前編
その森には、奇妙な噂があった。
曰く――中に入れば、決して出られない。
曰く――どんな日照りでも、森の奥だけは実りが絶えない。
曰く――それは、何かと取引しているからだ、と。
だが、その“村”の名前を知る者はいない。
地図にも記されず、記録も途絶えて久しい。
人々はそれをただ、「あの森」と呼ぶ。
そして、決して近づくな――と、口を揃えるのだった。
巡礼の道を歩いていたリオが、その森の話を聞いたのは、三日ほど前のことだった。
乾いた風が続く年で、人々は雨を乞い、土地を癒す者を求めていた。
リオは“ことだまの守り人”として、言葉の力で恵みを呼ぶ旅をしていた。
焚き火を囲み、共に野宿した農夫の一団は、彼を丁重にもてなした。
「ありがたいことですな、ことだま様と一緒の道をゆけるとは」
「うちの村でも、昔は“声持ち”の娘さんが祝詞をあげておったもんです」
「最近はさっぱり聞かなくなりましたなぁ……」
リオは微笑んで応えた。
「私の声は、ほんの手向け程度のものです。けれど、人の言葉には力があります。祈りや誓い、願いのことば――世界を巡る流れを、少しだけ整えるんです」
それは、神託でも呪でもない。ただ、人の想いをことばにして、自然に響かせる技。
ことだまの守り人は、そうして風土と人の間を繋いできた。
けれど、その夜、ふと一人の年配の農夫がぽつりとつぶやいた。
「……ですが、ことだま様でも……あそこには届かんでしょうな」
焚き火の揺らめきが、一瞬だけ暗く見えた。
「……“あそこ”とは?」
「東の森のことです」
農夫たちは一様に黙り込んだ。やがて、老いた男が静かに語る。
「あの森だけは、昔から“音が死ぬ”と……そう言われてましてな。風も鳥も虫も――まるで、すべてが息を潜めているように……」
「村がある、って話もあったんですよ。けど、そんなの誰も知らねえ。ただ、踏み入れた者はみんな、戻ってこねえ――って、それだけです」
村の名も、場所も、もう伝わってはいない。
ただ「行ってはならぬ」とだけ――それが、唯一の警句だった。
だが、リオの胸は静かにざわついていた。
懐かしいような、胸が軋むような、微かな痛みを伴った……。
(まるで……呼ばれているみたいだ)
そう思ったときには、もう運命の歯車が動き出していたのだろう。
三日後。
道を外れたつもりはなかった。けれど、気がつけば景色は変わっていた。
枝葉は天を覆い、光は柔らかく歪んでいる。風はなく、音もない。
生き物の気配はあるのに、どこかで何かが息を潜めている。
「……変だ」
引き返そうとしても、来たはずの道が見当たらなかった。
代わりに、白く淡い霧が足元に立ち込めてくる。リオは試しに、そっと声を紡いだ。
「還りたい……この身を、道へと還して……」
けれど、ことだまの祈りは、ただ虚空に吸い込まれるだけだった。
(声が……届かない?)
――戻れない。
そのとき、森はすでにリオを迎え入れていたのだ。
森の重さが肩にのしかかった。まるで、何かが此処を支配しているかのような。
ふと、緑の切れ間から光がこぼれた。
誘われるように足を踏み出したその先に――村があった。
石畳の道。よく手入れされた畑。揺れる洗濯物。どこか懐かしく、けれど、時代に取り残されたような光景だった。
忘れられたはずの、地図にも記されないはずの“村”が、そこには確かに息づいていた。
「……人がいる?」
ぽつりと洩らした声に応えるように、戸口の影が揺れた。
小さな子どもが顔をのぞかせ、すぐに母親らしい女性が手を添えて引き戻す。
やがて、奥の方から誰かが声を上げた。
「おや……まさか、旅の方?」
「なんとまあ……久しぶりじゃなあ、こんなところに人が迷い込むとは」
「それにしても、ご無事で何より。よほどの幸運をお持ちじゃ」
声が広がると同時に、集まってくる人の輪。
リオを囲む空気はどこかほっとするような温かさを帯びていた。
差し出される手、布、湯気の立つ食事。そのどれもが素朴で、親切で、そして――ほんの少し、整いすぎている気がした。
(……ずいぶん、歓迎されてるな)
疑問に思いつつも、悪い気はしなかった。
けれど、すぐに気づく。村人たちの笑顔の中に、ほんのわずかに混じる影を。
(……あれ?)
