表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/21

抱きしめる腕の中で

「試す?」


 まるでとぼけるようにレオンが首を傾げた。

 ノノは主人であるレオンの前に立ち、怒りと悲しみを押し殺しながら言葉を紡ぐ。


「確かに私はお仕えすることに当初抵抗を示しました。でも今はこの通り、勤めに励んでいるつもりです」


 レオンはその言葉に静かに頷いた。


「それは分かっているよ」


 ノノはぎゅっと拳を握りしめ、心に浮かぶ疑念をぶつけて問い詰める。


「ではなぜ、たびたび私を試すような真似をされるのですか?」

「……」

「贋金を施したり、出入りの商人に言い含めて誘惑してみたり、あまりのなさりようではありませんか?」


 僅かに声を震わせながらノノは訴えた。

 最初に贋金を渡されてからというもの、彼の奇妙な振る舞いにノノは困惑し続けていた。

 偶然だと信じたかったが、何度も同じことが繰り返されればそれは偶然では済まされない。賢明な辺境伯がそんな誤りを重ねるはずがないと、ノノは気づいていた。


「今日の商人のことにしても、不自然さには嫌でも気づきます」


 家令は具合が悪いということになっていたが、ノノはそれを確かめたわけではない。

 重大な役割を一介の侍女であるはずの自分が急に任されたことにも違和感があるし、そうして初めて訪ねた先の商人が、辺境伯という立場ある方の遣いであるノノを試すような行動をとるのもおかしい。それなら本気で賄賂を渡されたほうがまだあり得る話だったろう。

 後になって商人が辺境伯の慧眼を褒めていたことからも、彼らが仕組んで自分を試したのではないか――そんな疑問にたどり着くのは容易いことだった。

 でも、分からないのはそんなふうに扱われる理由だ。


「なぜ私を試されるのですか?」


 ノノは胸元で手を握りしめた。胸が苦しくて、痛かった。


「信じていただけないのが、ただ辛いのです」


 本当は彼に対して死を偽った自分にそんなことを言う資格はないと分かっていたから泣くつもりはなかった。

 でも毅然と訴えていたはずのノノの声が細くなり、その目から堪えきれなくなった涙がとうとう一粒こぼれ落ちた。

 その涙は言葉では尽くせないほどの痛みと、深い戸惑いを含んでいた。一度滴った涙は、次から次へと真珠のように彼女の頬を伝う。


「ノノ…!」


 レオンがとっさに立ち上がり、彼女を抱き寄せた。強く、まるで彼女の全ての苦しみを取り除くかのように。


「すまない…泣かせるつもりはなかったんだ」


 彼の言葉は低く、狼狽を示して震えていた。

 彼は掌でノノの髪をそっと撫でる。何度も、何度もなだめるように触れる彼の手は優しかった。本気で謝ってくれていることはそれでよく分かった。

 でもノノは主人に抱きしめられるわけにはいかないと、両手でレオンの胸を押しのけようとする。


「放してください…私はただの侍女です。こんな風にされるわけには…」


 だが、レオンはノノを放そうとはしなかった。


「君が泣き止んでくれるまで離さない」


 その言葉にノノは驚き、しかし抵抗する力を失った。

 彼の腕の中で、ノノはしばらく泣き続けた。赤くなった目を拭って、必死に堪えようとする。

 この二年というもの、気丈に振る舞い続けたノノの精一杯張り詰めた心の糸が思わぬ形で緩んでしまう。一度堰を切った涙はなかなか止まってはくれない。

 小さく震える肩をレオンは包み込むように抱きしめて、言葉の通りずっと離さなかった。

 やがて涙が止まり、彼女の呼吸が落ち着いたころ、レオンはゆっくりとノノを解放してくれた。

 彼は向かいのソファに戻って真剣な眼差しをノノに向ける。その眼差しには、いつもの冷静さとは違う柔らかさと温かさが宿っていた。


「これまでのことを説明するよ」


 そうして、彼は静かに語り始めた。


    ■


 この国の治世は安定しており、諸外国との関係も良好な状態が続いていた。

 問題らしい問題がなく、国内は平穏であるかのように思えたが、五年ほど前から国内で頻繁に贋金が見つかるようになった。

 贋金――偽造された貨幣は経済を破壊する。贋金が見つかるたびに王家は人をやって調査を行ったが、流布元は見つからなかった。

 特に少額の貨幣が狙われているようだったが、見た目ではほとんど見分けがつかないほどの巧妙な偽物であったことや、次第に見つかる頻度が上がってきていることがまずかった。

