尻馬にのる男と禁句(タブー)
ちゃぷん、ちゃぷん―――・・・
室内に水音が響く。
外の嵐がまるで他所事であるかのように、この部屋の内側はしんと静まり・・静けさに満ちていた。
小机の上に置かれた湯桶の前に立つ男と、その背を見つめる女の間に横たわるものはベッドと沈黙のみで。
ヒューバートはシズリをベッドに座らせたまま、こちらに背を向けた状態で薬湯の準備をしている。
仮にも上官殿にそんなことはさせられない、と一度は腰を上げたものの、その目で制されてしまったため、ありがたくその好意に甘えることにする。
さすがに肩には魔剣の傷、そして肘から掌にかけての裂傷がある状態では、いくら両利きだといってもタオルを絞るといった作業にはいささか無理があり。
シズリは手持無沙汰のまま、その広い背をぼんやりと眺めていた。
これまで常に付き従い、見てきたその背は―――いつも黒の軍服に包まれ、すっと伸びた背筋はいつも威厳に満ちていて。
どこか遠く、ある意味自分とは違う世界の特別な人間のように感じていた。
彼は佐官階級の中佐であり、シズリの上官であり、そして氷の魔刀の主という稀有な人間であり・・・遥か隔たれた場所にいる人間なのだと。
でも今は・・・その背が今はこんなにも身近く感じる。
それは・・・どこか不思議な感覚で。
近しく感じるというよりも・・・彼の人が草を踏み分け、花をも散らし、シズリが立つ野へと確実に歩を進めて来ているかのようだと。
それはどこか甘やかで・・・でも、胸につんとした痛みを与え―――伸ばされる腕に、その手に・・・ある種の恐れすら覚えるような感覚だった。
だから―――・・・。
激しい雨音が窓をうがち、吹き荒れる風が獣のような咆哮を上げている。
一方、からりと乾いた室内で、シズリのまだ乾いていない、湿った黒髪から一滴の雨露が髪を伝わり、襟ぐりが広くあいたアンダーの胸元に落ちてきた。
シズリはその生温かくも肌を伝わるぬるい感覚に先程までのぼうっとしていた意識を取り戻し・・・息をついた。
一旦自らの身体を見下ろし・・・傷の手当のため、先程ヒューバートに脱がされたシャツをそっと膝の上に広げてみる。
それはやはり―――洗ったとしても着るには少々・・・いや、かなり躊躇われるような代物になってしまっていて。
まさか泊まりがけになるとは思わなかったので、当然衣服の替えなどない。
明日、上官殿に時間を頂いて街で調達するほかないだろう。
指の腹で布をつ、となぞると、つい先ほどまで汗と雨と血でねばつくように肌に張り付いていたそれは未だじっとりと湿っている。
特に左の袖部分は朱に染まり・・・仕込んでいた魔符を取り出すために自ら引き裂いたとはいえ、ひどい状態で。
ここまでヒューバートが上着を貸してくれて本当によかったと思う。
あの人の好い工房の人達や親切そうなこの宿の主人にこの腕と肩を見咎められようものなら・・・一体どんな騒ぎになったか分かったものではない。
さすがに焔の魔剣を受けたのは初めてだったため、かすった程度であれほどのダメージを受けるとはシズリ自身思いもしなかったが。
むしろ、今後のよい経験と教訓となったかと思う。
無事、戻れた今となれば、だが。
銃で魔剣に相対するのはたとえ魔導銃であろうと、一定の距離がなければそのスピードと魔力においては圧倒的に劣る。
あのときのシズリは銃が使えない狭い坑内であったとはいえ、魔剣相手に歯が立たず・・・最終的には焔の魔剣から烟りたつ魔気に絡め取られ、地に膝をつかざるをえなかった。
尤も―――魔剣自体、この大陸に数本存在するかしないかの希少な存在であるし、あの闇のような色の髪と瞳の男――シノブ・カンザキ少佐――と再び相見えることがあるかどうかすらわからない。
ただ、彼の去り際の言葉も気になるし――対策を講じておいて損はないだろう。
シズリの脳裡をあの闇色がちらつく。
濃く深く・・・あの焔と同じく燃えたつようにシズリを見つめた瞳、重ねられた唇に思わず歯を立てたときでさえ・・・唇に浮かんだ血を舐めとりながら薄く、からかうように笑っていたあの男。
そして・・・あの闇色はシズリと同じ色で・・・あの声は故郷を思い出させた。