優しさは嘘ではない。けれど、どこか、言葉の選び方が慎重すぎる。
当たり障りのない挨拶、深く踏み込まない応対。
まるで何か大きな前提を、互いに避けて話しているような――そんな“間”があった。
(なんだろう……この感じ)
リオは、自分の存在が歓迎されていることを感じながらも、その裏にある微かな沈黙に、不思議な引っかかりを覚えていた。
その“引っかかり”の正体を掴めないまま、リオは村の中央、緩やかな丘にある一本の大樹へと足を向けた。
そこには、初夏の風に溶け込むように、ひとりの青年が立っていた。
風はないはずなのに、その髪がふわりと揺れる。
光を受けて淡く金色に透ける髪と、透き通るような肌。
穏やかながらも、どこか触れがたい雰囲気を纏っていた。
「……来てしまったんだね」
その声に、リオの胸がひどく強く打たれた。
誰よりも穏やかな口調なのに、不思議と懐かしい気がして――胸の奥を、古い痛みが掠めた。
「あなたは……?」
「ここにいる者さ。……リオ、で合ってる?」
名乗っていないのに、名前を呼ばれた。
驚くべきことなのに、不思議と警戒心は湧かなかった。
まるで、何度も呼ばれてきた気がするような、馴染みある響きだった。
「ナイールって呼ばれてる。まあ、あだ名みたいなものだけどね」
その名前が告げられたとき――後ろで、遠巻きに見ていた村人たちの気配が、ごくわずかに揺れた気がした。
けれど誰も声には出さない。ナイールの名に反応しながらも、言及はしない。
(……この人、村の中では……特別な存在?)
ナイールと村人たちの間には、どこか微妙な“線”があった。
尊敬にも見えるけれど、それだけじゃない。
どこかで、触れてはいけないものに接しているような……沈黙と、静かな緊張感。
(みんな……彼に従ってる。でも、親しみというより、どこか“距離”がある)
ただの美しい青年――そう見える。
けれど、リオの本能が告げていた。この村にある、微かな違和感の中心にいるのは、彼だと。
それが何か、まだ分からない。
けれどこの瞬間から、リオの中には確かに何かが始まっていた。
引き返すことも、抗うこともできない、目に見えない“糸”のようなものが。
ナイールは、ただ静かに笑っていた。
それは、穏やかなのに、どこかとても寂しげな微笑みだった。
ナイールは、村の中でも一段高い丘の上にある家に住んでいた。
そこは村全体を見渡せる場所で、風が通り抜け、季節の花が絶えず咲いていた。
大きな木の根元に寄り添うように建てられたその家は、他の家々よりもわずかに古く、けれど丁寧に手入れされていることがわかった。
リオは、村人たちに勧められ、しばらくナイールの家に世話になることになった。
村人たちに勧められたとき、ナイールは一瞬だけ表情を動かしたように見えた。けれどすぐに、あの穏やかな微笑みに戻って「もちろん」と頷いた。
「不便なところだけど、気にしないで」
「ありがとう、助かります」
家の中は静かだった。どこか、音が沈むような静けさ。
窓辺には古い書物と、乾いた花が一輪だけ挿されている。棚に並んだ器はどれも綺麗で、古さと新しさが入り混じった不思議な空間だった。
ナイールは、よく庭の手入れをしていた。
朝になると土を撫で、花に水をやり、落ち葉を丁寧に拾う。その仕草は美しく、まるで何かを弔っているようにさえ見えた。
「花がお好きなんですね」
そう尋ねると、彼は微笑んで、小さく「うん」とだけ答えた。
「生きてるものは……綺麗だから」
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
村の生活は、穏やかだった。畑の野菜はよく育ち、森で感じた静寂はここにはなかった。
朝には焼きたてのパンの香りが漂い、子どもたちの笑い声も聞こえる。村人たちは親切で、リオの旅の話にもよく耳を傾けた。
けれど――どこか、足並みが揃いすぎていた。
誰もがよく働き、よく笑い、そして一定の距離を保つ。
ナイールの話題になると、空気がわずかに張り詰めたようになるのだった。
尊敬とも、畏れとも違う。言葉にしようとすると、指の隙間から零れるように、掴めない。
(あの人は……この村で、特別なんだ)
それが何を意味するのか、リオにはまだわからなかった。
ただ、時折ナイールの目がどこか遠くを見つめているとき――その視線の先に、誰もいないことが、少し怖かった。
ある日、リオは村の少年にこう尋ねられた。
「お兄ちゃん、ナイールさまのこと、好き?」
「……え?」
問いの意味を測りかねて、リオは言葉を濁した。けれど少年はそれ以上何も言わず、ただ笑って走り去った。
“さま”。呼び方に込められた奇妙な重さが、心に残った。
風が吹いた。丘の上の大きな木がざわめく。リオはその下で、背を向けたまま佇むナイールの背を見つめていた。
まだ知らないことばかりだった。けれど、何かを知ってしまったら、もう戻れない気がして――
それでも、目を逸らすことはできなかった。
その夜、リオは夢を見た。
水の底に沈むような感覚。名も知らぬ声が遠くで囁いている。
『……返して……』
誰が?何を?
