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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

気になるクラスメイトのあの子は多分普通じゃない

作者: 唯之助
掲載日:2026/03/11

 深夜の埋立地に、赤色灯が回っていた。


 築三十年はくだらないプレハブ倉庫の周囲を、規制線のテープが囲んでいる。鑑識の白い防護服が、投光器の下でちらちらと動いていた。


 所轄の刑事・三田村は、倉庫の鉄扉の前で足を止めた。


 中から漂ってくるのは、錆びた鉄と、もっと生々しい何かの匂い。嫌というほど嗅いだことがある。二十年この仕事をしていれば、鼻が覚えている。


「状況は」


 先に現場入りしていた後輩の刑事が、手帳をめくりながら答える。


「遺体は十四。全員男性。うち十三体は成人で、身元はまだですが──反社関係の可能性が高いです。刺青、指の欠損、そういった特徴が複数確認されています」


「十四人……」


「はい。死因はバラバラです。刃物による切創、銃創、絞殺、頸椎損傷──ただし、どれも殺傷の手際が異常に的確で……。鑑識によれば、全員がほぼ即死に近い状態だったと」


「一人の犯行か」


「分かりません。ただ──」


 後輩は言葉を切った。


「もう一体、倉庫の外で見つかっています」


「外?」


「裏山です。倉庫から二百メートルほど山に入ったところに──高校生が一人。制服を着ています。学生証も所持していました」


 三田村は眉を寄せた。


「死因は」


「眉間を一発。至近距離からの銃撃です」


 三田村は鉄扉をくぐった。


 投光器が白く照らす倉庫の中は、まるで戦場の跡だった。コンクリートの柱に弾痕。ラックが薙ぎ倒され、床一面に散乱した木箱や梱包材。壁に飛び散った血痕。その中に、十三の遺体がそれぞれの姿勢で倒れている。


 銃で撃たれた者。刃物で切り裂かれた者。首を折られた者。あらゆる手段で、しかしどれも的確に。無駄な傷がない。一人に対して一手段。まるで──手当たり次第にその場の武器を使い、片端から処理していったように。


 三田村は倉庫を出て、裏山に目を向けた。暗い木立の向こうに、もう一つの投光器の光がちらついている。


 倉庫の中で十三人を殺し、そこから逃げた高校生を二百メートル追いかけて、山中で仕留めた。


 一人の人間がそれをやったのだとしたら──。


 分からないことが多すぎた。


 だが一つだけ確かなことがある。


 この埋立地で起きたことは、普通の事件ではない。


         



 時は遡る──。


 昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。


「──だから俺が言ってんのは、カレーにはやっぱ福神漬けだろって話で」


「いやいやいや、らっきょうだって。お前味覚おかしいんじゃねえの」


「味覚おかしいのはお前だろ山崎。なあ白峰、どっち派?」


 藤堂蓮(とうどう れん)は、教室の中央あたりの席から身を乗り出して、窓際の女子生徒に声をかけた。


 白峰凛(しらみね りん)は文庫本から顔を上げ、少しだけ首を傾げた。


「……どっちも好きだけど」


「出た、白峰の平和外交! スイス! お前は教室のスイスだ!」


 蓮がけらけらと笑う。周囲の生徒も笑う。教室に笑い声が広がる。


 藤堂蓮は、このクラスの中心にいる人間だった。


 背は高く、顔立ちは整っていて、何より──明るい。声がでかい。よく笑う。誰にでも気さくに話しかける。教室の空気を作るタイプの人間。ムードメーカーという言葉がそのまま当てはまる男だった。


 文武両道。空手と柔道はどちらも黒帯で段位を持ち、高校の全国大会に出場経験がある。勉強も上位。かといってガリ勉タイプではなく、授業中にふざけて教師に怒られることもある。それでも教師からの信頼は厚い。「藤堂は将来有望だ」と職員室で名前が出る生徒。


 女子にもモテる。が、特定の彼女はいない。


 ──ただし、気になっている子はいる。


 五限目が始まる前、山崎が蓮の肩を叩いた。


「おい、見ろよこれ」


 スマートフォンの画面。ニュースアプリの通知。


 『連続女子高生失踪事件──新たに一名の行方不明を確認。警察は関連を捜査中』


「これで四人目だぜ。やべえって」


「マジかよ……」


 蓮は画面を覗き込んで、眉をひそめた。


「全員同い年くらいなんだろ? 十六から十七って」


「そう。完全に俺らの同世代。うちの近所でも夜のパトロール始まったらしい」


「物騒だな……」


 蓮はスマートフォンを山崎に返し、教室を見回した。それから、窓際の席に目を向けた。


「おーい白峰」


 凛が顔を上げる。


「お前、帰り道一人だろ? 気をつけろよ、マジで。なんだったら途中まで一緒に帰ろうか?」


「……大丈夫だよ。ありがとう」


「いやいや、遠慮すんなって。俺、空手と柔道やってっから、いざとなったら守ってやるよ」


 蓮は力こぶを作るポーズをしてみせた。周りの男子が「出た出た」と笑う。


「藤堂ってほんとそういうとこあるよな」


「なんだよ、悪いかよ」


「いや、いいと思うよ。かっけえじゃん」


 蓮は照れたように頭をかいた。


 白峰凛は小さく笑って、文庫本に視線を戻した。


 ──気になる子がいる、というのとは少し違う。


 蓮は自分でもその感情をうまく言葉にできなかった。


 白峰凛。同じクラス。成績は学年首席。容姿は──率直に言って、この学校にいるのが不自然なほど整っている。黒い髪は長く、肌は白く、目鼻立ちは彫刻のように端正だった。制服の着こなしには一分の隙もなく、背筋が常にまっすぐに伸びている。


