番外編:祟り神の独白
ここは、何千年も同じ日を繰り返す村。森の奥深くにひっそりと存在し、地図にも記されず、記録にも残されない場所。
この村がかつて、豊かな恵みと穏やかな暮らしに満ちていたことを、今では誰も語らない。
だが、私は覚えている。かつて、この地は美しい祈りと共にあった。
人々は私を敬い、朝には祈りを捧げ、夜には感謝を紡いだ。そうして、季節は巡り、命は満ちていた。
だが、時代は流れ、祈りは消え、名は忘れられた。村には不作が続き、人々の心は疑いと焦りに侵されていった。
神を信じぬ者が増えれば、神は力を失う。私はただ静かに、滅びを見つめるしかなかった。
そんな折だった。あの子が現れたのは。
名をリオと言った。幼く、私の前に立ち、迷うように、けれど真っ直ぐな瞳をしていた。
けれど、不思議だった。リオは、誰よりも私に近づいてきた。
私の声を恐れず、姿を疑わず、ただ自然に笑いかけてきた。そうして、私のことを"ナイール"と呼んだ。
私の名を。――ああ、思い出すだけで胸が軋む。
たったそれだけの言葉が、私の世界を満たしてしまったのだ。
人の子など、幾度も見てきた。だが、彼は違った。あの子は、まるで私を「誰か」として見ていた。
神でも、災いでもなく。ただ、「ナイール」という存在として。
私は嬉しくて、嬉しくて。そっと傍に寄り添い、名前を呼ばれるたびに、心がほどけていくのを感じた。
リオと過ごす日々は穏やかだった。
まるで春の光のように、柔らかく、暖かく、けれど指の間からすり抜けていくような儚さがあった。
私は、彼のそばで人のふりをしていた。
土地神としてではなく、ただの「ナイール」として。ただ、あの子が傍にいてくれさえすれば、それでよかった。
けれど、その日々は長くは続かなかった。
ある日、一人の村人が気づいてしまったのだ。リオが親しくしている「ナイール」が、この地に祀られていた神の名だということに。
そこからは早かった。
村は飢えていた。不作が続き、人々は希望を失っていた。
「飢饉を救うには、神に供物を捧げねばならぬ」
「神の気を引くには、生きた贄が必要だ」
彼らは再び信仰を思い出した。だがそれは、都合の良い時だけの信仰だった。
そして――愚かにも、彼らはリオを差し出したのだ。救いを乞うために。
名を呼び、笑ってくれた、あの子を。――穢れた祈りと共に、その命を差し出された。
どうして、どうして、と私は声にならない声で叫んだ。
あの子は何も知らないまま、私を想ってくれていたというのに。
私の中の何かが、音を立てて崩れた。
ただ、我が身を焦がすほどの激情に、意識が塗りつぶされた。
怒りは、地を揺らし、空を裂いた。血の雨が降り、火が燃え広がり、家々は崩れ、人々は泣き叫んだ。
私は祟り神となった。
村を呪った。罰として、この村を"一日"に閉じ込めた。
彼らに同じ日を繰り返させた。
夜には業火と狂気を与え、朝には何事もなかったかのように戻してやった。
朝が来て、日が暮れ、夜に全てが壊れても、また朝が訪れる。村は焼け、村人は死ぬ。
それでも翌朝には何もなかったようにまた始まる。何千年も、変わらぬ朝と夜を繰り返しながら。
村人たちは、この罰を知っている。気づいている。彼らはその苦しみから逃れるために、外から来た者たちを"供物"に差し出し続けてきた。
許しを得るために、贖罪のつもりで。けれど、私は供物など求めていなかった。私はただ、リオを返してほしかった。
それなのに、あの子を奪った理由と同じことを繰り返す村人たちが、滑稽で、哀れで、そして何より、鬱陶しくて仕方がなかった。
……そして。
また、リオが現れた。本当に、リオだった。見た目は全く違うが魂の色が同じだ。
そして名前が、変わっていなかった。だが、あの子はずっと"リオ"のままだった。
偶然だったのかもしれない。
けれど――いや、それを"偶然"だとは、どうしても思えなかった。
今度こそ、傷つけぬように、奪われぬように。
だからこそ、私は決めていた。もう手放そう、と。
あの子が「朝の散歩……かな?」と言って村の外に歩いていったあの日。
私は静かに見送っていた。もう苦しませたくないと思ったから。
私は覚悟を決めていた。あの子の自由を願っていた。でも、その背中に、小さく、囁いてしまったのだ。
「……いかないで」
きっと、届いていなかった。その声は、風に溶けた。けれど、それでもあの子は――
リオは、戻ってきた。
「……おかえり」
「ただいま」
逃げることなく、怯えることなく、ただ私を見つけて、笑った。
その瞬間、私は理解した。
ああ、これはもう、手放せない。私のもとに戻ってきたのだから。
名も変わらず、これはきっと、もう抗いようのない因果なのだ。
私はこの呪われた檻の中に、再びリオを迎え入れた。今度こそ、失わないように。
祟り神である私が、それでも彼の幸せを願ってしまうことが、何よりも罪深いと知りながら。
赦すことも、忘れることも、もう、できそうにない。
朝がまた、訪れる。私の望んだままの、一日が。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
これは本編では語られなかった、ある神の小さな独白でした。
本編を読み終えたあとに、もう一度何かを感じていただけたなら幸いです。