 度重なるうち、王家の悩みは深まっていった。

 もし国内だけで留まっている間に対処しきれず、外国にまで贋金が流れては国家の信用が毀損されてしまう。

 贋金が見つかった地域が広範に及んでいた一方で、誰が、あるいはどの貴族が関わっているか、いないのかの予想がつかず、大々的に捜査をすることも難しい。

 そこで、少し前とうとう王家はこの問題への対処を辺境伯レオン・ド・ヴィラールへと内密に命じたのだった。

 ヴィラール辺境伯はかつて一触即発の敵対関係にあった隣国との国境を含む広大な領地を治める国内屈指の大貴族である。

 今では隣国との関係は改善して両国は良好な商取引ができる状態にあるのだが、もし贋金が出回って取引に差し障りが出るようなことがあれば、間違いなく辺境伯領が真っ先に戦火の発する場所となる。

 だからこそ、贋金問題においては王家に次いでヴィラール辺境伯が深く憂慮し、解決を求める立場にあるのだった。


「贋金には、価値のない金属の表面に金や銀を塗布する方法もあれば、見た目が金銀に見える他の金属を使って鋳造する方法もあるが、いま見つかっているものは後者だ」


 そう言って、レオンは一度席を立つと机の物入れから贋の銅貨を出してきた。

 テーブルにそれを置いて溜息をつく。


「古びた貨幣に見えるように、細かな傷までつけられていて簡単には判別がつかない――と思っていたんだ」


 でも君は違った、とレオンは呟いた。


「最初に君に褒美を渡したとき、あれが贋金だと私は気づいていなかった。でも受け取った君が一瞬だけ妙な顔をしたから、もしかしたらと思った」

「あ……」


 その時のことはノノの記憶にもしっかりと残っていた。受け取った褒美に違和感を覚えた刹那のことだ。

 レオンは熱心に言葉を継ぐ。


「君が見抜いたんじゃないかと思ったんだ。でもまさか、いま渡したのは贋金だったかなんて聞けない」


 偽造貨幣が既に少なくない数、市場に出回っているということは決して知られてはならない秘密だった。

 もしそんなことが民の間に知れ渡れば、貨幣が疑われて混乱が生じ、取り返しがつかなくなってしまう。


「だからもう一度、贋金を渡してみた。これほど精巧な偽物だ、たとえ使ったとしても気付かれる可能性はほとんどない。それでも君は贋金を使うことなく保管したね」


 問いかけの形はとっていたが、レオンが確信を持っていることをノノは感じていた。控えめに頷いて彼の言葉を肯定する。


「はい。頂いた褒美のうち、偽物はすべて部屋に隠してあります」

「君の高潔さは、称えるに価するものだ。君のお父上はきっと君に大切なことを教えたのだろう」


 そう言って感嘆を込めてレオンが吐息を漏らした。

 贋金を手にしたノノがまず最初に考えたのは贋金を使えば縛り首という古い法のことよりも、王家が懸念をしたのと同じ経済崩壊への憂慮だった。

 その考えに至ったのは実父から貴族として国を支える存在であるよう育てられたことに加え、義父から商人としての誠実さを教えこまれたことによる。

 二人の教育のお陰で、貴族の令嬢としては稀有なまでの地に足の着いた誠実さを今のノノは身につけていた。

 もちろん、レオンはそんなことは知らないのだからあくまでテオドール・バルボーの教育を褒めたのだろうが、ノノは二人の父を誇りに思った 。



「数度試したことで、君が贋金を見抜く眼力を持っていることに確信を持った」

「……では、今日のことは」

「大切なことを頼む前に、君という人がいかに得難い誠意をもつのかを証し立てしたかったんだ。君が甘言に惑わされず、私のために行動してくれたこと。それがどれほど尊いことか……君にわかるだろうか」


 レオンの熱の籠った言葉にノノは涙を再びこぼし、その目元を彼の指先がそっと拭った。


「惑わせ、悲しませて本当にすまなかった」


 もう一度、レオンはそう謝罪する。


「君が戻った後、商人の不適切な振る舞いについてすぐに書面に綴って私の元へ届けてくれたのを読んだ時、どんなに嬉しかったか……本当は君に真っ先にそのことを伝えるべきだった」

「いいえ……いいえ、私は…一介の侍女に過ぎません」


 たとえ忠誠を疑われたとしても主人に文句を言えるような立場ではないのに、彼に試されることに耐え切れなくなってこんなふうに心の内を吐露してしまったことをノノは恥じた。

 顔を伏せようとするノノの顎をレオンの指先がそっと支えて彼は言う。


「髪飾りを買って来るといいと言ったのは、ただ君の美しい髪を飾ってほしかっただけで他意はない。今度私から贈らせてほしい」


 その言葉に、ノノの胸はじんわりと温かくなった。

 レオンの不器用さが心に響いたのだ。

 レオンはノノの顔をまっすぐに見つめ、決意したように口を開く。


「どうか、この問題に君の力を貸してくれないだろうか」


 事情を説明されたことで、これまでの彼の行動がすべて役目のための真摯さから来たものだとわかり、ノノは安堵する。そして、彼の頼みを断る理由などなかった。


「はい。私でよければ、喜んで」


 泣き笑いの顔でノノはそう答えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