冷徹騎士団長の執着が想定外です。辞職願を出したら「受理しない、お前は俺の心臓だ」と城を物理封鎖されました
「――おい、ノエル。この書類、数字が合っていないぞ」
王城の西棟、騎士団長執務室。
氷点下の空気を纏った低音が、私の鼓膜を震わせた。
声の主は、この国の騎士団を束ねるアルヴィス・ドラグーン公爵。白銀の髪に、冷たい湖のようなアイスブルーの瞳。神々しいまでの美貌を持ちながら、「氷の騎士」と恐れられる私の直属の上司だ。
「申し訳ございません、閣下。すぐに確認いたします」
「何度言えばわかる。貴様の目は飾りか?」
バサリ、と書類が机に投げ出される。
私は唇を噛み締めながらそれを拾い上げた。……おかしい。私は提出前に三回検算したはずだ。
中身を確認して、息を呑む。
数値が書き換えられている。それも、わざとらしいほど稚拙な筆跡で。
「……あらぁ、ノエルさん。またミスですかぁ?」
執務室のソファから、甘ったるい声が飛んできた。
ふわふわとしたピンクブロンドの髪を揺らし、紅茶を啜っているのはミナ・ロペス男爵令嬢。最近、騎士団の「見習い補佐」として配属された新人だ。
彼女は口元を扇子で隠しながら、楽しげに目を細めている。
「団長様はお忙しいのですから、無能なノエルさんが足を引っ張ってはダメですよぉ。私が代わりにやりましょうか?」
「……いえ、結構です。私の責任ですので」
私が断ると、ミナ嬢は頬を膨らませてアルヴィス様に上目遣いを送った。
「団長様ぁ、ノエルさんってば意地っ張りなんだから。私がやった方が早いですよねぇ?」
「……好きにしろ」
アルヴィス様は私を一瞥すらせず、素っ気なく答えた。
ズキリ、と胸が痛む。
三年間、必死に尽くしてきた。彼の淹れるコーヒーの温度から、魔力暴走を抑える薬の調合、果ては貴族同士の根回しまで、全て私が担ってきた自負があった。
けれど、彼にとって私は「無能な部下」でしかないのだ。
ぽっと出の、仕事もできないけれど愛想だけはいい令嬢の方が、「癒やし」として必要なのだ。
(ああ……もう、いいかな)
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
私は静かに書類を整え、一礼する。
「失礼いたします。修正してまいります」
部屋を出る背中に、ミナ嬢の勝ち誇ったような笑い声と、アルヴィス様の舌打ちが聞こえた気がした。
廊下に出た私は、その足で人事局へは向かわず、自席に戻った。
引き出しの奥から、ずっと前から用意していた封筒を取り出す。
『辞職願』。
もう、潮時だ。実家の領地へ帰ろう。田舎で野菜でも育てて暮らす方が、よほど心安らかだ。
私は震える手でペンを取り、日付を記入した。
さようなら、アルヴィス様。
貴方のことが、大好きでした。怖くて、冷たくて、でも誰より国を守ろうとする貴方の背中を、お慕いしていました。
翌朝。
私はいつもより三十分早く出勤し、身の回りの整理を済ませた。
デスクには完璧な引き継ぎ書。ミナ嬢がどれだけ怠惰でも理解できるよう、絵付きで解説してある。
そして、アルヴィス様が出勤してくるのを待った。
定刻通り、重厚な足音が近づいてくる。
扉が開き、冷気を纏った彼が入ってきた。
「おはようございます、閣下」
「あぁ」
彼は私を見ず、マントを翻して椅子に座る。
私は深呼吸をし、彼のデスクの前に立った。これが最後だ。
「閣下。お話がございます」
「後にしろ。朝の巡回がある」
「今でなくてはなりません」
私の強い口調に、彼が訝しげに眉をひそめ、初めて私を見た。
そのアイスブルーの瞳に射抜かれ、足がすくみそうになる。でも、負けない。
「――以上をもって、本日付で辞職させていただきます」
ドン、と辞職願を机に置く。
一瞬、時が止まったようだった。
アルヴィス様は封筒の文字を凝視し、それからゆっくりと視線を上げて私を見た。
室内の温度が、体感で五度ほど下がる。
「……なんだ、これは」
「ご覧の通りです。私の能力不足により、これ以上閣下の補佐は務まりません」
「能力不足? 貴様が?」
「はい。昨日の書類の不備も、先日の伝達ミスも、すべて私の責任です」
ミナ嬢の嫌がらせだとは言わない。言ったところで、彼は彼女を庇うだろうから。
惨めな思いはしたくない。
「後任にはミナ様がいらっしゃいます。彼女なら、閣下の『癒やし』としてもうまくやれるでしょう」
「……ミナ? なぜあの女の話になる」
「彼女を大切にされているのでしょう? 公務の邪魔になる古株は消えます。どうぞ、お幸せに」
言い切って、私は深く頭を下げた。
顔を上げると、アルヴィス様の表情が凍りついていた。怒りではない。どこか、呆然としているような――いや、見間違いだ。
「待て、ノエル」
「お世話になりました」
呼び止める声を無視して、私は執務室を飛び出した。
背後でガタガタッと椅子が激しく倒れる音がしたが、振り返らない。
走れ。早くここを出ないと。
私は廊下を駆け抜け、階段を降りる。
心臓が早鐘を打つ。涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
大丈夫、これで自由になれる。もう怒鳴られなくていい。もう比較されなくていい。
エントランスホールに到着した。
巨大な正門が開いている。あそこを出れば、城下町だ。
通行証を衛兵に見せようとした、その時。
――ウゥゥゥゥゥゥゥゥン!!
