<閑話>彼の想いは彼女の戸惑い
第20話「尻馬にのる男と禁句」のヒューバート視点の箇所です。
ちゃぷん、ちゃぷん―――・・・
室内に水音が響く。
外の嵐がまるで他所事であるかのように、この部屋の内側はしんと静まり・・静けさに満ちていた。
小机の上に置かれた湯桶の前に立つ男と、その背を見つめる女の間に横たわるものはベッドと沈黙のみで。
無口・無表情、氷の男、軍人の鑑などという二つ名で呼ばれる我らが上官殿・・・ヒューバート・ヴァン・ラーツィヒ氏(27歳)はその夜、ある意味絶好調であった。
彼が秘かに恋する副官シズリ・シノノメ(21歳)とひとつ屋根の下、同じ壁の中、後ろ手にドアの鍵ガチャな、え!何ですかそのラブシチュ、それって袋の鼠?まさに鴨ネギとことこですか??な状態で。
この状況に心が躍らないと言ったら――それは嘘だ。大いに間違いなく嘘だし、そうじゃない男がいたならぜひともその正気を疑いたい。
尤も、ヒューバートは無口・無表情が標準装備なもので、いたって真面目な顔にしか見えないが、宿屋の主人を目線のみで脅したあたり・・・いやはや、なかなかどうして・・。
そのとき、ヒューバートは例のごとく無表情という名の面を顔に貼り付けたまま、しかしその実、心はついないほどに浮き立っている自分自身に若干驚きつつも躍る心を極力抑えようとしていた。
そう、冷たき氷の男、と呼ばれている(らしい)自分が、だ。
こんなことは確かに非常に珍しいことで。彼女と出会ってからこういう自分がいることを知り――正直、自分自身驚いている。
先程までのシズリとの攻防の末、彼女の怪我の手当をすることを了承させ、今は宿の主人が準備してくれた薬液で消毒薬と傷薬の調合にとりかかっている。
調合という作業自体、久しぶりだ。だが、薬液などの独特の香りで気分が落ち着いていくのを感じる。
冷静に、そう、冷静に。自分にそう言い聞かせながらひたすら手順通り、正確に手を動かす。
宿の部屋が他にないという公明正大な理由をもとに彼女を説得し、宿屋の主人にご理解頂き(別室の鍵を出そうとしてきたが・・・目で〝お願い〟をしたらこちらの気持ちをよく理解して貰えた模様)、傷の程度を確かめるついでに彼女のシャツのボタンを外すという栄誉に与ることができたのは僥倖と言えよう。
そう、これは怪我をした大切な部下、しかも年若い女性を一人にするわけにはいかないからだ。そして、シャツを脱がせたのもあくまでも怪我の具合を診るため、であり。
決してけしからん、不埒な目的なぞない・・・たぶん。そう自らに言い聞かせる。
勿論、誓って何かやましいことをする気はない。今はまだ、そういった関係ではないし、負傷した上に疲れ切った彼女につけこむようなことはしないつもりだ。
上司として、男として、そして理性ある人間として。
ただ・・・先程まで彼女も今の状況に少なからず警戒をしていた様子だったが・・その様子は傷ついた子猫が爪をたてるようで可愛らしくて・・・少々苛めてしまった気がする。
何より彼女自身、気づいていないようだったが、これまでの〝上司〟としてではなく、〝警戒すべき異性〟として漸く自分を見てくれたようで・・・内心その実嬉しかったりもする。
警戒されて喜ぶ、というのも変だが。
だが―――広げたシャツの下の肩口に広がる魔剣と魔気の痕、左の掌から肘にかけて切り裂いた傷を改めて目の当たりにしたときは・・・痛いほど胸が軋み・・・じわりじわりと怒りが湧き立った。その荒ぶる感情を努めて抑え・・・心を鎮めた。
これでは―――彼女をまた怯えさせてしまうだろうから。
もし一緒にいたならあんな痕は決して受けさせなかったし、自分を喚ぶためにあんな傷を決してつけさせはしせなかった。
ヒューバートを喚んでくれたことはそれだけ信用されている、頼られているということが実感でき―――嬉しいことではあったが―――自らより上位の存在を2つも召喚するには大量の魔法力と媒介を必要としたはずだ・・・それが彼女にどれほどの負担を、痛みを伴わせたことか!こんなことは二度とさせたくない。
そう、二度と。
綺麗な腕だというのに・・・白く、滑らかな手だというのに・・・。
今は大きな傷がその左腕の掌から肘にかけて走っている。肩にはひきつったような傷痕がある。
