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「申し訳ありません」
その姿を確認するよりも早く、レィニアスさんがすっと立ち上がり、その背に私を隠す。
「ふん、相変わらずお前はその顔で、女の機嫌を取る事しか出来んのか」
嘲るような言い回しで、男は言葉を続けた。
「先日の祭司長の件もまだ処理出来ていないのだろ? もうすぐトラットゥリア国から使者が来るというのに、街中が不穏のまま祭事を開くつもりか」
「・・・迅速に調べています」
軽く頭を下げるレィニアスさんの姿を、はっと男が嘲笑した。
「結果の出ない調べ物など、何の役に立つ? お前以外は外交や祭準備で忙しいのだ。国内の安全くらい維持できないでどうする。どこまで役立たずでいるつもりだ」
正直、いらっとした。
相手が誰なのかわからないし、ここに勝手に入り込んでいるという後ろめたい状況の私は、とりあえず事の成り行きを見守っているのだけれど。
でも、そろそろ我慢出来ないっていうか・・・
言葉の端々に含められた、男のレィニアスさんに対する見下した態度が許せない。
でも、彼に対してレィニアスさんは言い返しもしなければ、敬語で対応している。
私が勝手なことをしたら、後で彼に何か不利になるんじゃないだろうか?
若い頃ならある程度の突っ走りも許容範囲内で終わるかもしれないけれど、年齢と共に自分が動くことでどうなるか、考える頭が養われてしまった。
怒りで震える自分の手を握り締める。
我慢我慢我慢・・・
「こんな場所で女と戯れてる時間があるのならば、さっさと仕事をしろ。無駄な事ばかりに時間を費やしおって、恥ずかしい奴め」
もうっ無理っ!
好きな人を目の前で馬鹿にされて、大人しくしてられる幼い少女じゃないんだ、私は。
そんなわけで、あったまきたぞ、この野郎っ!
「お言葉ですけどねっ!」
急に立ち上がって、ずいっと前に出た私をレィニアスさんが咄嗟に止めようとしたけれど、勢いのある人間がそう簡単に止まるわけもなく。
逆に彼の手を制して、ぎっと目の前の男を睨み上げる。
その途端、私の顔からざっと血の気が引いた。
うわあん、なんでこいつもっ!
その男の顔は黒い靄に薄く覆われていて、しっかりと見えない。
だからって、勢いよく飛び出しておきながら、いきなり後込みするわけにも行かず、私はお腹の辺りにぐっと力を込めた。
以前のように真っ黒というわけじゃない、薄い靄の向こうで男が怪訝な顔をしたように見える。
「お前は確か」
「・・・状況が見えなかったから黙って聞いてましたけど、もう少し言葉選んだらどうですか? 結果を求めるのもいいですけど、過程すっ飛ばして結果ばかり求めるなんて馬鹿げてます。調べ考えることは知性を養う大事な事なんですよ? それを上から押さえつけてばかりで一体何様なんですか」
相手に言い返す隙を与えないで、一気に言い切る。
「私にとってここでレィニアスさんに会えたのは奇跡のようなものなんです! それを無駄な時間だなんて言わないで下さい」
それに。
私は恐怖で震えそうになる足を叱咤して、けれど表情に一切出さないよう心がけながら男の前へと歩を進めた。
男の顔を覆う靄に手を伸ばす。
男は何をされるのかと、すっと後ろに下がりかけたので、靄だけに触れるつもりだった私の手が、男の頬に触れた。
その直後、そこから重く冷たい何かが私の体に流れ込んできた。
それと同時に、私の心が冷たく変化する。
「・・・こんなに黒くて醜い靄に覆われてるくせに、あなたの方こそ恥ずかしくないの?」
自分でも驚くくらい、冷たい声が出たと思った。
つっと頬のラインをなぞって、男の顎に手をかけ引き寄せると、間近で男に微笑みかける。
その時、後ろから強い力で腕を引っ張られた。
「っ!」
いきなりの事に、私の体はいとも簡単にその腕の中へと転がりこんだかと思うと、手を回され更に後ろに押しやられた。
気付けば、また目の前にレィニアスさんの背中がある。
彼の背中に流れる、柔らかな金の髪を見つめた。
・・・私今なんか変だった気がする。
いつもの自分じゃない感じ。
呆然とする私の耳に、更なる驚きの事実が聞こえた。
「彼女の非礼は私が負います。兄上」
ああ、兄上!?
