら、組んだ両手に顎をのせてこちらを見やる。
上半身を低く屈めた状態で座ったことで目線が上向けられ、こちらの様子を窺うように、心の内側まで覗き込むかのように群青色の双眸が見上げてくる。
窓から差し込む陽の光に、黒に見えることもある濃い群青の瞳が、明るい透明な海の青さにきらめいて見えた。
永久とも思われる――実際は僅かな時間だったが――沈黙の後、まずは彼の人が口火を切った。
「・・・気に入らないのか?」
君の黒い髪と碧い瞳にとてもよく似合うと思ったのだが、とさらりとものすごい台詞をごくごく普通に言い放ちあそばされた上官殿。
しかも、その顔はいたって無表情なまま。まさに真面目で清廉な上司の姿そのもので。
喋った拍子に切った口の端が痛んだのか、唇に、顎に手をやるその姿に―――その傷の加害者?であるシズリは思わず一瞬、目をそらす。
シズリ自身の良心というものがじくり、じくりと胸の奥を蝕み、良心の呵責なるものを責め立て…苛み始めた。
その顔とその声、台詞は反則です。場外です。Mr.レフリー、タオルぷりーず!ロープ、ロープ!!
長い指が口の端に再び滲んだ血をそっと拭ったかと思えば、はらり、と瞳にかかった前髪をはらう。
前髪の隙間から現れた群青の瞳は透明な蒼さそのもので―――だが、やがて溜息とともにその瞳に憂いと困惑という名の霜が降り、その表情をやや曇らせた。
そっと腕が伸ばされ、シズリの腕の中にあるそれを彼が両の手で広げ、検める。
鮮やかなラベンダー色のワンピース(もちろん丈はミニ)が差し込む陽光の中で、窓の外から吹く風にひらり、ひらりと愛らしく揺れた。
上半身から腰の括れ部分より下にかけては、シンプルながらも身体のラインにぴったり沿うタイトなデザインとなっており、スカート部分はティアード状にふわふわとしたフリルとなっている・・そしてミニ丈。
(上官殿がショーウィンドウ越しに熱心に眺めていたワンピースに似ている気がするのは・・・気のせいだろうか・・??)
だが、彼のその瞳には邪気も二心もなさそうで・・・こちらを窺うその様子に、シズリはだんだんと自分がとてつもなくわがままで疑り深く・・・人の好意を足蹴にして踏み躙る、酷い人間のような気がしてきた。
シズリの着替えがなかろうと、上官殿自らがどうやって手配したのか、衣類一式を調達して下さったというのに・・それを厭うどころか疑うなどと!
――沈黙が痛い。
・・いや、上官殿は無口・無表情が常なることなので、いつものことと言えばそうなのだが・・・だが・・。
黙したままで、ひたすらじぃっと見つめてくる瞳のまっすぐさに、真摯さにこの身を苛まれているかのようで・・・悪いことをしているような気がしてくる。
ちらりと上司の顔を見やれば、口の端と痣が視界に映りこみ・・改めて、先ほどの罪悪感が押し寄せる。
…やっぱり自分が悪い気がしてきた。
たかが私如き者の・・・じゃないか。膝までしかない寝衣と分かってたくせに、そのまま正座なぞするから見えたんじゃないか。
は!!
むしろ粗末なものを見せるなと、何で被害者のこちらが蹴り飛ばされなければいけないのだと思ってた、とか?
実は密かにものすごく憤慨していたにも関わらず、上司らしくこうして優しく手を差し出して下さっているのだとか・・・!?
ありうる!
ありうりますとも!!
先ほどの決意がぐらぐらと揺らいでいったかと思えば…脆く、儚い飴細工の城のようにあっという間に崩れ、溶け落ちていく・・。
その生真面目な瞳にあっさりと懐柔されてしまう自分自身がどれだけお人よしなのか、気づきもせずに。
(※シノノメ少尉への陰なる忠言。自分を疑う前に、まず人を疑いましょう。特に貴女の目の前のその人を!)
上官殿は親切で、部下である自分のことを想って力を尽くしてくれたというのに・・・それに比べて私ときたら!!