 教室での白峰は静かだ。必要以上に喋らず、群れない。かといって暗いわけでもなく、話しかければ柔らかく笑って応じる。誰とも近すぎず、遠すぎない。


 蓮は、あの子のことが──ただ、気になるのだ。目で追ってしまう。


 体育の授業。百メートル走。蓮はぶっちぎりの一位。ゴール直前に振り返ってピースサインをするパフォーマンスをやって、教師に「ふざけるな藤堂」と怒られた。クラスは爆笑だった。


 白峰は六番目にゴール。タイムは平凡。誰も気に留めない順位。


 蓮だけが、スタートの瞬間を見ていた。


 白峰の足が地面を蹴る角度。重心の移し方。蓮は空手と柔道を十年以上やってきた。人間の身体の動かし方には敏感だ。あの動き方は──運動が苦手な人間のそれではなかった。むしろ、速く走れる人間が意図的にペースを落としているように見えた。


 気のせいかもしれない。蓮はそう思った。


 先月の避難訓練。非常ベルが鳴った瞬間、教室にいた全員がわずかに肩を揺らした。突然の大きな音に対する反射。


 白峰だけが、一瞬遅れて肩を動かした。


 変なの、と蓮は思った。だがそれ以上は深追いしなかった。



 蓮はノートを片付けながら、シャープペンシルでノートの端に落書きをしていた。


 白峰の横顔。さらさらと、意外なほど上手に。


「──お前、それ白峰じゃねえの」


 山崎が背後から覗き込んできた。


「うおっ!」


 蓮は慌てて消しゴムで消した。


「見んなよ!」


「いやバッチリ見えたけど。お前白峰のこと好きだろ」


「うるせえ! ……別に、そういうんじゃ──」


「めっちゃ赤くなってんじゃん」


「うるせえって!」


 蓮は山崎の頭を軽くはたいた。山崎が笑いながら逃げる。


 ──好きなのかな。


 蓮は自分に問いかけた。分からない。ただ、あの子のことをもっと知りたいとは思う。


 それだけのことだ。

      


 放課後。


 下駄箱で靴を履き替えた蓮は、校門を出て駅に向かう道を歩いていた。イヤホンをつけて音楽を聴きながら、軽く鼻歌を歌っている。


 大通りを一本それた住宅街の路地。蓮が何気なく角を曲がると──。


 白峰凛が、路地の先を歩いていた。


 同じ制服。すらりとした背中。長い黒髪が、夕方の風にわずかに揺れている。


 蓮の心臓が少しだけ跳ねた。


 ──偶然だ。声かけるか? でも急に話しかけたら変に思われるかな。いや、でも──


 蓮が一歩踏み出そうとした、その時。


 路地の向こうから、黒いハイエースが低い排気音とともに滑り込んできた。


 白峰の数メートル手前で停車。スライドドアが開き、中から四人の男が降りてきた。全員黒い服。顔の下半分をネックウォーマーで覆っている。


 動きに迷いがない。先頭の男が白峰の腕を掴み、二人目が口元に布を押し当てようとする。


 蓮の思考が、一瞬で切り替わった。


 ──ふざけんな。


「おいっ!」


 蓮は叫びながら駆け出した。イヤホンが引きちぎれて落ちた。


「何してんだ! やめろ! 離せ!」


 男たちが動きを止める。想定外の介入者。


 蓮は最初の男に掴みかかった。腕を振り回す──が、これは素人の喧嘩の動きではない。蓮は男の襟を掴み、体重を落として引き込もうとした。柔道の体捌き。


 だが相手は四人いた。


 二人目が蓮の背後に回り込み、首に腕を巻きつけた。スリーパーホールド。蓮は肘を後方に打ち込んで抵抗したが、三人目が蓮の腕を押さえた。


 後頭部に、鈍い衝撃。


 視界が白く弾ける。膝が折れる。意識が遠のいていく。


 最後に見えたのは、白峰凛が男に抱えられてハイエースの中に押し込まれる姿だった。


 ただ──意識が途切れる寸前、蓮は奇妙なことに気づいた。


 白峰は、叫んでいなかった。暴れてもいなかった。


 まるで──されるがままに、身を任せているように見えた。


 なぜだろう。


 その疑問を抱えたまま、蓮の意識は沈んだ。


 


      

 目が覚めると、薄暗い部屋だった。


 蓮はゆっくりと瞼を開いた。頭の奥がずきずきと痛む。後頭部を殴られた記憶が、遅れて蘇ってくる。


 狭い部屋。コンクリートの壁と床。窓はない。天井の裸電球が黄色い光を落としている。倉庫の一室のようだった。


 蓮は床に座っていた。手首が後ろで縛られている。足首も。結束バンド。


 部屋の中には──もう一人。


 白峰凛が、蓮から二メートルほど離れた壁際に座らされていた。全身に目の粗い布──麻袋のようなものが被せられている。頭から膝のあたりまで覆われていて、顔が見えない。手足は蓮と同じように拘束されている。