痕は残させないよう治療するつもりだ。そして、二度とこんな傷など彼女にはついて欲しくない。
彼女の白い肌に痕なぞ残ってほしくない。
だが―――軍人という常に危険を伴う職に就いている以上それは難しい。若い彼女は辞めることなど考えもしていないだろうし、やはり・・・彼女には信頼できる副官としてそばにいてほしい。
彼女を愛しく思う気持ちと同じ軍人として、重宝する副官としてそばに留め置きたいという相反する気持ちがせめぎ合う。
答えは出ない。そして何よりも彼女自身の解は聞くまでもなく明らかで・・・その選択に自分が関わる隙すらないことが分かっているだけに秘かにもどかしくも悔しい。
だからせめて、いついかなるときも最も近くで彼女を守れる存在でありたい。
そう、心からそう思うのだ。
思わず握りしめた拳に力がこもり、自分自身の感情の強さに改めて驚かされる。
この俺が、と。
―――あまり感情が高ぶれば、また無意識で魔刀が出てきかねない。今日なぞは感情の振り幅が大きかったせいか、無意識のうちに出してしまい、それは軍人として、魔刀の主として不適切なことだったと改めて自分自身を戒める。
ゆっくりと拳をほどき、引き結んだ唇をゆるめ、高ぶりかけた感情を抑えるべく再び作業にとりかかる。
ようやくお湯の温度も人肌に近い温度に下がった。温度を確かめながら、薬液を分量通り垂らし、手でかき混ぜながら湯桶の中でタオルを絞る。複数の薬液の入り混じった独特の薬草と薄荷が入り混じったような清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。
それは嗅ぎ慣れた香りで、下士官時代の自分を思い出させる。
未だこの身体に染みついたあの血と土と魔力反応独特の重みのある空気の入り混じった匂い。
それは戦場の、死と生の匂い。暗い記憶の匂い。
消毒薬や傷薬の調合は前線では日常的にやっていたことだ。時には手負となった上司・同僚のために、またあるときは自らのために。
だが・・・淡々とこなしてきたこの作業が、彼女のためとなれば、こんなにも心が浮き立つことに思えるとは思いもしなかった。何かできるということ、彼女の面倒をみることがこんなにも嬉しいことだとは。
親友にも、お前は無表情すぎる、お前の表情筋は他の筋肉に全部持ってかれたんじゃないのか、と言われる自分だが、彼女が下に就いてくれたこの一年で、随分感情の起伏が大きくなり、面に出ることも多くなった気がする。
そして、そんな自分も嫌いではないとさえ思える。だが今は。
今さらながらも頬が緩んでいるのでは、と表情を確かめ、引き締める。
薬液を含んだタオルから一滴、雫が湯桶に落ちる音が静かな部屋にやけに響いて聞こえた。
てきぱきと作業をこなす自分の背中に、彼女のとまどったような、落ち着かない、といった視線を感じ、強く意識する。
いつも控え目で真面目な彼女は腕に負傷したとはいえ、上司に面倒を見て貰うということに抵抗を感じるらしい。
確かに、今の二人の関係は「上司と部下」。
尤も、彼女さえ許してくれるなら、喜んで「上司と部下」以外の関係になるのだが。
いや、むしろ切望していると言えよう。・・・だが、彼女はなかなか手ごわい。
それはこの不調法な自分自身にも大いに理由があるのだろうが。
そして。
ヒューバートは一旦作業をする手を止め、考え込む。
こうして二人きりで無駄に華やかな寝室にいると・・・妙な気分になる。そもそも何だ、このレースとかリボンの少女趣味な寝台は。
昔、当時は幼かった妹に無理矢理読ませられた絵本の挿絵に載っていた物語の王女の寝台のようだ。確か眠りの森の城で眠り続ける姫に王子が接吻したら云々・・とかいう話だったような。
だが、この純白なリネンの白さ、清純そうな乙女趣味なベッドが・・・今はむしろ淫靡に誘う城のように見える。
・・・自分の理性を試してるのか、と聞きたくなる。
再び手を動かし、作業に没頭しているふりをしながら、もやもやする気持ちを抑えようとすれば、先ほど彼女の肌に(さりげなく)触れた自らの指が視界に入る。
傷を検分するために脱がせたシャツの下の肌が白く、そしてこの指先で辿った肌がしっとりと滑らかだったことなどが思い出される。
再び手が止まる。全身がかっと熱くなる。
未だ彼女の視線がこの背にあるというのに。