え、レィニアスさんのお兄様だったの!?
黒い靄で隠されていた顔が知りたくて、そっと彼の後ろから様子を伺う。
見ても無駄かなと思ったけれど、どういうわけか男の顔を覆っていた靄はなくなっていた。
濃い茶色に似た金髪に、同じ様な色の瞳。
兄というからにはレィニアスさんと同じ様に、見目麗しいのを想像しただけに、普通に、まあちょっと整った感じ? 残念。
なんて思ってたら、ぎろりと射殺されそうな視線で睨まれた。
ひえっ!
「・・・ふん。異国の女か知らんが、教育がなっておらんな」
カチンと小さく金属がぶつかるような音が聞こえた。
すっと動いた男の手元に目をやると、外套で見えてなかったけれど、腰に下げていた長剣に手をかけている。
えええっもしかして、斬ろうとしたの!?
マジでっ?
それで慌ててレィニアスさんが助けてくれたのだと、納得した。
改めて、彼の背中に隠れながら私は考える。
さっきの自分はちょっと目の前の靄、薄いし払ったら吹き飛ぶんじゃないの?
程度の軽い気持ちで手を伸ばしたつもりだったんだけど、実際触れてみたらこう、簡単に例えるならば、なんかその場の雰囲気にのまれたっていうか。
なんであんな事しちゃったんだろ、私・・・
自分の身にに起こり始めている不思議現象に眉を寄せる。
不安になって、こてんと目の前の広い背中に額をくっつけた。
周りの花々と違う、彼の甘い匂いが私の鼻腔を擽る。
運命の相手に巡り合うために、異世界トリップしちゃいました。
っていうお手軽王道設定でいいんだけどな・・・
世の中そう上手くいかないらしい。
そう自分の考えにどっぷり漬かっていた私は、いつの間にかあの男がいなくなった事も気付かず、レィニアスさんが動いた事でようやく我に返った。
あ、と思った時には、むぎゅっと頬にレィニアスさんの体温が押し付けられていた。
だっ抱きしめらました、隊長!
「・・・無茶をするな」
ひいいっ
いつもより低く艶めいた声が私の耳元で!
腰砕けそうなんですけどっ
・・・あれ、でもいつものレィニアスさんの声と違って、何か・・・
ふと沸いた疑問の答えに辿り着く前に、レィニアスさんが言葉を続ける。
「情けない姿を見せてしまったな・・・」
「いえあの私の方こそ、ごめんなさい。助けてくれてありがとうございました。黒い靄が見えて、それで何かあの」
「カイルから報告が来ている。アオイはデュラルースと同じ力を持っているのだと」
「同じ、かどうかわからないんです。ただ見えるのは確かで・・・でも怖くて、逃げたいっていうか」
デュラは慣れたというけれど、慣れるほど、あんなのに付き合うなんて真っ平ごめんだ。
先程自分の指先から入り込んだ、冷たい感覚を思い出し、私の背が震えた。
そんな私の背に回していたレィニアスさんの腕が、その震えに気付いて、私を安心させるように抱きしめる腕に力が込もった。
「・・・さっきはムカついて、思わずその靄払ってやろうって感じで手を伸ばしたんですけど、何か勢いでああなってしまって」
どう説明していいかわからず、唇をかみ締める。
自分でもわからないあの不思議な感覚。
でも、何かわからないことが自分の身に起こり始めている事に怖くなって、私は彼の背に手を回してしがみついた。