 周囲に男たちの姿はなかった。部屋の外から微かに話し声が聞こえるだけだ。


「……白峰? 白峰、起きてるか?」


 蓮は声をかけた。喉が乾いている。


 布の下から、小さな声が返ってきた。


「……藤堂くん?」


「ああ。良かった、意識あるんだな。怪我は?」


「……分からない。頭がぼんやりする」


「薬だな、多分。布被せられてるの見えるか? 俺が今取ってやるから──」


 蓮は手首の拘束を確認した。結束バンド。きついが──少しだけ遊びがある。


 蓮は手首を回した。空手の鍛錬で手首の柔軟性には自信がある。結束バンドの輪の中で手のひらを細くすぼめ、親指の付け根を押し込むようにして──。


 ぱきん、と結束バンドが外れた。


「……よし」


 手首が自由になった。続いて足首の結束バンドも外す。こちらは手が使えるので簡単だった。


 蓮は立ち上がり、白峰に駆け寄った。


 布を持ち上げて、どける。


 白峰の顔が現れた。髪が乱れ、頬が少し赤くなっている。だが目立った外傷はない。目が蓮を見上げていた。怯えた目。少しだけ潤んでいる。


「大丈夫か?」


「……うん」


「今ほどいてやるからな。ちょっと待ってろ」


 蓮は白峰の手首の拘束を確認した。──結束バンドが二重。しかも蓮のものより太い。指だけでどうにかなる強度ではなかった。足首も同様。


「くそ……硬すぎる。刃物がないと無理だ」


「……私は大丈夫だから、藤堂くんだけ逃げて」


「馬鹿言うなよ」


 蓮は即座に否定した。笑って。


「置いてけるわけないだろ。──よし、こうしよう。俺が背負う」


「え──」


「このまま部屋の外に出て、出口を探す。走るのは俺に任せろ。柔道部の合宿でもっと重いもん担いで走ってたから」


 蓮は白峰の前にしゃがみ、背中を向けた。


「ほら。おぶさって。……ああ、手縛られてるか。じゃあ抱える方がいいな」


 蓮は白峰の体を抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこの形。


「重くないよな? ……いや、ごめん。今のなし。体重の話は禁止だった」


 白峰がかすかに笑った。こんな状況なのに。


「……ふふ」


「お。笑った。よし、大丈夫だ。笑えるならなんとかなる」


 蓮は部屋のドアに近づいた。取っ手に手をかける。鍵は──かかっていない。


 ゆっくりとドアを開ける。薄暗い廊下。左右にいくつかの扉。照明は裸電球が数個だけ。倉庫の通路らしい。


 右の方角から外の空気のにおいがかすかにした。


「──あっちだ」


 蓮は足音を殺しながら、凛を抱えて右へ進んだ。


 廊下を抜けると、広いスペースに出た。倉庫の本体。天井が高い。棚やラック。積まれた木箱。奥に──鉄の引き戸。出入口だ。


 蓮は引き戸に向かって歩を速めた。あと十メートル。八メートル。五メートル──。


「おいおい」


 声が、前方から聞こえた。


「何処に逃げようってんだい、坊主」


 引き戸の手前に、男が一人立っていた。短く刈り込んだ髪。サングラス。革のジャケット。路地にいた男たちとは別の、もっと上の立場の人間に見える。


 蓮が振り返ると──背後の廊下から、ぞろぞろと男たちが姿を現した。


 五人。八人。十人──十三人。


 全員が蓮と白峰を囲むように、扇形に展開した。武装している者もいる。腰にナイフを差した者。ジャケットの下に銃のホルスターが見える者。鉄パイプや警棒を手にしている者。


 蓮の足が止まった。


 十三人。腕に自信はある。空手も柔道も全国レベル。一対一なら大抵の大人には負けない。


 だが十三人は、無理だ。しかも武装している。


 蓮の腕の中で、白峰が小さく息を呑んだ。


「悪いこと言わねえから」


 先頭の男が言った。薄笑い。


「そのお嬢ちゃんを渡せ」


 沈黙。


 蓮は白峰を見下ろした。白峰は蓮を見上げている。怯えた目。不安げに唇を結んでいる。


 ──どうする。


 蓮は周囲を見回した。逃げ道はない。出入口は男が塞いでいる。背後も人で埋まっている。天窓は高すぎる。凛を抱えたまま突破するのは不可能。


 数秒の沈黙。


 蓮が──凛を、床に下ろした。


 そっと。丁寧に。壊れ物を扱うように。


 凛を下ろし、一歩、後退った。


 白峰が蓮を見上げた。


 蓮の表情は──苦渋に歪んでいた。仲間を見捨てる苦しみ。どうにもならない現実に押し潰される悔しさ。


 ──に、見えた。    


「すまんな、助かるぜ坊主──」


 先頭の男が蓮に向かって頭を下げた。

 そして一言付け足す。


「──いや、ボス」


「うん。どういたしまして」 


 ごく当たり前のように蓮が言葉を返す。


 蓮の声が変わっていた。


 いや、変わった、というのは正確ではない。声の高さも速度も同じだ。明るく、軽く、いつも教室で聞いているのと同じトーン。


 だが──意味が、まるで違った。


「あはははっ!」


 蓮は笑った。朗らかに。教室で山崎とカレーの話をしている時と同じ顔で。


 凛は床に座ったまま、蓮を見上げていた。


「どう?」


 蓮は凛の前にしゃがんだ。顔を覗き込む。


「驚いてくれたかい?」


 にっこり。


「サプライズってヤツだよ。君の驚く姿が見たくてね」


 蓮は立ち上がり、両手を広げた。まるで舞台の上の俳優のように。


「いやあ、我ながら名演技だったと思うよ。路地で助けに入ったとこなんか特に。あれ練習したんだ。鏡の前で。──でもまあ、一番の見せ場はさっきの脱出劇だよな。お姫様抱っこまでしちゃってさ。恥ずかしかった?」


