黒い棘 1
意味の成さない台座の上で、それは変わらぬ透明さと他の存在を否定する雰囲気で浮かんでいる。
まるで、私の訪れを待っていたかのように、透明な石像は淡く光を宿したように見えた。
その神秘的な石像に引き寄せられるまま私はそれへと近付き、そっと手を伸ばす・・・
わけがない。
誰が触れるか、こんな怖いもの。
デュラの言葉に促され、やって来た白莉殿のあの地下ホール。
目の前に浮かぶ集めの器をもう1度しっかりと見た後、私は背後に立つ2人を振り返った。
時は少しだけ遡る。
「第3って、あのカイルに首絞められた時にいた、あの人だよね?」
カイルの放った言葉を自分の中へ飲み込みながら、混乱しかける頭で問いかける。
この世界にやって来たばかりの、あの夜の情景がまざまざと蘇った。
忘れろ忘れてしまえと何度も自分に言い聞かせたあの夜に見た情事。
自分への言いつけ通り、私はすっかりとその事を忘れていた。
「首絞めって、あの時はしょうがねえだろ。明らかにお前不振人物以外の何者でもなかったんだから」
「・・・うん、それは別に気にしてないっていか、うん」
「おい、本当に忘れてたのか?」
驚きの事実にしどろもどろになる私を見て、カイルは呆気に取られているようだった。
眉を寄せてなんとか頷く。
だって、他人のえっちシーンなんて、覚えてる必要なんて全くない。
それも見たくて見たわけじゃない。
そういえば、あの時彼を初めて見て、めっちゃ好みだと思ったことを思い出す。
一旦思い出し始めると、しっかりとあの薄暗闇で見た男の顔と、レィニアスさんの顔が一致してしまい、私は愕然として目を見開いた。
「殿下はすげぇ気にしてたぞ?」
そんな事言われたって・・・。
レィニアスさんが言っていた、変な出会い方の意味が漸く解り、私は何て答えていいかわからず項垂れてしまった。
自分の考えていた甘い夢現の出会いではなかった事を突きつけられ、少なからず・・・いや、かなりショックで、言葉が出ない。
あの夜聞いた普段のレィニアスさんよりずっと低かった声は、いきなり部屋に現れた不振人物を警戒して出した、威圧めいた低い声だったからだ。
「なんだ、お前本当に忘れてたのか?」
「う・・・ん、でも今しっかり思い出した・・・」
ここ数日の出来事が、次から次へと脳裏に浮かび上がっては消えていく。
花の庭園でレィニアスさんを見た時、どこかで見たと確かに思ったのに、初めて聞いた彼の普段の声が透明人間さんの声だったという事実に気を取られてしまった。
何でその時、もっとちゃんと考えなかったのだろうと、あの時の自分を呪う。
彼が一体誰なのかよりも、その声に気を取られ、一気に恋に落ちてしまった。
でもまさか、レィニアスさんが透明人間さんなだけじゃなく第3王子だなんて誰が考えただろう。
だって、あの夜、レィニアスさんは・・・。
うわあああっやっぱり忘れろっ忘れてしまえ!
一瞬脳裏を過ぎったあの夜のシルエットが、私の胸をこれでもかと締め付けた。
嫉妬という名の黒い棘が刺さる音を聞いたような気がした。
何で恋が実った直後に、こんな事実を突きつけられなきゃならないの・・・
あの逃亡劇での再開の時に、もっとしっかり話すべきだった。
いつものように、難しい話には参加しない。
その場の雰囲気を大事にすると言えば格好もつくけれど、深く考えずに状況を受け入れる自分の性格が改めて情けなく思えて、私は知らず唇をかみ締めていた。
「アオ」
カイルが、先程までの幸せ一杯だった私と打って変わってしまった私の顔を覗きこんだ。
ついさっきひねり上げたばかりの私の頬を、彼の大きな手が今度は優しく滑る。
顔を上げると何か察したらしく、複雑な色を宿したカイルの碧の目と目が合った。
「お前、本当馬鹿だな」
「・・・煩い」
「俺の知らないうちに何でそんな事になってんだよ」
「いろいろあるんだよ私にだって」
私の答えに、気遣うような雰囲気だったカイルが、その色を変え手の甲で私の頬をぺちぺちっと2回叩いた。
「お前、何かあったら俺にはすぐ話すって言ってなかったか?」
「すぐカイルに会いに行ったよ! でもいなかったのそっちじゃない!」
思わずかっとして、責めるように声を荒げてしまい、驚き軽く目を見開くカイルから顔をそらした。
ダメだ、こんなのは八つ当たりでしかない。
でも・・・と思う。
まだレィニアスさんと気持ちを通わせる前だったら、こんなに胸が痛くなる事なんてなかったはずと考えて、でもそれもすぐに否定した。
嘘だ、通わせる前から恋というやっかいな感情は、強い力で私を見えない穴へと引きずり込み、レィニアスさんの前に落としてしまった。
でもやっぱり、あんなキスする前だったら・・・!
