負の感情 1
恨み、辛み、妬み、嫉み、怖れ・・・
私が触れた黒い靄は、言葉にするなら、そんな感情の類で溢れていた。
人間なら誰しも持っているだろうそれ。
でも、そんな感情と向き合うのは、きっと皆苦手。
誰もがするように、いろいろ前向きに捉えたり、楽しいことで発散したり。
私だってそうだ。
嫌な感情には触れたくない。
嫌な事は、考えないのが一番ってね。
そんなお気楽ではあるけど、自分の大事な心を守るための自己防衛か何かが働いて、気を失ったんだと結論付けた。
実際はよくわかんないけど。
だって気失ったのなんて、ぶっちゃけ初めてだし。
今私は夢現の中で、ぼんやりと先程自分の身に起こった事を考えている。
そんな私の耳に、ぼそぼそと人の話す声が届いた。
「・・・・・・のか?」
「・・・え、器の方には何も・・・私の・・・が・・・」
何を言ってるのかまでは、しっかり聞こえない。
なにより私の意識も、眠りへの欲求が強くて、起きる気になれない。
そんな状態での人の声って不快でしかないよね。
思わず、眉を寄せて、うーんと唸ってしまった。
寝てる人間の、よくやるあれだ。無意識の中での抗議。
「!」
ぴたりと会話が止まった。
そっとこちらを伺う気配の後、静かな足音と衣擦れが聞こえた。
「・・・起きたのかい?」
デュラの声だ。
いつもよりずっと低く、気遣うようなそれ。
でも、今の私は、夢現で意識の半分以上が寝ている。
実際、首から下の体はしっかり睡眠モードらしく、自分の意思ではぴくりとも動かなかった。
デュラの声にも反応せず、規則正しい寝息のままの私の姿に、彼はふうっと小さく息をもらすと、残念そうな響きで言った。
「起きたわけではないようですね」
うん、眠くて眠くて仕方ないんだよ。
まあ、ほとんど寝てるんだけど。
だから、話すなら他所でやってもらっていいかな。
今の夢現の状態から、本格的に眠りへと私の意識が落ちようとした、直後。
「そうか、残念だな」
あ、と思った。
眠くて眠くて仕方が無い体と頭を、自分の意思で無理やり繋ぎとめる。
だって、この声。
「折角だから、話してみたかったのだが」
透明人間さんだ。
起きろ起きろと必死に自分の体と頭に指示を出してみるけど、そのどちらも重く動かなかった。
「・・・ん・・・むぅ・・・」
起きようとする自分の意思と眠ったままでいようとする体との葛藤のせいで、変な声が出た。
さっきみたいな唸りと違ってなんだか恥ずかしいけれど、今はそれ所じゃない。
だって、すぐすこに透明人間さんがいるのに!
ここで起きなきゃどうする私!
自分の意思の力を総動員して、必死に薄目を開ける事に成功した。
薄暗い部屋の中、誰かが私の顔を覗きこんでいる。
「・・・アオイ?」
デュラだった。
えーい、邪魔!!