耳をつんざくようなサイレンが、城内に鳴り響いた。
同時に、地面が揺れるような重低音と共に、目の前の正門が落下してきた鉄壁によって遮断された。
「えっ!?」
それだけではない。窓には鉄格子が降り、全ての出入り口が魔法障壁で覆われていく。
周囲の騎士や文官たちがパニックに陥る。
「敵襲か!?」
「いや、これは『コード・ゼロ』だ! 国家存亡の機に関わる緊急封鎖だぞ!」
「魔獣の大群でも現れたのか!?」
コード・ゼロ?
騎士団の管理マニュアルを作った私にはわかる。それは「国王の崩御」か「魔王級の災害」でしか発動しない、最高レベルの戒厳令だ。
まさか、こんなタイミングで?
私は青ざめた。これでは城から出られない。
その時、城内放送のスピーカーから、ノイズ混じりの「声」が響いた。
『――騎士団全部隊に告ぐ』
低く、地獄の底から響くような声。
アルヴィス様だ。けれど、いつもの冷静な彼ではない。その声は焦燥と、狂気じみた怒りに満ちていた。
『第一級重要人物が逃亡を図っている。至急捜索し、確保せよ』
『特徴は、亜麻色の髪、小柄な体躯、事務官の制服を着用』
『名は、ノエル・クライス』
「……は?」
私の思考が停止した。
重要人物? 私が?
『繰り返す。ノエル事務官を絶対に城から出すな。抵抗された場合は、私が直接行く』
『傷一つ付けることは許さん。彼女を失えば、俺はこの国を滅ぼしかねない』
――ブツン。
放送が切れた瞬間、ホールにいた全員の視線が私に突き刺さった。
「い、いたぞ! ノエル事務官だ!」
「確保ォォォ!!」
「ちょ、待って! 違います! 私はただ辞職を……きゃあああ!」
弁解する間もなかった。
数十人の騎士たちが雪崩のように押し寄せ、私はあっという間に包囲された。
彼らは私に触れるのを恐れるように(傷つけたら団長に殺されると理解したのだろう)、優しく、かつ絶対に逃げられない「肉の壁」を作った。
「どけェェェェ!!」
雷鳴のような怒号と共に、二階の回廊から黒い影が飛び降りてきた。
常人なら骨折する高さだ。だが、その男は着地の衝撃で床の大理石を粉砕し、土煙の中からゆらりと立ち上がった。
アルヴィス・ドラグーン。
乱れた白銀の髪、血走った瞳。その姿は、騎士というより修羅だった。
「ひっ……だ、団長……」
「ノエルはどこだ」
騎士たちが、モーゼの十戒のように割れる。
その先にいた私を見つけると、彼の瞳孔がギュッと収縮した。
「ノエル……ッ!」
彼は瞬きする間もない速度で距離を詰め、私を壁際に追い込んだ。
ドンッ!!
