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独り、停滞の檻の中で


「…………っ」


コウタは、豪華な宿屋のベッドの上で、動かない体を無理やり起こそうとして、すぐに断念した。

腹部の傷が焼けるように熱い。

あの巨神との戦いで負った負傷。

カナの魔法が全てを解決したことになっているが、現実は、彼がその身を挺して彼女を守り、ボロボロになった証だ。


「………カナは、今頃……」


窓の外からは、街の人々の歓声が微かに聞こえてくる。

最高ランクへと駆け上がったカナを称える声だ。

彼女は今、英雄として次の依頼へ、あるいは祝宴へと向かっているのだろう。

それに引き換え、自分は指一本動かすのも億劫な、ただの「お飾り」の怪我人だ。


「……ヒモ、か。……違わないよな」


最近のカナは、さらに強くなった。

それと同時に、俺を戦場から遠ざけるようになった。

「あんたはそこで大人しくしてなさい!」

あの言葉は、もう信頼の証ではなく、実力差がありすぎる者への「宣告」に聞こえてしまう。

公式ランクは下がる一方で、今やギルドの登録簿でも最下層。

俺はもう、彼女の隣を歩く資格を失ってしまった。


(……昔は、もっと近かったはずなんだけどな)


泥だらけになって笑い合い、安い串焼きを分け合った日々。

今は、カナがどこからか持ってきた「ゴミ」……マジックペンで【 安 物 】と書かれた剣を眺めることしかできない。

今の俺に相応しいのは、伝説の武器ではなく、この汚い鉄屑の方なのだと自分に言い聞かせる。


「………っ、はは……。……情けねえな」


本当は、また一緒に冒険がしたい。

背中を預け合って、明日を不安に思いながら眠りたい。

けれど、高みに登りすぎた彼女を引き留める言葉を、今の自分は持っていない。


天井を見つめるコウタの瞳に、深い孤独が滲む。


 死線に潜む慈愛


バタン! と乱暴にドアが開く音が、静まり返った部屋に響いた。


「…………っ」


コウタが視線を向けると、そこには肩で息を切らし、全身泥まみれのカナが立っていた。

最高ランクの冒険者が着るはずのない、ボロボロに裂けたローブ。

その手には、不気味に発光する粘り気のある緑色の液体が、雑な木のお椀に入れられて握られている。


「……カナ? どうしたんだよ、その格好……。また一人で無茶して……」


「うるさいわね! あんたに関係ないでしょ! ……ほら、これ、さっさと飲みなさいよ」


カナはコウタの枕元に詰め寄ると、その液体を突き出した。

部屋中に、生命の根源を揺さぶるような、凄まじく清涼な香りが広がる。

それは、数千年に一度しか咲かないと言われる神域の霊草『天命の雫』を丸ごとすり潰したものだった。


「……何、これ。……すっごい匂いだけど……」


「なによ、文句あるの!? ……そこらへんの道端に生えてた、賞味期限切れのただの雑草よ! 捨てるのも勿体ないから、あんたの薬代わりにしてあげてるだけなんだから!」


カナの指先は、極度の疲労で小刻みに震えている。

その指の隙間には、神域の守護獣と戦った際に負ったであろう、深い切り傷が見えた。

コウタはそれを指摘しようとしたが、カナの射抜くような、それでいて今にも泣き出しそうな視線に言葉を飲み込んだ。


「……わかった。……飲むよ。ありがとう、カナ」


コウタが無理をしてお椀を受け取り、一口すする。

瞬間、焼き付くようだった腹部の激痛が、嘘のように消えていく。

細胞の一つ一つが強制的に再構築され、失われた活力が全身に満ち溢れる感覚。


「……すごいな、これ。……本当に、ただの雑草……?」


「そうよ! ただの、ゴミみたいな草よ!」


カナは安堵からか、その場に力なく膝をついた。

コウタが元気になればなるほど、彼女の心は恐怖に支配される。

(……早く治ってほしい。でも、治ったら、またあんたは私の隣から居なくなろうとするんでしょ……?)

(……もっと、もっと強い装備を。もっと、もっと凄い薬を。……そうして私が全部与え続ければ、あんたは一生、私のそばにいてくれる……?)


「……カナ、俺、もう動けるよ。……これなら、明日の依頼、一緒に行けるかな?」


コウタの控えめな、けれど必死な提案。

カナは顔を上げず、震える声で吐き捨てた。


「馬鹿じゃないの。あんたみたいな無能を連れて歩く暇なんて、今の私にはないわよ」


カナは立ち上がり、背中を向ける。

その目から一筋の涙がこぼれ落ちたことを、コウタは知らない。

彼女は、コウタの誇りを奪っている自覚がありながら、それでも彼を戦場という死地へ戻したくないという、矛盾した狂愛の檻の中にいた。


歪な沈黙と微熱


「……ねえ、カナ。……あの時、巨神を倒したのは、本当はこの剣だった気がするんだ」


コウタは、ベッドの脇に立てかけられた「安物」を、どこか縋るような目で見つめた。

あの一瞬、手に伝わってきた、世界を裂くような圧倒的な咆哮。

そして、刀身の奥底に、何か……自分を呼ぶような、ひどく熱烈な「文字」が見えた気がしたのだ。


「………っ!?」


カナの肩が、目に見えて跳ね上がった。

心臓の鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされる。

(……読まれた!? いや、あんな小さな文字、しかも幻魔法でぼかしてたのに、読めるわけないわ……!)


「……よく見えなかったんだけどさ。……何か、書いてあったような……」


「な、ななななによ、藪から棒に! ……あんなの、ただの安物だって言ってるでしょ! あんた、熱のせいで頭まで腐ったんじゃないの!?」


カナは、顔が沸騰しそうなほどの赤面を隠すように、コウタから力任せに剣を奪い取った。

そのまま背中を向け、必死に『幻魔法』を上書きし始める。

(……隠蔽が甘かったんだわ! もっと、もっとボロく、もっと情けない見た目に固定しなきゃ……!)


「……でも、あの時……」


「うるさい! ……いい? あれは私の魔法が、あんたの持ってたゴミの鉄成分に、たまたま、……そう、たまたま反射して、なんか、こう、すごくなっただけよ! あんたの実力でも、その鉄屑の性能でもないわ!」


カナはまくしたて、剣の腹に書かれた【 安 物 】という文字を、さらに太いマジックペンで塗りつぶすように上書きした。

そのすぐ隣に刻まれた、自らの愛の告白という名の「呪文」を、誰の目にも触れさせないように、幾重もの魔力の霧で包み隠す。


「…そうだよな。……あはは、変なこと言ってごめん。……俺がそんな強いわけ、ないもんな」


コウタの寂しそうな、けれど納得してしまった笑い声が、カナの胸をナイフのように切り裂いた。

嘘をつくたびに、彼の自信を奪っている。

彼を「無能」という安全な檻の中に閉じ込め、自分だけが知る「カナチャン大好き」という秘密の部屋で、彼を飼い慣らそうとしている。


(……そうよ。……あんたは何も知らなくていいの。……世界中から馬鹿にされて、……私だけが、あんたの本当の凄さを知ってる、それがいいんだから……)


カナは奪った剣を強く抱きしめた。

その強すぎる筆圧で書かれた「安物」という文字の下に、彼女のドロドロとした独占欲が、熱く、静かに澱んでいた。


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