あの碧い、緑と青の入り混じったような、不思議な色あいの瞳は純粋な信頼感という色でこの俺を見上げていたというのに。
・・・やはり自分の理性を試しているのだろうか。
不穏なことを考えていたせいか、思わずタオルを絞る手に力が入り・・・最初の一枚は手の中で糸くず状に裂けてしまったことは・・ここだけの話だ。
それに・・・親友であり、彼女の兄でもあるミナトにこの姿を見られたら一体何と言われるだろう。
奴のことだ、間違いなく腹を抱えて笑うに違いない。ヒューバートは濃いこげ茶色の髪に空のような青い瞳の親友の顔を思い出す。
「氷のヒューバート、据え膳喰らわず、おあずけ喰らう!こりゃいーわ!!座布団一枚持ってこーい♪」
とか何とか言いながら。
いや。
さすがに・・同室の部屋に持ち込んだこと、怪我の治療のためとはいえ、彼女のシャツを手ずから脱がしたことなどなど・・・もしミナトが知ったなら・・・ただでは済まないだろう。
いや。
正面切って殴りかかられたりするならまだいい。喜んで、と言えば特殊な性癖があるようで語弊があるが・・・彼女のためならいくらでも殴られよう。
そもそも、彼女が負傷したことはそばにいなかった上官である俺の責任でもある。
殴られても文句は言えない。そう思う。
だが―――確か、奴の特技は投げナイフのはず。あんな顔であんな性格の奴だが・・・腕は確かだ。
へらへら笑いながら、まっすぐ前を向いて歩きながら、後ろにぽいっと投げて仕留めているのを見たことがある。殺気の一つも出すこともなく、だ。
―――できれば背後からぶすり、はぜひご遠慮願いたいところだ。
ヒューバートは親友の、その人懐っこい、いかにもいい人でござい、と言った顔が瞬時に軍人のそれになったときの表情を思い出す。
瞳を薄く細めながら敵の寝首を掻くのなぞお手の物だ、と物騒なことを言いながら黒く嗤っていたときの表情を思い出す。
――一体、なぜ奴は暗部に行かなかったのか―――?
そしてミナトは28歳という年齢や中佐という役職にそぐわず・・・まるで20代前半のような童顔をしている。
しかも常に笑顔を絶やさず、社交的で明るい性格のため、知らない者の中には甘く見て取る輩もいるが・・・なめてかかった者は死ぬほど痛い目に遭う。
下士官時代、急遽壁と親友になった相手をその身体から僅か数ミリという絶妙な僅差でナイフで縫い止め、綺麗な人形を作ってみせたことを覚えている。
しかも、にこにこと微笑みを浮かべながら、だ。・・・あれは確か、こともあろうにミナトのことを「○○くさい、○×小僧!」と野次った残念な頭の奴だったが・・・そういえばあれから姿を見ないな・・・。
物騒なことを考えていたせいか、思わずタオルを絞る手に力が入り・・・次の二枚目も手の中で糸くず状に裂けてしまったことは・・ここだけの話だ。
そう、ヒューバートとしては誓って、無理に迫ったり何かするつもりは(一応)なかった。
同じ部屋で彼女の様子を見守り、少々世話をやき、彼女をゆっくりと休ませ、自分はその休息を傍らで、最も近い位置で守るつもりだった。
薬湯でシズリの素肌を清めたり、うっかり手が滑って腕を撫でてしまうというアクシデントがあったりなどなど、役得とばかりにシズリの初心な反応をこっそりと楽しんだりもしたが。
以前よりそうだと思ってはいたことではあったが・・・あることを改めて確信できたというだけでも、十分な収穫だと思っていた。
だから安心して「手当」という名の名目でシズリの素肌を辿るという悪戯を楽しんでいたヒューバートにとって、その名はまさに、禁句で。
だが・・・そのとき思わず取った、衝動的な行動が思わぬ嵐へと導くとは・・・このときのヒューバートは知る由もなかった。
ヒューバート視点の部分を削除した、と後書きで書いたところ、掲載を
ご希望下さる方がちょこちょこいらっしゃったので閑話として載せてみました。
ただ・・元の文章は数百文字だったのに一気に伸びました。
そして、シズリ愛用の仕込みナイフについてといった地味な裏設定を書くこともないまま、代わりにミナト氏に関する記述が出張りましたw
こうして裏設定が追加されていくのかな~、と。
そろそろ登場人物設定紹介とかも必要な頃かな、と思ったりもします。
(何よりも私自身が設定を忘れつつあります・・・。)