だが・・・シズリは思考を止め、頭からあの男を、あの闇色を締め出すべくゆっくりと目を閉じ・・・再度まばたきを繰り返し、思考を切り替える。
――上官殿と魔剣について再度検討する必要があるだろう、とシズリは改めて頭に刻み込むのであった。
そして今回は上官殿への道が一瞬で開いたがそれはたまたまで。
ヒューバートが言うには、そのとき(間違いなく、きっとたまたま!)彼がシズリへと意識を集中していた(らしい・・)からで、すぐさま2人の波動が同調したから瞬時に道が拓き、召喚できただけで。
次は・・・ないかもしれない―――。
何よりもシズリは守られる存在ではなく、守ることができる存在でありたかった。
彼女に課せられた職務はヒューバートの副官であること。
それ即ち彼の手足であり・・・彼を守る一振りの剣であり、楯であること。
でなければ故郷を飛び出して従軍した意味、父や兄を困らせ、悲しませた意味、自らが選んだこの道への意義がなくなってしまう。
掌から肘にかけて広がる刃傷をそっとなぞってみる。
血は固まり、そのおかげで表面上の裂傷は何とか塞がれてはいるが・・・無理をすればすぐさま口をひらきそうだ。
だが、この程度、どうといったことはない。
見た目は派手に血が流れたが、傷自体は浅く、些細なものだと自らの経験で判断する。
荒っぽい軍の前線ではこの程度の傷などさしたるものではない。
だが―――意識のないクリスピンをこの手に抱き起こしたときの絶望・恐怖感がまざまざと甦り、胸の内側を震わせる。
それは人生の半分近くを軍で過ごしたとはいえ・・・年若いシズリにはいつまでたっても慣れることができぬ感覚で。
このような傷は民間人には見慣れぬものだろうし、むしろ慣れてなどほしくない。永遠に無縁なものであってほしい。
未だ、自分の身一つ満足に守れぬ者には傲慢な願いかもしれぬが・・せめて手の届く範囲のものを守れる人間になりたい。
彼の未だ幼い色をたたえた草色の瞳がゆっくりと開き、シズリの顔を映したとき、その小さな唇が彼女の名を呟いたとき・・・心から、切にそう願った。
タオルを絞る音が止み、かちゃかちゃという金属音がした後、再び静寂が室内を包む。
シズリが顔を上げると、タオルと包帯一式を持ったヒューバートの群青の瞳とぱちり、と目があった。
その群青がより濃さを増し・・・北に輝く一等星のように煌めいて見えたのは・・・果たしてシズリの気のせいだったのだろうか。
* * *
・・・き・気まずい・・・。
そう、ものすごく居心地が悪い。
今すぐでんぐり返り、のたうちまわりたいぐらいに恥ずかしく、そして気まずい・・・。
思わず喉の奥から洩れた溜息が・・・まるで・・・そう、甘やかな吐息のようにも聞こえ、喉の奥からくぅぅという声にならない音が漏れる。
それすらもまるで・・・まるで私が・・・!!
(以下自主規制)
シズリは先程までの真剣かつ真面目な心持と雰囲気が一転した、何か・・・決してよくないと思われる今の状況に内心首をひねる。
そもそも!
いくら上司・部下の関係とはいえ、妙齢の若い男女が二人っきりで夜の宿屋の同じ部屋。
しかも私の方は上官殿手ずからにシャツを脱がされ、上半身は軍特製のアンダー1枚という何とも破廉恥極まりない姿。
(膝上丈のショートパンツも濡れているからそれも脱いだらどうだ、とのお気遣いを頂きましたがそこは断固、それこそキッパリ・ハッキリ・スッキリと固辞することを死守いたしました!さすがにそこまで恥知らずにはなれませんとも、ええ。)
しかも、しーかーも!
私が腰掛けるここは、華やかなレースとリボンをドバーンと、あからさますぎるだろう!とツッコみたくなるほどふんだんにあしらったベッドの上。
その私の隣に腰掛け、丁寧に左腕に包帯を巻いて下さる部下思いでお優しい上官殿。
そのお気遣いっぷり、部下の身を案じるお心遣いっぷりに涙がでそうなほどにその手つきは優しく・・丁寧で。
でも。
・・・この状態をおかしいと言わずして、何をおかしいというのだろうか!
まるで・・・まるで私が上官殿を誘惑しているみたいじゃないですか!!(心の叫び)
ちょちょ、(生腕を)すうっと撫でるのはやめて下さい!!
わざとじゃない?血の跡を拭いただけで手が滑った??