 凛は何も言わなかった。


「あ、手首の結束バンド。あれ最初から細いのにしておいたんだ。俺だけ外しやすいように。芸が細かいだろ?」


 蓮は構成員たちの間を歩き回りながら、講釈を続けた。教壇で発表をしている学生のように、身振り手振りを交えて。


「状況は理解してくれた? それとも混乱しちゃってそれどころじゃない? まぁいいや。それよりもさ。君がこれからどういう運命を辿るか、教えてあげようか?」


 蓮は棚の一つを開けた。中には注射器、薬品の瓶、ビデオカメラ、真空パック用の器具が整然と並んでいた。


「まず、薬を打つ。意識はあるけど体が動かなくなるやつ。それから時間をかけて『作品』を作る。俺には芸術家としてのこだわりがあってね。急いだら良いものは作れない」


 蓮はビデオカメラを手に取り、電源を入れた。


「完成した作品は保存する。俺のコレクションに加える。今まで五つ作った。ニュースで見ただろ? 女の子が四人行方不明になってるってやつ。あれ全部俺。──あ、ニュースでは四人だけど、実際は五人ね。一人はまだ見つかってない」


 蓮はそれを、友達に旅行の土産話をするような口調で語った。


「使い終わったパーツは組織のルートで処理する。東南アジアに三つルートがあってね。臓器は一つずつ値段がつくんだ。目玉なんか意外と高く売れるんだよ。知ってた?」


 蓮は凛の前に戻り、またしゃがんだ。


「どうかな? 楽しみになってきた?」


 蓮が朗らかな笑みを浮かべた。


 教室で何度も見た笑顔。友達に冗談を言う時の笑顔。「お前白峰のこと好きだろ」と言われて照れた時の笑顔。


 あの笑顔の裏に──ずっとこれが隠れていた。


         


 


 藤堂蓮。

 彼は、生まれつきの捕食者だった。


 物心ついた頃から、蓮には「共感」がなかった。泣いている子供を見ても何も感じない。人が怪我をしても痛みの概念が理解できない。動物が苦しんでいる姿を見ると、ただ観察してしまう。


 だが──蓮は幼い頃から、それが異常であることを理解していた。周囲の子供たちは泣き、笑い、怒り、共感し合っている。自分にはそれがない。そしてその欠落が露見すれば、面倒なことになる。


 だから蓮は、演技を覚えた。


 ただし蓮の演技は、旧来の「暗い目をした少年が無理に笑みを作る」というものではなかった。蓮は最初から「明るい人間」を演じた。よく笑い、よく喋り、人を褒め、冗談を言う。元気で快活な少年。


 理由は単純だ。明るい人間は疑われない。暗い人間は観察される。


 小学校に入る頃には、蓮のカモフラージュは完璧だった。クラスの人気者。先生に好かれる。「蓮くんは将来大物になる」と保護者会で言われるような子供。


 空手と柔道を始めたのもカモフラージュの一環だった。スポーツに打ち込む明るい少年。それが蓮の望む人物像。結果として蓮は両方の才能を発揮し、全国レベルに上り詰めた。才能はカモフラージュのために使うもの。蓮にとってはそれだけだった。


 蓮が卓越していたのはスポーツのみではない。勉学にも優れていた。知能指数は150以上。これを知るのは彼と彼の両親のみだ。学校のクラスメイトは勿論、教師も知らない事実である。


 幼い時分より、共感がないことが異常であると理解し、それをひた隠す、生まれついての怪物だった。


 そんな彼だが、唯一、好奇心だけは旺盛であったのは、ある意味で不幸とも言えるだろう。


 最初の「実験」は小学校低学年の時だ。

 近所で猫が死んでいるのが見つかった。腹部が綺麗に切り開かれていた。犯人は不明。蓮にとってあれは殺しではなく解剖だった。中身を見たかった。構造を知りたかった。恐怖も罪悪感もなかった。


 中学に入って、蓮の「実験」は人間に向いた。


 ただし──直接手は下さなかった。


 最初の標的は、いじめられていた同級生のA。蓮はAに近づいた。友達になった。守るふりをした。Aにとって蓮は唯一の味方だった。


 同時に蓮は裏で、Aをいじめていたグループに情報を流した。Aの弱点。Aが一番傷つく言葉。Aが隠していた秘密。いじめはエスカレートした。Aは蓮だけを信頼し、蓮だけにすがった。


 蓮はある日、距離を置いた。唐突に。理由を告げずに。


 唯一の味方を失ったAは──自ら命を絶った。


 蓮はAの葬儀で泣いた。クラスで一番泣いた。「蓮はAの親友だったから」と周囲は同情した。


 蓮にとってそれは、人間の精神がどこまで追い込まれると壊れるかの実験データだった。


 二人目の標的は、クラスの人気者だった女子生徒B。蓮はBに告白された。付き合うふりをしながら、BのSNSアカウントに細工し、Bの友人関係を一人ずつ破壊していった。噂の流布、誤解の誘発、信頼の切断。半年後、Bは完全に孤立し、転校した。蓮はBの壊れていく過程をノートに記録していた。


 蓮はこれらの「実験」から学んだ。人間を直接殺すよりも精神を壊す方が面白い。だが同時に、もっと直接的なことへの欲望が蓄積されていくのも感じていた。


 高校一年の時、蓮は半グレ崩れの小規模な犯罪組織を乗っ取った。暴力ではなく心理操作。幹部同士を対立させ、金の流れを操作し、弱みを一人ずつ握り、半年かけて組織を完全に掌握した。誰も黒幕が高校生だとは知らなかった。


 組織を得たことで、証拠の隠滅やアリバイの工作が容易になった。ここから蓮は直接的な犯行に移った。


 組織のしのぎも蓮の手で拡大した。元々は薬物と恐喝程度だったものを、武器の密造、違法賭博、臓器売買、スナッフビデオの制作・販売、人間の剥製標本の好事家への売却にまで広げた。


