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こんなに走ったのっていつ以来だっけ?
目に映る路地を片っ端から入り込んでいるため、今自分が何処を走っているのかわからない。
元より迷子だったのだ。
今更とも言える状況で、私は自分へ押し寄せ捕らえようとする恐怖から必死に逃げるため、意識を違う事に向けようとしていた。
確か、会社に遅れそうで駅の階段駆け上ったくらい?
閉まるドアに身体挟まれるのって、痛さより恥ずかしいんだよね。
そんな事しか最近では思い出せないくらいに、大人になると意外に走らなくなる。
それはつまり、必然的に体力が落ちていく事にもつながるわけで。
あーっもう駄目っ
これ以上走れないっ!
息が上手く出来なくて、酸欠のせいかくらくらしてきた視界に、いきなり黒い靄が飛び込んできた。
その直後、ぞっと強い悪寒が私の身体を突き抜ける。
追い付かれたのだと、竦んだ私の腕を強い力が捕らえた。
「ったく、手間かけさせやがって!」
荒い声と同時に、私の身体は壁にぶつけられた。
「痛っ!」
頬が壁をこすり、痛みが走る。
横目でなんとか自分を捕らえた男の顔を見ようとしたけれど、それは叶わなかった。
やはり、あの黒い靄に覆われている。
ひっと口から悲鳴をもらした私を、男が覗き込んできた。
お願い、近付かないでっ
アレに触れたくない!
「てめぇ何で逃げた?」
「いきなり逃げたんだ。俺らの計画を知ってるに決まっている」
いつの間にか集まってきた男達の声に、私はぶんぶんと首を振った。
知らない知らないっ
私本当に何も知らないです!
けれど、黒い靄のせいで得体の知れない恐怖と寒気が走る私の身体はがたがたと震え、声が口から出る事はなかった。
「様子がおかしい・・・おい」
壁に押し付けられたままだった私の顎を、誰かの手が捉えて、無理やり上向かせた。
黒い靄を直視するのが怖くて、条件反射でぎゅっと目を瞑る。
「お前、この国の人間じゃないな・・・」
「あ、こいつ、昨日あの祭司長と仲良くしてた女です!」
「何っ!?」
「だったら、利用出来るんじゃねーのか?」
いきなりの言葉にざわめく男達同様、私も驚いた。
なんでここでデュラの事が出るの!?
黒い靄に対する恐怖よりもデュラの事に反応して目を開けた私は、その時、一人だけ黒い靄に覆われず見える顔がある事に気付いた。
私の顎を掴んでいる、褐色の肌に灰色の髪をした整った顔立ちの青年だ。
真っ直ぐに私を射抜くように見るその紅い目の強さに、私は恐怖も忘れて見つめ返した。
こくんと唾を飲み込む。
何、このイケメン。
「・・・とにかく、ここじゃまずい。連れて行くぞ」
「おっおお、そうだな」
ぐいっと引き寄せられた腕が痛んだ。
その痛みで、呆然としていた私の意識が我に返る。
こんな黒くて怖い集団に、わけもわからず連れて行かれるわけにはいかない。
本当の本気で状況が見えないんだから、着いて行く理由もない。
焦った私はその腕を引き剥がそうと、褐色の腕に手をかけた。
その時。
「お前らっそこで何をしている!」
路地に響いた声に、男達が一斉にそちらへと意識を向けた。
いかにも警官ですというような揃いの服装に身を包んだ人達の姿が見えた。
それと同時に、私を掴む腕の力が緩んだのを感じた私は、思い切り男に体当たりをして、彼らの中から飛び出した。
「・・・っち、おいっ!」
「くそっ警備隊だ! 一旦逃げろ」
「待て!」
待てって言われて待つ奴なんていなよね、本当。
様々な声と、何かがぶつかり合ったり、どかっと倒れるような音が背後から聞こえるけど、それも完全無視して走り続ける。
バタバタと四方八方に散らばっていく足音の他に、確実に私を追ってくる足音がある。
私は振り返らずに、最後の力を振り絞る気持ちで狭い路地を駆け抜け、目の前に見えた低い柵から身を乗り出した。
例えるなら今自分が立っているのは、歩道橋の上のような場所だった。
高さにして3メートルくらい?
上手くやれば怪我をする事はないだろう。
「おいっ女!」
急にかけられた声に、私は考えるのを止めて、飛んだ。
こんなアグレッシブな自分なんて、小学生の頃以来じゃない?
なんて思いながら。
衝撃に備えて身構える私の身体を、思わぬ弾力が包んだ。
目に広がるのは、石畳ではなく、濃い青の布。
そして、男の腕だった。
「・・・お前とは、変な出会いばかりだな」
その声に、私の心臓がとくんと音を立てた。
この声・・・
濃い青の布に零れた金色の緩く癖のついた髪を追って、見上げた私の視線の先には、あの人がいた。
ずっと会いたいと思っていた、透明人間さんの声を持つ人。
まさか、こんないきなり間近で見る事になろうとは思ってもいなかった、その整いすぎた顔に見つめられ、私は息をするのを忘れた。
「どうした、大丈夫か?」
彼の金色の睫に縁取られた菫色の瞳が心配そうに、私を覗き込む。
「・・・頬に傷がある」
彼の白い手袋をはめた指が、私の頬にそっと触れ、私の心臓がまた大きく音をたてた。
それと同時に、緊張で固まっていた私の身体から力が抜ける。
張り詰めていた心の糸も切れてしまい、様々な感情が溢れ出して、私の心はぐちゃぐちゃに入り乱れ、視界がぼやけた。
怖かった。会いたかった。
何でいきなり。死ぬかと思った。
目は菫色なんだ。
何であんな黒いのが。
怖かった、怖かった、怖かった・・・
・・・会いたかった。
気付けば私は思い切り泣いていた。
大胆にも彼の身体に手を伸ばして、しがみついて泣く私を、彼はそっと体勢を変えて、私を床に下ろしたけれど、抱きしめる腕はそのままにしてくれた。
震える私の肩に、そっと彼が気遣うように手を置く。
ぎゅうっとしがみついた身体は温かく、ほのかに花の香りがして。
ふいに、ずっと忘れていた記憶が蘇った。
『ここから出られたら』
それは、特別な約束だったのに。
何でずっと忘れていたんだろう。
『お前と恋がしたい』
そう言って、透明人間さんの温もりに包まれていた。
大事な大事な、彼の記憶の欠片。
「・・・落ち着いたか?」
耳元で囁かれた彼の声に、急に現実に引き戻された私は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
いつのまにか止まっていた涙と、落ち着いた様子の私を感じて、彼が私を伺うように覗き込んでいる。
その菫色の瞳に、自分の呆然としたまぬけな顔が映っているのを見て、私は慌てて彼から離れた。
頬に熱が集まるのを感じる。
「はいっ大丈夫です・・・」
本当は、もうちょっとくっついてたかったけどね。
・・・思い切り泣いた後の顔って、何でこんな不細工なんだろって思って・・・
赤く腫れた目元を隠すように俯いた所に、いつからいたのか、他の人の声が聞こえた。
「レィニアス様、そろそろ城へ戻りませんと・・・」
「あれ? アオイちゃん?」
急に名前を呼ばれ、私は目元に手を当てながら、顔を上げた。
そこには、先程見かけたいかにも警官ですという揃いの服装に身を包んだ、アレンとミハが立っていた。
二人は驚いた顔をしているけれど、私だって驚いた。