分かってます、でも、でも・・・。
いえ、けっこうです。
自分の身体ぐらい自分で拭けますから。
でーすーかーらー・・・せめて向こうでご自身のことにだけ専念していただけるとありがたいのですが・・・。
ヒューバートの瞳がやけに熱っぽく潤んでいるかのように見えてならない。
まるで・・・まるで彼女の面倒を見るのが楽しくてたまらない、というかのように。
きっと彼を招喚するために切り裂いたこの腕を気に病んでいるのだろう・・・シズリはそう自分に言い聞かせる。
でもこんな場所(レースでフリルなダブルベッドの上)でこんな姿(上半身はアンダーのみ)でこんな風に2人きりで・・・普段軍服できっちり首元まで指先すらも白手で覆われた素肌を上官殿に晒すだけでなく、あまつさえ手当をさせるなんて!!
これ以上に恥ずかしいことがあるだろうか・・。
かぁぁぁとまるで音が聞こえそうな勢いで赤らむ頬が、思わず震える背筋がそれは自意識過剰の表れだと自分自身を咎めているかのようで。
包帯を巻きながら、時折素肌に這わされるその指はあくまでも優しく、むしろ気持ちがよいくらいで。
ゆえにむずむずとこそばゆくもあり・・・。
そんな自分が気まずくて、恥ずかしくて・・・シズリは何とか気をそらすべく、真面目な仕事の話題に切り替えるべく、霞みそうになる思考の断片をかき集め、働こうとしない頭に必死にムチ打つ。
きょろきょろと視線を移動させた結果・・・ヒューバートが処置してくれた肩に残る魔剣の痕が視界に入った。
そこは氷の魔刀の主であるヒューバートのこと、魔剣の威力を熟知しており、その処置はいかにも適切で鮮やかだった。
痕は残らないだろう、とは言われたが・・・全身まで燃え広がり、蝕むかのような熱や傷の痛みはこの身に刻まれ、忘れはしないだろう。
ゆえに、魔剣との相対の仕方について使い手としての上官の意見をうかがうべく、シズリは口を開いた。
だが・・・他の者には正しく、適切であろうとも、対ヒューバート的には話題を・・・言葉を、タイミングを間違えた。
「中佐、少々よろしいでしょうか?」
ヒューバートの瞳が、彼の魅力に慣れていなければ瞬時にぐずぐずと蕩けてしまいそうなほどに艶美な色を浮かべてこちらに向けられ、言葉の続きを促す。
シズリはその色気にうっっと気圧されつつも・・頬を真っ赤にそめながらも何とか言を続けた。
「あのぅ・・・カンザキ少佐と焔の魔剣についてなのですが・・・!!え、あの、中佐・・・?」
「手当」という名の名目でシズリの素肌を辿るという悪戯を楽しんでいたヒューバートにとってその名はまさに、ヒューバートという名の虎の尾を踏む禁句で。
しかもそれが思わぬタイミングで、しかも真っ赤に頬を染めたシズリの唇から転がり出たということが・・・先刻にようやっと押さえこんだ燻りにあっという間に嫉妬と言う名の炎をつけた!
ヒューバートはその端正な顔に微笑を浮かべてみせた。
だが、その瞳に浮かぶ焔が彼の心情を真実に語り、暴き出しており・・・シズリは・・・思わず退路を探るが・・・それは無駄な徒労ということで。
上官殿はおっしゃいました。
その顔に凍れる薔薇の如き冷たくも美しい微笑を浮かべながら。
「では、その前にひとつ、君に大事な質問をさせて貰おうか―――。
シノノメ少尉・・・君はあの男が初めての接吻相手だったのかな?」
と。
その声は甘く冷たくも響き・・・シズリの背を、いまこの瞬間をも凍らせるのであった。
ゆるゆると響くその声が、腕に這わされたその指がシズリの退路を奪い・・・閉じ込め、締め付けていく。
退路なーし、船は暗礁に乗り上げました。
しかも前方には大艦隊、進路退路八方ふさがり、ドツボにハマった袋小路の行き止まり。
―――さて、どうしましょう―――・・・・
何とか削って5,000字!
本当はヒューバート視点のものも盛り込みたかったのですが・・話が
コロコロ変わり、文章構造がさらにおかしくなるので別話として公開するかも、です。
(ご要望があれば、ですが・・・)
しかも前半、シズリ視点にするとつい真面目になってしまいました。
ムーンライトで掲載中の現代恋愛モノも更新したかったのですが、
時間が足りなくて。
明日更新できれば、と思います・・・。