 蓮にとって組織は「自分の芸術活動を支えるインフラ」であり、金は副産物。


 白峰凛に興味を持ったのは──蓮自身が格闘技をやっているからこそだった。あの重心移動。あの反応速度の不自然さ。「ただの運動神経」では説明がつかない何かがある。


 だからこそ面白い「素材」だと思った。


 蓮が凛をターゲットに選んだ理由は、美しさだけではない。


 ──この女は、何かを隠している。


 その秘密を、壊しながら暴いてみたい。


 それが、藤堂蓮の本心だった。



         


 生い立ちのことを考えるのは、蓮の癖だった。


 自分が何者であるかを確認する作業。朝、鏡の前で笑顔を作るのと同じ。日課のようなもの。


 蓮は凛の顔を観察していた。


 ここまでの話──自分の正体、犯行の詳細、これから凛に何をするかの予告──を全て聞いた後の、白峰凛の顔を。


 表面上は怯えた表情をしている。唇を噛み、眉を寄せ、肩が小さく震えている。


 だが──何かが違う。


 蓮はこれまで五人の「素材」を扱ってきた。全員が、正体を明かした時点で壊れた。泣き叫ぶか、失禁するか、過呼吸を起こすか。人間が極度の恐怖に晒された時の反応は、個人差はあれどパターンがある。


 白峰凛は、そのどれにも当てはまらなかった。


 怯えているように見える。だが──作り物だ。蓮にはわかる。蓮自身が十七年間やってきたことだから。パーツを組み合わせて表情を作る。「怯えた人間はこういう顔をする」という知識に基づいて、顔面の筋肉を動かす。


 白峰凛がやっているのは、それと同じことだ。


「──ねえ、白峰さん」


 蓮の笑みが消えなかった。だが目の奥に、初めて本物の感情が灯った。好奇心。


「君、怖くないの?」


 凛は答えなかった。


 その沈黙の長さが──蓮の中の何かを刺激した。


 蓮は凛の手首に視線を落とした。


 後ろ手に拘束されているはず。結束バンドが二重。先ほど自分が確認した。


 ──空だった。


 結束バンドが──ない。引きちぎられたプラスチックの破片が、床に散らばっている。いつの間に。蓮には見えなかった。聞こえなかった。


 足首にも目を向ける。同じだ。引きちぎられている。


 蓮が顔を上げた時──凛はすでに立ち上がっていた。


 次の瞬間。


 凛の右手が、最も近くにいた構成員の喉元を抉った。


 声もなかった。抉られた男は口を開閉させ、喉を押さえて崩れ落ちた。気管が潰れている。


 倉庫の空気が凍った。


「──なっ」


「何だ?」


「おい、あの女──」


 構成員たちに戦慄が走った。一瞬の混乱。そしてすぐに、訓練された──いや、場数を踏んだ人間特有の反応。臨戦態勢。


 銃を抜く者。ナイフを構える者。警棒を握る者。鉄パイプを手にする者。


 十二人が、一人の女子高生を囲んだ。


 白峰凛は、その中心に立っていた。


 背筋はまっすぐで、重心は低い。両足は肩幅より少し広い。構えとすら呼べないほど自然な立ち姿。だがその一つ一つの要素が、合理的に戦闘態勢を形成している。


 凛の目が変わっていた。教室で見せるどの表情とも違う。感情の不在。人間を見ていない目。排除すべき障害物を見ている目。


「ボス、危ないから後ろ下がっとけ!」


 構成員の一人が叫んだ。


 蓮は後方に下がった。棚の陰に身を置く。


 そして──戦闘が始まった。


         

 最初の一人は、すでに倒れていた。喉を抉られた男。残り十二人。


 凛が動いた。


 二人目。凛の最も近くにいた男。ナイフを構えていた。距離は二メートル。男がナイフを突き出すよりも速く、凛は男の手首を掴み、ねじり、ナイフを奪い取った。同じナイフで男の首筋を一閃。血が弧を描いて飛んだ。


 ここまで一・五秒。


 三人目と四人目が左右から同時に襲いかかった。三人目は鉄パイプ。四人目は警棒。凛は三人目のスイングを身体半分でかわし、四人目の警棒を持つ腕を蹴り上げた。警棒が天井に向かって飛ぶ。凛は回転しながら三人目の膝裏を蹴り、バランスを崩させたところでナイフを腎臓に突き立てた。四人目の顎に掌底。頸椎が鳴った。


 五人目が銃を抜いた。


 銃声が倉庫に反響した。


 凛は発砲の前に移動を完了していた。引き金を引く際の微細な予兆──手首の角度、指の力み、肩の固定──を読み、弾道を先回りする。弾丸は凛のいた場所を通過し、コンクリートの壁に着弾した。


 凛は五人目に突進した。銃を持つ手首を掴み、ねじり上げ、指の骨を折った。銃が落ちる前に空中でキャッチ。そのまま六人目──棚の陰から銃を構えていた男──の眉間に一発。


 七人目がナイフで背後から斬りかかった。凛は振り向かずに肘を後方に突き出し、七人目の鳩尾を打った。男が前屈みになったところで後頭部を掴み、膝に叩きつけた。


 八人目と九人目が連携して挟み撃ちを仕掛けた。凛は棚のラックを蹴り倒し、八人目の足を絡ませた。転倒した八人目の上を跳び越え、九人目の顔面に膝蹴り。着地と同時に振り返り、倒れた八人目の首を踏んだ。


 ここまで約二十秒。


 残りは四人。全員が距離を取っていた。もう突っ込んでくる者はいない。恐怖が勝っている。


 二人が銃を構えていた。残り二人はナイフと鉄パイプ。


 銃を持った男が発砲した。二発。三発。凛は棚を盾にし、隙間から身を乗り出して応射。一発。男の肩を撃ち抜いた。銃が落ちる。もう一人の銃持ちが撃つ。凛は柱の陰に入り、反対側から回り込んで背後を取った。首に腕を巻きつけ、一回転。頸椎の音。