私の顔の横に彼の手が叩きつけられ、壁に亀裂が走る。逃げ場は完全に塞がれた。
「あ、あるうぃす、様……?」
「……どこへ行くつもりだ」
至近距離で見る彼の顔は、怒り狂っているのに、どこか泣き出しそうに見えた。呼吸が荒い。額には脂汗が滲んでいる。
「じ、辞職すると、申し上げました。私はもう不要ですから……」
「不要? 誰が言った」
「誰がって、閣下が……いつも無能だと……」
「言っていない!」
彼は子供のように叫んだ。
そして、私のポケットからはみ出していた辞職願を乱暴に引き抜くと、掌から蒼い炎を出して一瞬で灰にした。
「あっ! 私の退職金が!」
「そんなもの必要ない。お前の生活は一生俺が保証する」
「い、意味がわかりません! 横暴です! 私には職業選択の自由が――」
「ない。お前にはない」
彼は私の両肩を掴み、そのまま抱き寄せるように額を押し付けてきた。
熱い。氷の騎士のはずなのに、彼の体温は火傷しそうなほど熱い。
「お前がいなくなったら、誰が俺の視線の意味を理解する? 誰が俺の魔力制御の荒さを調整する? 誰が俺のコーヒーに完璧な分量のミルクを入れる?」
「そ、それは業務引き継ぎ書に……ミナ様が……」
私が名前を出した瞬間、周囲の温度が絶対零度まで下がった。
「――衛兵。その『ミナ』という女をここに連れてこい」
彼の声は低く、そして恐ろしく静かだった。
数分後、青ざめた顔のミナ嬢が、衛兵に両脇を抱えられて連行されてきた。
彼女は状況が飲み込めていないのか、アルヴィス様を見るなり媚びるような声を上げた。
「だ、団長様ぁ! ひどいですぅ、こんな乱暴な扱い……。やっぱりノエルさんが何か吹き込んだんですね?」
彼女は私を睨みつけ、演技がかった涙を浮かべる。
「ノエルさん、自分が無能だからって、私に罪を擦り付けるなんて最低ですぅ。団長様、この女を処罰してください!」
静寂。
ホールにいる全員が、憐れむような目でミナ嬢を見ていた。
アルヴィス様は私を抱き寄せたまま、汚物を見るような目でミナ嬢を見下ろした。
「……誰だ、貴様」
その一言は、どんな罵倒よりも残酷だった。
「え……? ミ、ミナです……毎日お茶をお持ちして……」
「知らん。俺の視界に入るな」
「そ、そんな! 私たち、婚約するんですよね!? だって私、男爵家の娘で、可愛くて……」
「俺の婚約者は、生まれた時から決まっている」
アルヴィス様は冷たく切り捨て、衛兵に指図した。
「この女の私物を調べろ。ノエルの書類を改竄した証拠があるはずだ」
「はっ!」
衛兵たちがミナ嬢の鞄をひっくり返す。中からは、私が紛失したはずの決裁書類や、書き損じを装って練習された私の筆跡のメモが大量に出てきた。
「こ、これは違います! ノエルさんがやれって!」
「黙れ」
アルヴィス様が指を弾くと、ミナ嬢の口元が氷で覆われ、強制的に沈黙させられた。
「公文書偽造、および騎士団業務への妨害行為。さらに、国家最重要機密――すなわち、我が心臓であるノエル事務官への加害工作」
「うぐぅー!?」
「地下牢へ連行しろ。たっぷりと尋問してやる」
引きずられていくミナ嬢を見送り、アルヴィス様は再び私に向き直った。
その瞳から、先ほどの冷酷さは消え失せていた。あるのは、ドロドロとした重たい熱情だけ。
「……すまない、ノエル。気づくのが遅れた」
「いえ、あの……でも、無能だと言ったのは……」
「違う。お前が優秀すぎるからだ」
彼は苦しげに顔を歪めた。
「お前が完璧に仕事をこなすたび、他部署の男どもが色目を使ってくる。『うちに来ないか』『食事に行こう』……見ていて反吐が出そうだった」
「は、はぁ……」
「だから俺は、お前を厳しく叱責し、仕事で縛り付け、俺以外と口を利けないようにした。お前の評価を下げれば、誰も欲しがらないと思ったんだ」
「……」
あまりの理不尽さに、私は言葉を失った。
つまり、私が「嫌われている」と思っていた態度は、すべて彼の「独占欲」と「牽制」だったということ?