視線をずらして、もう一人の声の主を探す。
すると、デュラの隣に立ち私を見下ろす青年と目があった。
あの花の庭園で見た彼だ。
でも今の私には、それが透明人間さんなのだと、それしか考えられなくて。
ふにゃっと自分の頬の筋肉が緩むのがわかった。
ああ、良かった。
また、会えた。
まだ彼の姿が見えなかった頃、格好いい事を願った通り。
「・・・かっこいい・・・」
思わずもれた私の呟きに、彼の瞳が驚きで、一度瞬いた。
けれど、私の意思の力もそこまでで。
彼の姿を見れた事により安堵した私の隙をついたのか、急激な睡魔に襲われ、私は深い眠りに落ちてしまった。
私の名前を呼ぶ声が何度か聞こえたような気がしたけれど、それに答える事も出来ないまま。
次に目が覚めた時、私の意識は最初からはっきりと冴えていた。
物凄くよく寝た朝だからというわけではない。
それは、横になって寝ている私の隣で、すやすやと眠る男がいたからだ。
・・・デュラ、この野郎。
思いつく限りの罵詈雑言を吐き出そうとする私の唇は怒りに震え、身じろぐ私の気配に、彼の細い目がうっすらと開く。
その目が、私を捉えると甘い光を宿し、私の体に巻きついていた腕が、当たり前のように私を引き寄せた。
「おはよう」
寝起きの少し掠れた声で、デュラは寝起きの挨拶と共に、私の額にこれまた当たり前のように口付けを落とす。
それを受けて、私がにっこりと口元だけで微笑むと、唇を離したデュラは嬉しそうに微笑み返す。
そのゆるんだデュラの顔が次の瞬間には、ベッドから転げ落ちて、どすんっと床が鳴った。
私がベッドの中で、思い切り彼のお腹あたりを蹴ったからだ。
寝起きから刺激的な挨拶をありがとう。
こっちも思わず足が出ちゃったじゃない。
「いきなり何を」
「それ、確実に私の台詞だと思うんだよね」
額に残るデュラの唇の感触を手の甲で拭った。
頬に集まる熱が鬱陶しくて、柔らかな羽布団を引き寄せて包まり、目だけ出してこちらを納得いかないと伺うデュラを睨む。
でも、その私の行動は失敗だった。
その布団の上から、デュラに抱きしめられてしまったからだ。
しまった、布団が邪魔で、まさしく手も足も出ない!
「ちょっと、デュラ怒るよ?」
「怒ってるのは私の方だよ」
いやいや違うでしょ。
明らかに私が怒る立場だって。
そうじゃなかったら、許可なくベッドに入り込まれて、一緒に眠ったあげく、寝起きのデコちゅーをされた私の立場がないじゃないか。
そう抗議する事も出来るけれど、私は大人だ。
理由を聞いてあげるくらいの余裕はある。
「何でデュラが怒るの」
「・・・言いたくない」
子供かっ!
「とにかく離して」
「折角二人きりなのに、私が離すとでも?」
「いや、デュラの意見なんて聞いてないから。離してよ」
私の言葉に、デュラの眉が不機嫌そうに寄った。
「こんなにも貴女だけを見つめているのに」
「意味わかんないよ」
デュラの視線に負けじと、私もむっと眉を寄せて彼を睨む。
けれど、そんな私の視線を物ともせずに、デュラは私の顔の半分を覆っている布団を、私を押さえつけたまま器用にずらした。
口元を覆っていた事でどこか安心していた私は、どうにも落ち着かなくなってしまった。
なんせ、赤くなってる頬を見られてしまったわけだから。
「そんなに可愛い顔をして、私の腕の中にいるのに」
相変わらず、デュラが何を言いたいのかさっぱりわからない。
彼は、更に布団で芋虫状態の私を引き寄せると、その上に覆いかぶさってきた。
お、重い!
至近距離で見つめられ、焦る私の頬にデュラのため息と、彼の灰群青の髪が落ちる。
けれど、今の私にはそれがくすぐったいとか思っている余裕はなくて。
「ちょっ・・・デュラ!?」
「こんなにも自分が嫉妬深い男だったとは」
畜生、本当この男とは会話が噛みあわない。
・・・ん、待った。嫉妬?
嫉妬って、えーと、ユーグに散々妬いてる姿は見たけど、何かそれとは違う気が・・・
そこで、私はようやく思い出した。
この状態になる前の、あの寝ぼけた夢現での事を。
そうだ、デュラは透明人間さんと話してたんだ!
「ねっデュラ!私が寝てる時に話してた、あの男の人の事聞きたいんだけど」
あの金髪の超絶美形イケメンの彼!
知ってる人なら紹介して!
そう私が目を輝かせたのと、私の顎に痛みが走るのは同時だった。
「痛いっ!」
嫉妬の炎をその細い瞳に揺らめかせ、デュラが私の顎を思い切り噛んでいた。
犬かこの野郎っ!