 ナイフの男が叫びながら突進してきた。やけくそだ。凛は半歩横にずれ、男の突進の勢いを利用して腕を極め、自分のナイフで男の脇腹を刺した。


 最後の一人──鉄パイプの男──は、すでに逃げようとしていた。出入口に向かって走っている。


 凛は手にした銃を構えた。


 一発。男の後頭部。走っていた体がつんのめり、倒れて動かなくなった。


 沈黙。


 倉庫の中に、立っている人間は二人だけになった。


 白峰凛と──藤堂蓮。


 凛は息を一つ吐いた。それだけだった。呼吸の乱れはない。手の震えもない。制服に血が飛んでいるが、凛自身は無傷だった。


 十三人を、約三十秒で殲滅した。


 蓮は棚の陰からそのすべてを見ていた。


 最初は驚愕。目が見開かれた。


 次に困惑。これは何だ。何が起きている。


 そして──感嘆。


 あの動き。蓮は空手と柔道を十年以上やってきた。全国大会に出た。だが──白峰凛の動きは、蓮がこれまで見たどんな格闘技とも違っていた。


 競技ではない。実戦ですらない。もっと純粋な何か。殺すために最適化された動き。無駄が一切ない。人間の体の壊し方を、完全に理解している動き。


 蓮は理解した。


 ──勝てない。


 この女には、どう足掻いても勝てない。


 蓮は倉庫の裏口に目を向けた。戦闘の混乱で、裏口付近に人影はない。


 ──逃げよう。


 恐怖ではなかった。蓮の心臓は確かに速く打っていたが、それは恐怖の脈拍ではなく──興奮の脈拍だった。


 白峰凛。あの女は一体何者なのか。あの戦闘能力はどこで身につけたものなのか。何のために。誰のために。


 知りたい。暴きたい。理解したい。


 今日は逃げる。そしてもう一度、一から計画を立て直す。調べ上げる。白峰凛の正体を。


 そのための──戦略的撤退だ。


 凛が最後の一人を射殺した直後、蓮は棚の陰から裏口に向かって走り出した。


 全力疾走。全国レベルの身体能力。迷いはない。


 裏口の鉄扉を体当たりで開け、夜の空気に飛び出した。倉庫の裏手。すぐ先に暗い山の斜面が広がっている。


 蓮は山に向かって走った。


 

        


 裏山。夜の山道。

 蓮は木々の間を走っていた。足場は悪い。根が張り出し、落ち葉が湿っている。だが蓮の体力は十分だった。空手と柔道で鍛え上げた心肺機能。暗闇の中でも、足元を確認しながら速度を維持できる。