「最低です」
「あぁ、わかっている」
「パワハラです」
「甘んじて受け入れよう」
「私の三年間を返してください」
「これからの俺の生涯をすべて捧げる。それで許してくれ」
彼は私の手を取り、その場に跪いた。
騎士の最高敬礼。そして、公爵家当主としての求婚の姿勢。
衆人環視の中で、彼は私の手の甲に口づけを落とした。
「愛している、ノエル。出会った時からずっと、お前だけを見ていた」
「……っ!」
「お前がいない世界など、意味がない。頼む、俺を捨てないでくれ。お前が望むなら、騎士団長なんて辞めてもいい。お前の家の庭師にでもなる」
「な、なりませんよ!」
周囲の騎士たちが「団長がデレた!?」「庭師は無理だろ!」とざわめく。
私は真っ赤になって、跪く彼の頬を両手で挟んだ。
冷たいはずの彼の頬は、やっぱり熱かった。
「……わかりました。辞職は撤回します」
「本当か!」
「ただし! 条件があります」
「なんだ? 世界征服か? どこの国を滅ぼせばいい?」
「違います! 私を『無能』と呼ばないこと。ちゃんと名前で呼んで、普通の恋人同士のように接すること。……あと、仕事は定時で上がらせてください」
アルヴィス様は、花が咲くように破顔した。
その笑顔の破壊力たるや、見ていた女性騎士数名が鼻血を出して倒れるほどだった。
「誓おう。お前の望みは全て俺の望みだ。……だが、定時退社は約束できんかもしれん」
「え?」
「夜は忙しくなるだろうからな。寝室で」
彼はニヤリと笑い、私を軽々とお姫様抱っこした。
「ちょ、閣下!? 皆が見てます!」
「見せつければいい。お前は俺のものだと、国中に知らしめる手間が省けた」
そのまま彼は、私を抱えて執務室へと戻っていく。
背後から、「ヒュー!」という冷やかしと、「あの団長が骨抜きだぞ……」という畏怖の声が混ざり合って聞こえた。
私のささやかな辞職計画は、国の封鎖と、冷徹上司の重すぎる愛の露呈によって、派手に失敗したのだった。
あれから一ヶ月。
騎士団の日常は、劇的に変化した。
「ノエル、この書類の決裁を頼む」
「はい、アルヴィス様。……って、またですか? これは団長の仕事ですよ」
「お前が横にいないと筆が進まない」
執務室の机が増設され、私はアルヴィス様の真横――というより、ほぼ膝の上に近い位置で仕事をさせられている。
彼は片手で書類にサインしながら、もう片方の手で私の腰を抱き寄せたり、髪を弄ったりと忙しない。
ミナ嬢はあの後、公文書偽造の罪で国外追放となった。なんでも、隣国の修道院で朝から晩まで掃除をさせられているらしい。
騎士団内の風通しも良くなり、皆が私に優しく接してくれるようになった。
……が、それもまた問題で。
「ノエル事務官、この案件について相談が……」
「おい」
若い騎士が私に話しかけた瞬間、アルヴィス様がペンをへし折った。
室温が急激に下がり、窓ガラスに霜が降りる。
「俺のノエルに気安く話しかけるな。用件なら俺を通せ」
「ひぃッ! す、すみません!」
騎士は脱兎のごとく逃げ出した。
私はため息をつき、新しいペンを彼に渡す。
「アルヴィス様。部下が怖がっています」
「虫除けだ。これでも我慢しているんだぞ」
彼は不満げに鼻を鳴らし、私の首筋に顔を埋めてきた。
甘えるような仕草に、心臓がトクンと跳ねる。
あの日以来、彼は隠すことなく私への執着を見せるようになった。重い。確かに重いけれど……それが心地よいと思ってしまう私も、大概毒されているのかもしれない。
「愛している、ノエル」
「……はいはい。私もですよ」
「『はい』は一回だ。それと、『愛している』と言え」
「……仕事してください」
「言うまで離さん」
抱きしめる腕に力がこもる。
私は観念して、彼の耳元で小さく囁いた。
「……愛しています、アルヴィス様」
彼は満足げに微笑み、私の唇を塞いだ。
執務室の扉には、『入室禁止・ノエル補給中』の札が下がっていることだろう。
私の「撤退戦」は完全敗北に終わったけれど、この幸せな敗戦処理なら、一生続いても悪くないかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
逃げようとしたら物理で封鎖してくる激重騎士団長、いかがでしたでしょうか?
少しでも「面白かった!」「アルヴィス様重すぎw」「ノエルちゃんお幸せに!」と思っていただけたら、
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