彼の憂鬱 1
花が咲き乱れる季節とよく言うけれど、実際にあたり一面花畑というのは東京で日々働いているだけでは、そう見れるものではない。
そんな花畑の真中、風にのる濃厚な花の香りに少しだけ眉をしかめながら、私は二度ゆっくりと瞬きをした。
「・・・どこ?」
周囲の景色に見覚えのない事から、思わずつぶやいた。
昨日は確か仕事帰りに同僚と飲んで、気持ちよく帰ってそのままお布団にダイブ。
ああ、何だ夢か。
よく友達が、夢の中でこれは夢だってわかるんだって話していた事を思い出す。
自分にはそんな経験はなかったが、今の状況はそうとしか言えなかった。
それならば、頬をつねって目を覚ますよりも、今の状況を楽しんだ方がよいと、持ち前の前向きな精神で私はあたりを散策してみる事にした。
少し歩くと、小高い丘の上に以前に海外旅行で見た遺跡の神殿のような建物を見つけ、嬉々として駆け出す。
夢の中だからなのか、少し離れた場所と思ったそこは、すぐに辿り着いた。
その時、中から聞こえた大きな溜息に、私の足はぴたっと急ブレーキをかけた。
誰かいる?
そっと柱の影に隠れるように中の様子を覗き込む。
がらんとした少し肌寒く感じるような建物の中。
溜息が聞こえるほどだから、すぐ近くにいるだろうと思ったのに、人の姿は見つけられなかった。
あれ?気のせい?
少しだけ首をかしげ、もう少し奥まで覗いてみようと、私は身を乗り出した。
だがやはり、誰の姿も確認できず、私は数歩建物の中に歩を進めた。
その時。
「誰だっ?」
「っ!」
すぐ近くでした男性と思われる低い声に、肩をすくめた。
反射的に声のした方向に首を回す。
あれ?
だが、そこにも誰の姿も見つけられず、私は眉を寄せた。
確かに声がしたのにと、あたりを探すように視線を右に左にと向ける。
「何をしている」
再度声をかけられ、今度こそと声がした方に私は顔を上げた。
けれどやはり私の視界には人影すらも見えず、石造りの壁や天井が目に映るだけだった。
声はすれども姿は見えず。眉どころか目も細めて、どうしたものかと考える。
はっきりと言おう。怖い。
「なんだ、その顔は」
「・・・だって、姿が見えないんです」
「・・・見えない?」
いわゆるこれって心霊現象?
そんな考えに背筋がぴんと張り詰めた時、思い出した。
そうだ、これって夢だった。
夢ならしょうがない、姿が見えないとはつまり相手は透明人間さんだ。
なんだなんだ、そうかそうだったのか。
うんうんと頷いて、夢の中で夢だとわかるという慣れない環境に改めて自分を置き直す。
これくらいの事で驚くなんてどうかしている。
今までの怖い夢を思い出したら、お花畑に立つ神殿の中で透明人間と会話だなんて、メルヘンの一言に限るじゃないか。
そう腹をくくって、私は見えない相手に気持ちを向き直した。
「すいません、姿が見えないからってちょっと失礼な態度でしたよね」
「・・・いや、本当に見えていないのか?」
「見えません」
きっぱりと言い切る。
そんな私の態度に、彼が戸惑っているかのように息を吐いた。
姿は見えないけれど、なんとなく・・・落ち込んでる?
そう感じたといえ、慰めるというのも何やらおかしい。
こういう時はあれだ。
相手の気持ちに気付かない振りをする!
「えーっと、私ちゃんとあなたの方、向いてます?」
話す時は相手の目を見て・・・とまではいかなくても、見当違いの方を向いて話すのは避けたい。
そう思った私の両頬が何か温かいものに包まれた。
ぐいっと上向かされる。
「なっ何!?」
「これでほぼ目が合っている」
そう言われても、目に映るのは石で出来た天井で、どうしたものかと曖昧に笑った。
いわゆる愛想笑いに、相手が溜息をついた。
「目が合ってるようで、合っていないというのは・・・気持ち悪いものだな」
「・・・失礼な」
むっと、そこに相手の顔を思いながら睨み付ける私の額に、吐息のような笑いが落ちた。
少しだけ近づいた透明人間さんとの距離に気を良くした私は、下ろしていた手を上げて、両頬を包む温かい物に触れた。
これは一体何だろう?
簡単に感想を言うならば、温かい空気の層といったところだろうか。
「これって、あなたの手?」
「そうだ」
「ふーん、何か変な・・・ふぎっ」
素直に感想を言った私の頬が左右に引っ張られた。
頬を引っ張られても痛くはないけれど、それによってぶさ顔になるのが嫌だ。女として。
焦ってその手?らしき空気の層を引き剥がそうとする私に、彼は面白そうに笑い、なかなか外れない。
こんにゃろう・・・
「いい加減にしろっ」
「っ!」
手ごたえあり!とは、はっきり言えなかった。
なぜなら姿は見えないし、人間の体を殴ったという感触ではなく、空気の層にぼよんとあたったような感じがしたから。
けれど、とにかく私の右ストレートはたぶん、透明人間さんのお腹あたりにでも当たったのだろう。
私の両頬は解放された。
「・・・きさま」
「あっ女の子に対して嫌がる事しておきながら、そんな口の聞き方最低」
「~~くそっ」
まあ24歳なんて、女の子と言い張る年齢でもないんだけれどね。
男の心がいつまでたっても少年のように、私の心だってまだまだ乙女まっしぐらですよ。
なんて事を考えていたら、ぶちぶち文句を吐き出していた彼が一言も話さなくなっている事に気付いた。
姿が見えず、触れていた手もないとなると、そこにいるのかどうかもわからない。
「えーっと・・・そこにいます?」
返事がない。ただの空間のようだ。
なんて阿呆らしい事を思ってしまった。
「もしもし?」
・・・うーん、本当にいないんだったら、今の私の状況かなり恥ずかしいんだけど。
人の気配など読めるはずもなく、ましてや透明人間さんの気配って何だろう。
何気なくあたりに視線をさ迷わせ、はあっと溜息をついた。
「・・・怒っちゃったのかなぁ」
「怒ってはいない」
「わっ」
なんだやっぱりいたのか。
怒ってないと言ったけれど、少しすねたような怒っているような声音だった。
「あの、痛かった?ごめんなさい」
素直に謝る。
じゃれあいにはじゃれあいで返したつもりだったのだが、相手の姿が見えないとなると、私の手加減右ストレートは、手加減になっていなかったのかもしれない。
そう考えたのだが、彼からの返事がない。
相手が今どんな顔をしているのかわからないというのは案外不便だ。
ああそうだ、電話してる時に似てる。
そう思いながら目を伏せた私の頬に、先ほど感じた暖かなものが触れた。
「・・・怒ってはいない。だがあのような事は初めてで」
殴られるって事にかな?
まあ男女のじゃれあいにもいろいろあるものね。
姿は見えないけれど、先ほどよりも、優しくなった声音に私は安堵した。
顔を上げた私の口元が自然に綻ぶ。
「良かった怒ってなくて」
「・・・まあ、お前が見てる方に私はいないが」
・・・全く折角人が綺麗にまとめようとしたのに。
ぶうっと頬を膨らませた私に、彼は声を上げて笑った。
楽しげな彼の笑い声に、自分も今の状況が可笑しくて思わず笑ってしまう。
その時二人の間に、ざっと風が通り過ぎた。
風に舞った花びらが数枚、目の前の何もない空間でその動きを止める。
そこに確かに透明人間さんがいるのだと、私はそれすらもなんだか可笑しくて、笑った。




