知るという事
「はあ・・・」
「・・・・・・」
「ううっ・・・」
「・・・・・・いい加減にして下さい」
「!」
ユーグの苛立ちが混じった声で、私は慌てて雑巾を握り直した。
あの花の庭園から戻った私は、仕事のスケジュールを確認し直し、なんとかユーグと合流して今は窓拭きをしている真っ最中だったりする。
けれど、頭の中は先程の庭園で見た彼の姿でいっぱいで意識がそっちに向かってしまいがちなのだ。
声は確かに透明人間さんの声だった。
その直前まで、例の夢・・・と言い切れないあの事を真剣に考えていたため、記憶は鮮やかで、聞き間違いではないと思う。
だからといって、あの場で、あの美麗な彼に声をかける勇気は残念ながら私の中に存在しなかった。
ただ息を呑んで、彼の姿を瞳に焼付け、ドキドキと胸が高鳴るのを感じていた。
私の視界の中で、彼は優雅に庭園を横切り、一つの花の前で立ち止まると、懐から小型のナイフを取り出すと、その花を数本切り取った。
それに一度だけ顔を寄せ、花の香りを確かめるように口元を寄せる。
それのなんて様になる事かと、私の胸はきゅっと締め付けられた。
美しさは罪。
そんな滑稽な言葉を本当に自分が人に対して思う日が来るとは思ってもいなかった。
けれど、今自分が見ているのはまさに、その言葉が当てはまる男で、こうやって隠れて見ている事さえ悪い事をしているような気分になった。
そして、彼の姿が庭園から消え、その足音が聞こえなくなるまで、私は動く事が出来ず。
それを思い返し、何故話しかけなかったのかと、後悔にくれているというわけだ。
仕事をしながら。
そう、仕事をしながら。
なので、私のあまりの仕事への集中力の無さに対して、ユーグが何度目かの冷たい視線を向けるのは至極当然の事だった。
「・・・ごめん」
「・・・・・・」
うう、物凄い怒ってる・・・!
謝るくらいなら、真面目に仕事をしろと、彼にしては珍しく冷たい視線が雄弁に意思を伝えている。
ユーグは先程私が連れ去られた時に、もの言いたげな顔をしていたけれど、結局は何も聞いてこず、仕事に戻ってきた私を迎え入れてくれた。
それなのに、私がこんないい加減な態度をするなんて。
年上なのに、情けないなと思い、私は頭の中身を外に追い出すように頭を振った。
ぱしんっと両頬を叩いて、気合いを入れなおす。
とにかく今は仕事に集中っ!
考えるのはそれからにしよっと。
思って、がしがしと窓を拭き始めた私を、ユーグは目を丸くして見つめていたけれど、彼もまた雑巾を洗い直すと、脚立に登り高窓拭きに専念しだした。
そうして集中すると、時間というものはあっというまに過ぎるもので。
「お疲れ様です」
掃除用具を片付け、マクレウさんに挨拶する。
いつもだったら、この後お互いの部屋へと引き上げるのだけれど、私は立ち去ろうとするユーグの腕を取った。
「ユーグ、この後暇?」
「・・・別に、特に予定はないですけど」
「それじゃちょっとお話聞いてっ!」
そう力む私に、ユーグは少しだけ驚いたように瞳を一度だけ瞬かせた後、はいとこっくり頷いた。
よしっ相談相手ゲット。
そのまま彼の腕を引いて、歩き出そうとした私達に、マクレウさんが声をかけた。
「アオイさん、言い忘れていたのですが、あなたの休日も彼と同じ日でよろしいですかな?」
「あっはい。いつでも頂けるのなら」
「では、明日は2人とも休日という事で。他の日程に関してはまたユーグから聞いて下さい」
「わかりました。有難うございます」
頭を下げて、マクレウさんと離れると私は笑顔になるのを止められなかった。
振って沸いた休日ってなんか普通に休日を取るより、凄く得した気分になる。
「ちゃんと休みもあるんだね。全く頭になかったよ」