その親切心を疑い、あまつさえふざけてるとさえ思うだなんて・・
シズリは改めて考える。
――そもそもの原因はシズリ自身が招いたことなのでは、と。
先のカンザキ少佐との戦闘で魔導符を破りとるためとはいえ、シャツを破き、挙句に血だらけにして駄目にしたのも自分。
雨でずぶぬれになったのだからと、親切にも(?)ショートパンツも脱ぐことを勧めてくれた上司を小さな親切、大きなお世話だとばかりに突っぱねたのも自分。
そして濡れた服も着衣もそのままに(もっとも…なぜ、いつ、どうしてだか覚えていない、のだが)ぐうすかと寝入ってしまったのも自分。
そう、悪いのは自分であり、上官殿ではない。
問題を棚上げし、自らが背負うべき責を上司に向けるというのも甚だ筋違いであり、失礼極まりない。
「やはり、気に入らないのだろうか…?」
「いえ、とんでもないです!ですが・・その・・丈が短い、というか・・・」
「・・・何か言ったかな?」
「いえ、何でもござりませぬ!!・・はい、着ます!喜んで着ますとも!!・・お気遣い、傷み入りますです・・はい・・・」
そして冒頭に戻る、と。
ようやく風も凪ぎ、シズリはスカートの裾から手を離した。包帯に包まれたその手が少しく痛々しくも見える。
だが、上官殿調合の薬液のおかげで昨日の燃えるような痛みが嘘のようにひき――感嘆するとともに感謝の念に堪えない。
「行こうか?」
そのせいか、差し出されたその手に昨日よりは素直に手を預けることができた気がした――。
その手の持ち主が内心にんまりとしていたことも知らぬが仏、ではあったが。
* *
当初の目的通り、クリスピンのいる魔導銃の工房を訪れ、念願の最新型の魔導銃の試作品を預かり、昨日のカンザキ少佐の件や青い光を放つ魔鉱石の坑道については決して口外せぬよう改めて口止めもする。
この件に関しては本部に戻ってから改めて上官殿と相談し、報告書も提出するとともに今後の検討課題とするつもりだ。
隣国の少佐が部下を連れてあんなところで何をしていたのか、そしてなぜシズリ達を襲ったのか・・・甚だ疑問であるし、何やらきな臭いものを感じる。
少なくとも捨て置いておくべき事柄ではないだろうと思われる。
カンザキ少佐―――彼はこれを運命と言った。また会い見えようと。シズリと同じ闇色の髪とシズリと異なる闇色の瞳を持つ男。
蒼い焔の魔剣を携えた男。そして―――・・。
思わずそっと唇を指でなぞる。
いつもの軍服ならば白手に包まれたそれも、素手の今はどこか心もとなく、指先がたどる己の唇もやわらかくもたよりなく感じられた。
それを横目で見つめる男の瞳に歯痒いような、気忙しいような色が一瞬、浮かんだことにも気づきもせず・・・。
ピィィィ――
鳥が鳴くような音が響いたと思えば、バサリ、と羽音が響いた。伝令の合図だ。
目線でヒューバートに問えば、黙したまま頷きが返ってきた。素早く印を切り、合言葉替わりの暗号を早口で唱える。
すると、手の中に真っ白な紙製の折鶴が一羽、舞い降りた。開封し、紙面から浮かび上がる文字にざっと目を走らせた後、ヒューバートに手渡す。
中身を確認した後、折鶴だった紙面がヒューバートの手の上で炎に包まれ、跡形もなく消え去った。
灰すらも残さず、何事もなかったかのように。
「休暇は終わりだ。シノノメ少尉、これより軍部へと即時帰還する」
「は!」
シズリは鉄道の駅へと足を踏み出しかけたが、ぐいっと上司の胸元に引き寄せられ、思わずつんのめりそうになる。
なにを、と抗議しようとしたところでヒューバートが懐から転送陣が描かれた帰還用の魔符を取り出し、印を結びながら詠唱を始めた。
即座に魔力反応による独特の空気が、魔符から放射線状に広がる光が、2人を包み始めた―――。
――が、シズリはそこで先ほど耳にしたばかりのことに、今の現状にひとつ・・・いや、ふたつばかりの素朴な疑問にも包まれる。
上官殿、帰還符持っていらっしゃるのなら別に昨晩、ここに泊まる必要なかったのでは?それに今、休暇って言いましたか??
もしや今回のローザンヌ行きって実はプライベートだったとか?
まさか、まさかの上司部下、2人揃って休暇申請出しやがりましたか??
そんなことしたら一体周囲に何を言われるやらわかってるんですか?悪事千里を走る、ならぬ噂、軍部を走りますよ!?
それこそ光の如き速さで!!
ちょ、一体どういうことか中佐殿、いえ、誰でもいいから説明して下さい―――!!
シズリの内なる叫びも空しく、陣は瞬く間に完成し、2人の姿をその場からかき消したのであった―――。
ようやくローザンヌ編終了!
まさかこんなに話数が伸びるとは思いませんでした・・。
シズリのショートパンツの行方は以前上げた拍手小話にて。
文字数と話数の関係で詰めこみ損ねたのですが、最後のシズリの疑問についてまつわるお話は閑話として書きたい、と思います。
さて、次は新章。漸く他の色んな人を出せるかも、です。