 蓮の頭脳は、走りながら高速で回転していた。


 ──組織は壊滅した。十三人全員やられた。だが俺は無傷だ。金もルートも情報も、俺の頭の中にある。一から作り直せる。


 ──白峰凛。あの女は何者だ。軍人か? 傭兵か? それとも──もっと別の何かか。


 ──調べてやる。次はもっと慎重に。もっと周到に。あの女の正体を──


 背後から、音がした。


 枝を踏む音。だが蓮の足音とは違う。もっと軽い。もっと速い。


 蓮は走りながら振り返った。


 暗闇の中に、白い影が見えた。


 制服。血に汚れた白いブラウス。黒い髪。


 白峰凛が、木々の間を縫うように走ってきていた。


 ──速い。


 蓮は全力で走っている。全国レベルのスプリント。なのに──差が、縮まっている。


 凛の走りには、足音がほとんどなかった。枝を踏まない。根を避ける。暗闇の中で、まるで道が見えているかのように。人間の走り方ではなかった。獣の走り方だった。


 ──追いつかれる。


 蓮は悟った。このまま走り続けても逃げ切れない。


 ならば。


 蓮は急停止した。振り返り、構えた。


 空手の構え。左足を前に、右足を後ろに。重心を落とし、両拳を顎の高さに上げる。全国大会の準決勝で見せた、あの構え。


 凛が蓮の間合いの手前で止まった。五メートルの距離。


 月明かりが木々の隙間から差し込んでいた。凛の顔が薄く照らされている。表情はない。教室のどの顔とも違う。


 凛の右手に、銃があった。倉庫から持ち出したもの。だが銃を構えてはいなかった。腕は下ろしたまま、ただ蓮を見ている。


 蓮は笑った。朗らかに。いつもの笑顔で。


「──やっぱ追いつかれたか。速いなぁ白峰さん」


 凛は答えなかった。


「一個だけ試させてくれよ。空手と柔道、一応これでも全国レベルなんだ。君にどこまで通用するか──知りたい」


 蓮は踏み込んだ。


 右のストレート。全体重を乗せた一撃。空手の正拳突き。全国大会で相手を一発でマットに沈めた、蓮の最高の一打。


 凛は──片手で受け止めた。


 蓮の拳が凛の掌に吸い込まれ、止まった。衝撃が凛の腕に伝わった気配がない。完全に殺されている。


 ──嘘だろ。


 蓮は即座に左の回し蹴りに繋げた。柔道から空手へのコンビネーション。脚が凛の頭部に向かう──


 凛は蓮の蹴り足を掴み、そのまま軸足を払った。蓮のバランスが崩壊し、体が宙に浮いた。凛の手が蓮の襟を掴み、地面に叩きつけた。


 背中から落ちた衝撃で、蓮の肺から空気が抜けた。


 あっさりと。


 全国レベルの空手と柔道が──子供の遊びのように、処理された。


 蓮は仰向けに倒れ、夜空を見上げていた。木々の隙間から星が見える。背中が痛い。だが骨は折れていない。凛が手加減したのだ。


 凛が蓮の顔を見下ろしていた。


 右手の銃が、蓮の眉間に向けられていた。


 蓮は──笑った。


 地面に仰向けに転がったまま。朗らかに。教室にいる時と同じ笑顔で。


「凛さん」


 初めて、名前で呼んだ。


「あんたは一体なんなんだ?」


 純粋な好奇心だった。恐怖ではない。怒りでもない。自分を殺そうとしている人間に対して、心の底から知りたいと思っている。


「知る必要はない」


 凛の声は平坦だった。感情がない。教室で「消しゴム貸して」と言われた時と同じ温度。


「つれないなぁ」


 蓮は笑った。


「教えてくれたっていいだろ。どうせ俺を殺すなら──」


「知る必要はない」


 同じ言葉が繰り返された。凛の目に、蓮を見下ろす以外の感情はなかった。


 蓮は目を閉じた。


 ──まあ、いいか。


 ──面白かったよ、白峰凛。


 ──今まで生きてきた中で、一番。


 銃声が、夜の山に一度だけ響いた。


        



 午前三時。


 白峰凛は、自宅のアパートに戻っていた。


 一DKの質素な部屋。家具は最低限。壁には何も飾られていない。生活の匂いが希薄な空間。


 凛はシャワーを浴び、血の付いた制服をビニール袋に入れた。処理班が回収する。替えの制服はクローゼットに二着ある。


 ノートパソコンを開き、暗号化通信アプリを起動した。


 回線が繋がる。画面の向こうに、声だけの存在。上司。コードネームのみで呼び合う関係。凛は上司の本名も顔も知らない。


「〇七三、報告を」


 低い声。男性。中年。それ以上の情報はない。


「カバー活動中に不慮の事故に巻き込まれました。潜入先の高校のクラスメイトが犯罪組織のトップで、私をターゲットとした拉致を実行。やむを得ず現場で対処しました」


「被害は」


「犯罪組織の構成員十三名を排除。首謀者の高校生一名を排除。計十四名。カバーへの影響は限定的と判断しています。私の関与を示す物証は処理班が対応中です」


「任務への影響は」


「ありません」


 短い沈黙。


「──了解した。報告書は通常フォーマットで提出。カバーは維持。次の指示まで待機」


「了解」


 通信が切れる──前に、上司が付け加えた。


「〇七三」


「はい」


「……いや。何でもない。待機を続けろ」


 通信が切れた。


      


 上司は通信を切った後、デスクのモニターに向き直った。


 薄暗い執務室。壁にも窓にも何の装飾もない。机の上にあるのはモニター二台と、暗号化通信端末と、灰皿だけ。


 上司はモニターの一つで、〇七三──白峰凛のファイルを開いた。


 機密等級:最高位。閲覧には三段階の認証が必要。


 ファイルが展開される。


  ──────────────────


 被験体管理番号:〇七三


 現行コードネーム:白峰凛(日本潜入用カバーID)


 実年齢:二十三歳


 外見年齢:十七歳前後(成長ホルモン制御処置による)


 所属:第七特務部隊 実行班


 ──────────────────


 【出自】


 大陸奥地の非公式施設「黎明」にて管理。施設は公式記録上存在しない。地上部は廃棄軍事工場を偽装。地下六階に被験体管理区画を有する。


 三歳時に収容。出自は戦災孤児。収容前の記録は存在しない。


 同期被験体数:一〇八名


 最終生存数:十一名


 〇七三は生存者中、適性評価最上位。


 【身体強化処置履歴】


 五歳:骨膜化合物注入処置。骨密度を通常値の約一・七倍に強化。同処置の被験体生存率──六〇%。


 六歳:筋繊維再構築処置。合成タンパク質投与および電気刺激による筋密度強化。通常値の約二倍。副作用として半年間の全身筋肉痛。歩行困難期間あり。


 七歳:神経系調整処置。脊髄への微量薬物投与により反射速度を向上。通常人の反応速度〇・二五秒に対し、処置後〇・〇八秒。副作用として手指の慢性震顫が発生。後に投薬で抑制。


 八歳:心肺機能強化処置。赤血球の酸素運搬能力を人工的に増強。持久力は通常人の約三倍。


 【訓練履歴】


 格闘技術(複数流派の統合型実戦格闘)、射撃(拳銃、小銃、狙撃銃)、爆発物取扱、刃物戦闘、拷問耐性訓練、尋問技術、潜入工作基礎・応用、語学(日本語、英語、ロシア語、アラビア語──いずれもネイティブレベル)、暗号通信、監視・反監視技術、毒物学基礎、応急医療。