「・・・ないと困ります。上の方達は少し違うみたいですけど、僕ら下働きは大抵4日に一度は休みです」
「そうなんだ。お城の人達の生活って全然想像つかなくって」
お城で働く人達は何かしら国のこと考えて、バタバタしてるイメージ。
貴族は優雅にお茶会と舞踏会のイメージ。
イメージはあるんだけど、いきなりその世界に放り込まれてしまった私としては、仕事をする事ばかりに頭がいってしまって、そこまで頭が回らなかった。
「アオイさんの国では違ったんですか?」
「違うよ、全然違う。もう違いすぎて、まずは目の前の事受け入れるのが精一杯って感じかな」
「?・・・アオイさんはどの大陸から来られたんですか?」
私の言葉にユーグが不思議そうに首をかしげて問いかけてきた。
私はそれに苦笑で答える。
「・・・すっごく遠い所。だから何も知らないんだよ」
自分の言葉ではっとした。
そうだ、そうだよ。
私ってば、何も知らない。
この世界にいきなりやってきて、冷静に動いていたつもりだったけど、いろんな事が抜けている。
休日の事もそうだけど、もうこの世界に来て5日目も終わろうしているのに、この国の重用だっていう祭事の内容も知らなければ、それが実際何日にあるのかも知らない。
大雑把に一ヵ月後と以前にカイルが言ったのを、ふーんと思ったくらいだ。
それに、簡単に言えば、私は隣を歩くユーグの事も知らない。
思わず、じ、と私よりいくぶんか高い位置にある彼の顔を見つめる。
知ってるのは年齢だけ。
もし、このままの関係で、何も考えずに一ヶ月過ごしたら、私はどうなるんだろ。
お金はたぶんもらえると思う。
でもお金だけもらって、追い出された、その後は?
一ヶ月、長いようで、もう5日もここに来て過ごしている。
時間というのは、案外自分が思っているよりも早く進んでしまう。
知らなくちゃ。
学校で先生から勉強を教えてもらったように、社会に出て仕事を教えてもらったように、自分が何もしなくても、誰かが私のやる事を指し示してくれていた、あの時と今は違う。
あの頃のように、流されて日々を過ごしては駄目だ。
自分でちゃんと動かなくちゃ。
それは今までの自分が向き合う事のなかった意識だった。
自分の意思で決めて、行動するというのは、こんなもんだろうと仕事も恋もなんとなく流されていた私にはかなり苦手な事。
でも、誰も教えてくれないこの場所では、私がちゃんと自分で動かないといけない。
「・・・どうしたんですか?」
思わず、じっとユーグを見つめたままでいた私の視線に気付いた彼は、居心地の悪そうな表情でそう言った。
その顔がなんとも可笑しくて、少しだけ暗くなっていた自分の気持ちを浮上させながら、私は笑った。
「ユーグってやっぱ可愛い顔してるなぁって」
ユーグの顔が、この女何を言ってるんだと、怪訝そうに歪む。
赤くなって焦って欲しいのに、この子はいつも、私の願望と違う表情を返すなぁと思いながら、私はそれもまた可笑しくて笑った。
「あのねユーグに私と友達になってほしいな」
彼を最初相談相手として誘ったときはこんな事を言うとは思ってもいなかった。
というか、日本にいる時に、そんな言葉を言った事がないような気がする。
私の今までは友達とは、いつのまにか仲良くなって、いつのまにかそうなっているものだからだ。
でもここは異世界で、私はここの事を何も知らない。
知ろうとする最初の一歩がこんな事で始まるのも悪くないと思う。
ユーグの顔は言葉の意味がわからないというように、きょとんとしている。
私はそれを下から覗き込んだ。
「年上の女は駄目かな?」
そう言うと、ユーグの顔がようやく意思を取り戻したように、さっと赤味を差した。
ふいっと顔をそらされる。
「だっ・・・駄目じゃありません」
・・・彼のツボはいまいちわからない。