問いかけようとする前に、夢は泡のように消えた。
目が覚めたのは、まだ夜明け前だった。
空は薄く明るみ始めているのに、村には音ひとつなかった。
(……妙に、静かだ)
しんとした空気の中、リオはふと、部屋の隅に置かれた古い帳を手に取った。
ナイールが「どれも昔からここにあったもの」と言っていたものだ。
何の気なしにページをめくると、素朴な文字で記された出来事が並んでいた。
畑の収穫、雨乞いの祈り、外からの“来客”――
(……来客?)
そこだけ、日付も名前も書かれていない。
いや、それどころか、文字そのものが他と異なっていた。
まるで、何かを記録するというより、誰かへの“報告”のような。
そのとき、背後で木の軋む音がした。
「……起きてたんだね」
ナイールだった。淡い光の中に立つ彼は、夜明け前の空よりも儚く見えた。
「ごめん、勝手に見て……」
「気にしないで。それ、昔の村の人が残しただけのものだから」
やわらかい声だった。けれど、どこかで何かが“すり抜けて”いく感覚があった。
「でも……この村、外から人が来ることって、あるの?」
「昔はね。今は、君が久しぶりかな」
微笑むナイールの顔には、嘘はなかった。
ただ、その“正しさ”が――あまりにも静かすぎて、胸がざわついた。
それから数日が過ぎた。
リオは村を歩き、村人たちと言葉を交わした。皆、優しかった。けれど誰も、村の外の話をしようとしなかった。
リオが「峠の先に街があると聞いた」と言えば、「ああ、あったかもしれませんね」と笑って流される。
話が噛み合わないわけではない。けれど、どこか空虚なのだ。まるで“出ていく”という選択肢が、村の中では存在していないかのように。
(なんで、誰も村を出ようとしないんだろう)
その疑問を、ある夜、ナイールにぶつけてみた。
「ねえ……ナイール。この村の人たちって、村の外に出たりしないの?」
「……うん。必要がないからね。ここは、十分に満ちている」
その声は優しいのに、ひどく冷たく感じられた。まるで、“必要”がなければ生き方すら許されないような。
出てはいけない。そう言われた気がした。
そしてある朝、リオは決めた。
(少しだけ、村の外を見てみよう)
丘を下り、森の奥へ向かう道へ足を踏み出す。
ナイールには何も告げなかった。村の誰にも、言葉を残さなかった。
けれど。
「どこに行くの?」
振り返ると、そこにはナイールがいた。
目を伏せ、穏やかな声で、まるで花に話しかけるように。
「朝の散歩……かな?」
「そう。なら、気をつけて」
それだけ言って、彼は微笑んだ。けれどリオは見てしまった。
ナイールの背後に、ひとりの村人が立っていたことを。
そして、その村人が、無表情のままリオをじっと見つめていたことを。
その視線には、怯えがあった。深い哀しみと――ほんの一瞬、縋るような何かが灯っていた。
胸の奥に、冷たい針が刺さるようだった。
言葉にされない叫びが、瞳の奥から流れ込んでくるようで――
気づいたときには、ナイールがふと振り返っていた。
その途端、村人は静かに視線を逸らし、何事もなかったかのように立ち去っていく。
(……この村では、何かが……)
思考は、形にならないまま消えていく。
けれどそれが何なのかを知らぬまま、リオは再び、森の中へと足を踏み入れた。
後編は 6月8日 (日) 21:00 に公開予定です。
すでに投稿予約済みですので、お時間が合いましたら、ぜひ続きもご覧いただけたら嬉しいです。