 訓練時間:一日十六時間(十歳まで)。以降、実戦投入との併用。


 【実戦記録】


 十歳:初の実戦投入。詳細は別添ファイル参照(閲覧等級:特甲)。


 十五歳:第七特務部隊に正式編入。以降の作戦参加記録は別添。


 主要任務:仮想敵国内における要人排除、敵対組織壊滅、高価値目標の拉致、情報収集。


 【日本潜入任務】


 二年前より潜入開始。カバーIDとして偽造戸籍・経歴を付与。県立高校に在学し、カバーを維持中。


 任務内容:戦力を必要とする作戦の待機要員。諜報要員は別途配置。〇七三は主に実行任務を担当。


 【心理評価】


 感情反応:極めて低い。施設での訓練過程で感情の大部分が抑制されている。


 共感能力:測定不能。


 忠誠度:高い。ただし「忠誠」の定義が通常と異なる──命令を遂行するという行動パターンが確立されているだけであり、組織への帰属意識や愛着に基づくものではない。


 特記事項:直近三年間の報告書において、任務規定外の判断が微増傾向。逸脱の範囲は許容内だが、継続観察を推奨。


 ──────────────────


 上司はファイルを閉じた。


 煙草に火をつけ、煙を吐いた。


 ──〇七三は優秀だ。成功体の中でも最上位。替えが利かない。


 だが──「不慮の事故」か。


 報告書の文面に嘘はないだろう。〇七三は嘘をつく必要がない。任務に支障がない限り、何を排除しようが上は問わない。


 ただ──上司が気になったのは、報告書の内容ではなかった。


 通信の最後。〇七三の声のトーンに、微かな──本当に微かな揺らぎがあった。


 〇七三の声は常に平坦だ。感情がない。報告も質問も同じ温度で行う。それが通常の〇七三だ。


 だが今夜の最後の「了解」には──何かが混じっていた。上司にはそれが何か分からなかった。怒りでも悲しみでも恐怖でもない。


 もしかしたら──何でもないのかもしれない。通信のノイズか、上司の聞き間違いかもしれない。


 上司はそれ以上考えることをやめた。


 灰皿に煙草を押しつけ、モニターの電源を落とした。


         




 朝の教室は、いつもと変わらなかった。


 窓から差し込む光。ざわめく声。椅子を引く音。スマートフォンの通知音。


 白峰凛は、いつもの時間に教室に入った。


 鞄を机に置き、椅子に座る。背筋はまっすぐで、長い黒髪が背中に流れている。制服には皺一つない。昨日の制服とは別のもの。だが誰も気づかない。


「おはよう、白峰さん」


 隣の席の女子生徒が声をかけた。


「おはよう」


 凛は柔らかく笑って答えた。いつもと同じ笑顔。


 ホームルーム前の喧騒の中、山崎がスマートフォンを見ながら声を上げた。


「おい見ろよ。また事件だ。──倉庫で大量の遺体が見つかったって。十何人とかヤバくない?」


 教室がざわついた。


「しかも裏山で高校生の遺体もって……」


「高校生? マジで?」


「身元はまだ公開されてないってさ」


 不安と好奇心が入り混じった声が教室に広がる。


 山崎がふと、蓮の席を見た。


 空席。


「──そういえば藤堂、今日休みか?」


「知らね。RINEも既読つかねえし」


「珍しいな。あいつが学校休むとか記憶にないんだけど」


「てか、藤堂いないと教室静かだな……」


「昼飯一緒に食う約束してたのにな」


「まあ明日は来るだろ」


 それだけだった。


 空席一つ。教室のムードメーカーがいない、いつもより少しだけ静かな朝。


 だがそれも、ホームルームが始まれば日常に埋もれていく。人一人がいなくなっても、世界は変わらない。


 白峰凛は窓際の自分の席で、文庫本を開いていた。


 ページをめくる指は白く、細く、昨夜十四人の人間を殺した手とは思えないほど穏やかだった。


 窓の外は晴れていた。校庭のグラウンドを、体育の授業に向かう生徒たちが横切っていく。春の風が桜の花びらを運んできて、開いた窓から一枚、凛の机の上に落ちた。


 凛はそれを指先で摘み上げ、しばらく見つめた。


 それから窓の外に指を伸ばし、風に返した。


 花びらが飛んでいく。


 凛の目がそれを追った。その瞳に何が映っていたのかは、誰にも分からない。


 チャイムが鳴った。


 ホームルームが始まる。


 白峰凛は文庫本を閉じ、前を向いた。


 完璧な女子高生の一日が、また始まる。


         




 深夜の埋立地。


 三田村刑事は、倉庫を出た後も車の中で報告書を読み返していた。


 十四の遺体。うち十三体は三十代から四十代の男性。過去の犯罪歴を持つ者が複数。暴力団関連の特徴。死因は銃、刃物、素手と多岐にわたるが、どれも異常に的確な手際。


 そして──裏山の高校生。県立高校の制服。学生証の名前は藤堂蓮。成績上位。空手と柔道で全国大会出場。教師や友人からの評判は極めて良い。問題行動の記録は一切ない。ごく普通の──いや、普通以上に優秀な男子高校生。


 のはずだった。


 だが、鑑識から追加報告が上がってきていた。


 倉庫の奥から見つかった棚の中身。ビデオカメラに保存されていた映像。薬品類。真空パック機器。そして藤堂蓮のスマートフォンに残されていた暗号化通信の痕跡。


「三田村さん」


 後輩が車の窓を叩いた。


「本庁から連絡です。藤堂蓮の自宅の地下室から──人体標本が見つかりました。複数。あと映像データが大量に。内容は……その、かなりまずいものだそうです」


 三田村は長い息を吐いた。


「……犯人はこのガキだったのか。失踪事件の」


「はい。組織のトップでもあったようです。十七歳の……」


 後輩は言葉を詰まらせた。信じがたい、という顔だった。


「で──こいつを含む全員を殺した人間は」


「見つかっていません」


 三田村は裏山の方向を見た。暗い木立。その向こうで、まだ鑑識が作業を続けている。


 倉庫の十三人は、銃、刃物、素手とあらゆる手段で殺されていた。まるで目の前にあるものを片端から使って、一人ずつ処理していったように。そして山中の少年──全国レベルの格闘技の腕を持つ少年が、眉間を一発で撃ち抜かれている。


 一人の人間がこれをやったのか。


 十三人をあらゆる手段で殺し、逃げた少年を山中で追い詰め、格闘技の腕も関係なくあっさりと仕留めた。


 三田村は煙草に火をつけた。


 次のステップは、県立高校の関係者への聞き取り調査だ。藤堂蓮のクラスメイト。友人。教師。


 その中に──犯人に繋がる何かがあるかもしれない。


 ──あるいは、何も見つからないかもしれない。


 三田村はそんな予感がしていた。


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