午後の紅茶
2025/4/17
こういう話がある。「午後の紅茶を午前に飲むと呪われる」と。アフタヌーンティーという言葉があるぐらい午後に飲むイメージの強い紅茶だからこその言説だろうが、無論そんなことがあるはずはなく、飲んだってその冷たさに少しお腹を壊すことがあるくらいのものだ。ちなみに私が今飲んでいるのは無糖のミルクティーである。普段愛飲しているわけではないのだが、ふと紅茶が飲みたくなり、なんとなく手に取ったのだ。無糖というだけあって口当たりはすっきりしており、ミルク特有のもったりとした感じもない。欲を言えばもう少しミルクの甘みが欲しかったが、これはこれで悪くない。
そう、悪くない。
思えば最近は平坦な生活を送っている。不快さもない、それでいて快楽も存在しない、感情の起伏のほとんどない一日。体調も最近は回復した。精神を病んでいるわけではない。最近躁鬱気味であったのだがそのような感じでもない。かといって楽しいこともない。マイナスもなければプラスもない、砂糖の入っていない紅茶のような日々。そうやって自らの一日を思いを馳せていると、脳裏に一瞬、しかし何度もよぎる言葉がある。
「緩やかな絶望」
私達人間はこの世に生を受けた瞬間に生物として死ぬことが確定しており、誰もそのさだめからは逃れられない。歳をとることは成長なのか、それは死というゴールラインに一歩近づくということではないのか。そして死を「絶望」と認識するのであれば、私達は等しく「絶望」に向かう存在であると言えるのだ。
しかし、誰もその存在を身近に感じることは無い。いや、見ないようにしているのだ。精一杯今を生き、できる限りその存在を感じないようにしているだけなのだ。それが正解の生き方であり、そうすることで人間は今日を生きることができるのだ。
それで?「絶望」はどこへ行った?
「絶望」から目を背けても、彼らがいなくなったことにはならない。彼らはいつも私達の影に潜み、私達の存在を喰らうその瞬間を今か今かと待ちわびている。近くにいて、最も遠い存在。それが「死」なのだ。
そして、「彼ら」を最も近くに感じた時、あるいはその存在をはっきりと知覚したとき、「道」が開ける。「彼ら」は「やっとこっちをみた」というようににこやかに微笑み、私達の手をとってくる。そして「彼ら」は、底の見えない闇へと私達を連れ出そうとする。
怖い。
頭はガンガンと危険信号を鳴らし続ける。だが、身体はどうしようもなく闇へと惹かれてゆく。なぜなのだろう。答えは簡単だ。私達は「彼ら」を知覚したその時点で既に、「彼ら」を受容してしまっているからだ。
その後はどうなったか?答えは自明だ。
闇に足を踏み入れるその瞬間、私達は強制的に引き戻される。引き戻したのは誰の手だろうか。家族?友達?大切な人?思い当たる節があれば、あなたはまだ「彼ら」の手を離すことができる。
その時感じるのは、「嬉しさ」だろうか?「安心」だろうか?それとも「後悔」か?
もしあなたが「彼ら」の手をとろうとするばかりか、「彼ら」に身を委ねようとしているのであれば、まずは身の回りの「しがらみ」をきれいさっぱり取り去ることをおすすめする。「しがらみ」が伸び切った木の根っこのようにあなたに張り付いているのでは、何度「彼ら」にすがりつこうと「彼ら」についていくことはできないからだ。
それとも、あなたが本当に大事にしたいのは「木の根」の方なのか?もしくは「自分」か?本当に「彼ら」に身を委ねたのなら、あなたは既に地元の黒ずんだ海に育つ海藻の栄養分になっていたはずだ。なぜためらった?なぜそうしなかった?
もし、あの時■■■■いたら…
こんなに苦しくなかっただろうか。
キーボードを打ち付けていた指が止まる。ミルクティーはもう残り少ない。一口飲む。飲み始めと変わらない、均一で、「普通」の味。
ああ、やはり、午前に飲むものじゃないな。
そんなことを頭の片隅で考えながら、飲みかけのそれを飲み干した。
甘さは、感じなかった。