「探してたのか?」
「・・・探したよ。悪い?」
否定と肯定を繰り返し乱れる感情に、私の態度も口も悪くなる。
そんな子供のような私の前で、カイルは息を吐くように笑った後、いつものように私の頭に手を置き、ぐしゃっとかき回した。
「悪くはねぇよ。いなかった俺が悪い、だろ?」
こんな嫌な態度を取られているというのに、こいつは相変わらずいい男だ。くそ。
悔しくなって目の前のカイルの胸元をぺしっと叩いた。
カイルはやけに優しい目をしていて、口元は薄く笑みを形作っている。
心の中を読まれたように感じて気恥ずかしくなってしまい、私は1度じゃすまず、そのうちカイルをぽかぽか殴り続けた。
カイルはそんな私をしょうがない奴だと、からからと笑った。
「カイル」
悔しいけれど、 少しだけ気持ちが落ち着いた。
次にレィニアスさんに会った時、平静でいられる自信なんて全くないけれど。
今はカイルの顔をたててやろうじゃないか。
よし、大人の女だ、私。
無理矢理にでも前向きな自分を作り上げて笑った。
「・・・ありがと」
素直に感謝の気持ちを述べるというのは、大人になると本当に恥ずかしいものだ。
出来れば避けて通りたいし、プレゼントする物があるならば、それで誤魔化したりする。
でも今の私には自分の物なんて何もないし、お金もない。
持っているのはこの身体一つなのだから、恥ずかしいなんて言ってられないと、頑張って口にした。
でも、私のそんななけなしの勇気で言った言葉に、目の前の男は情緒もへったくれもなく目を丸くした。
「お前からそんな台詞が聞けるなんて思ってなかったな。本気で驚いた。お前本当にアオか?」
こ、この野郎・・・
「あっそ! もう二度と言わないからねっ」
「なんだよ、照れるなよ」
う、うぜええっ
「照れてないわよっ! こうなったらカイルは今後私が落ち込むような事があったら、誰よりも先に駆けつけて、私に尽くしに尽くせばいいんだよ!」
「おーそれでこそ俺の知ってるアオだ」
「どれだけ疲れてても、私のお酒に付き合わせるし、私がいいって言うまで帰さないんだからねっ」
「ああどれだけでも付き合ってやるよ。お前がもういいって言ってもな」
深い意味を含めたように、カイルの碧の目に妖しげな光が宿る。
「何刻でも相手してやる」
おどけてみせながら、どこか本気にも取れる視線に、返すべく次の言葉が出てこない。
カイルが自分の事をからかい始めたのだと感じて、思わず赤くなりそうになる頬を叱咤しながら、何て言ってこいつを黙らせてやろうかと考える。
彼はそんな私の視線の先で、唇の端を上げて笑った。
「殿下が妬くくらいに、な?」
一瞬、レィニアスさんの美麗な顔が脳裏に浮かんだ。
でもその直後に、あの夜のしなやかな動きも思い出してしまって私は眉を寄せてカイルを睨み上げた。
今のやり取りで忘れていた、胸の奥に突き刺さった黒い棘の存在を思い出す。
「カイル」
ふいに聞こえた低い声に、2人して声の主を振り返った。
そうだ、ここには自分達の他に、この男もいたのだ。
「いい所で何だよ、デュラ」
「残念ながら、その役は私がもらうよ」
言いながら、デュラは私の傍まで歩み寄り、私の手を取った。
「あなたが辛い時は、私が駆けつけて、尽くしに尽くしましょう」
持ち上げられた指先に、デュラの薄く柔らかな唇が触れる。
それを呆然と見つめていると、彼はそのまま視線だけで私に微笑みかけた。
彼の冷たく感じる細い目に、いつもと違う薄暗い闇が宿っていて、笑っているのに底冷えする冷たさを滲ませている。
「・・・私ならあなたの心を軽くしてあげられる」




