私の芯であるもの
商人はにこやかに言った。
「浮いた金を、お嬢さんが懐に入れてはどうですか?」
ノノはぞくりと背筋を震わせる。これはとてつもなくまずい状況だった。
商人はあたかも親切心からの提案のような顔をしているが、支払いのための金を侍女が懐に入れることなどあってはならない。仮に何かで値引きが行われたにしても、余った金はきっちりと持ち帰らなければならないのだ。
そして、こんな誘いを受けたという事実だけでも侍女であるノノの立場は悪くなりえる。
ノノは膝の上で握った拳に力を込めて口を開いた。
「このような不透明な値引きは、主人の信用を損ねる原因になります」
その言葉に、商人の顔からスッと笑みが消える。ぞっとするほど冷たい目で彼はノノを見ていた。それに対してノノはキッと視線を強めて商人の目を見返す。
彼女の胸には気高い誇りと、商売における信用の大切さが刻み込まれている。これまで義父や義兄とともに商人として修業を重ねた経験が、今まさに役立っているのだ。甘言に惑わされず、自分の判断に自信を持つこと、それが商売の鉄則だった。
そして商売においては、あまりに都合の良い話には必ず何かしらの代償が伴うと決まっている。
もしこのような申し出を受けてしまって、後から商人が「辺境伯がその権力で支払いを拒み、値下げを強要した」などと騒ぎ出したら、辺境伯の評判に傷がつくことになる。
貴族のそうした振る舞いは、強行すれば押し通せることもあってしまう。なぜならそれが貴族たる者の持つ強権であるからだ。
でも、押し通せることと受け入れられることとの間には越え難い隔たりがある。一度でもそんなことをしてしまえば、まともな商人が寄り付かなくなったり、即金以外の取引を拒まれたりと、その後に多大な影響を及ぼすことになるのだ。
何よりもまず『辺境伯の信用』に意識が行ったのは、貴族エレオノールが身につけた貴族たる者のあるべき振る舞いに基づくものだった。
ノノは席を立って毅然と商人を見下ろした。
「このたびのこと、辺境伯様にご報告いたします。今後のお屋敷への出入りに差し障るかと思いますが、ご承知おきください」
きっぱりと告げて、それでも礼儀正しく一礼したノノを見上げて商人は一瞬だけ目を細めた。
そして彼は破顔一笑してゆっくりと拍手をしながら立ち上がる。
「ははは、なかなか素晴らしい啖呵を切られますな」
「……?」
「さすがは辺境伯の見込まれた御使者。見事なものです」
その豹変にノノは戸惑って眉をひそめた。商人が急に称賛の言葉を口にしだしたが、その態度が何を意味するのかを考えあぐねていた。
不審感をあらわにしているノノの前で商人はにこにこと微笑む。
「大変失礼をいたしました。貴女を試してみたくなりましてね」
「……なぜ、そんなことを?」
「意地の悪い老爺のほんの出来心ですよ」
冗談めかして言いつつ商人は最初に出迎えた時と同じ温和な印象を受ける笑顔でノノをじっと見つめる。
「いくら金を浮かせたところで、ここから持ち出すことなど並の者には至難の業です。表には厳しい護衛の方がついているし、仮に持ち帰るところまで上手くいったとて、侍女の身で金貨など使おうとすればすぐに不審に思われるでしょうから」
商人はあけすけにそう言ってから、ノノを見て言い直した。
「いや、貴女ならば持ち出すだけの度胸がおありかもしれませんね」
懐に金貨を忍ばせて護衛の前に出ても顔色を変えずにいられそうだと言われて、それを褒め言葉と受け取って良いのかわからずノノはいささか顔をしかめた。
その反応を見た商人は頭を掻いて片手で席を示す。
「いやはや、不躾で申し訳ない。どうぞお掛けください。取引の続きと参りましょう」
ため息をつくと、ノノは言われるまま席に座り直した。手のひらがじんわりと汗ばんでいるのをごまかすように、カップを口に運んだ。
商人もノノの動揺を分かっているのか急いで話を進めようとはせず、空になったカップにお茶を注ぎ足して茶菓子を勧めてくる。
それには手をつけず、ノノは唇を湿すと控えめに口を開いた。
「金貨を使えば不審を招くことなど、正直に申し上げて私は気づいておりませんでした」
「おや、それでも貴女は拒絶なさったと?」
「私の家は商売をしているので、どうにかして家の者へ託してしまえば金貨は処理できてしまいます」
その点は、ほかの平民出の侍女とノノの事情の異なる点だった。でも、そんなこと欠片も考えもしなかった。
興味深げに身を乗り出して商人が問いかけてきた。
「でもそれなら余計になぜ?」
「私がもし誘惑に負けてその金を手に入れるようなことがあったなら、あるいは取引に不審な点があれば、いずれ辺境伯がお気づきになることでしょう」
首を傾げている商人に答えながら、ノノはレオンの鋭い目と彼から寄せられる信頼を思い浮かべた。彼は決して見逃さないだろう、そんな確信があった。
それに、ノノが身の危険を感じずに商人の悪い誘いをきっぱり拒絶できたのは、レオンが付けてくれた護衛がすぐ外で待機しているという安心感によるものが大きい。
もしこの場にいるのが自分ひとりだけで頼る者がなければ、賄賂を拒否したことで商人に危害を加えられることになる可能性を考えなければならなかっただろう。
ノノは改めて自分がわたった危ない橋を思ってレオンに心の中で感謝した。
商人はにこにこと笑い、満足げに頷いた。
「なるほど、辺境伯様の慧眼は本当に素晴らしい。さあ、では約束通り、正規の対価を頂戴しましょうか」
両手を揉み合わせて、ようやく彼は本来の手続きを再開する。
ノノは改めて商人の帳簿の通りに支払いを済ませ、金貨の入った木箱を商人に手渡した。それで取引は無事に終わりとなる。
だが、ノノは席を立つ前に商人に切り出した。
「あの、もう一つ。髪飾りを見せていただけませんか」
「ええ、喜んで。辺境伯がご入用で?」
「いいえ。私の個人的な入り用です」
ノノがそう言うと、商人は隣室から木箱におさめられた髪飾りを運んできて見せてくれた。
侍女であるノノの手の届く価格帯のものが並んでいる。貴族のための品よりずっと質素だが、彫り細工の入った品などはとても美しかった。
「貴女の髪には、どれもよくお似合いになると思いますよ」
すっかり表情を柔らかくした商人は目を細めてそう言う。
彼女は髪飾りのひとつを手に取り、じっと考え込んだ。華やかな装飾が施されたその髪飾りを見つめる彼女の表情は、どこか複雑だった。
■
その夜、ノノはレオンに呼ばれて彼の部屋へ向かった。いつものように扉をノックし、返事を待ってから部屋に入ると、レオンが机に向かって書き物をしていた。
「お呼びでしょうか」
「ああ、来たな」
机の前に立ったノノを迎えたレオンが微笑を浮かべ、それから彼女の髪に視線をやって少し首を傾げた。
「髪飾りは着けていないのか?」
その問いに、ノノは一瞬躊躇ったあと正直に答えた。
「はい、買いませんでした」
「小遣いを渡したはずだが、どうしてだ?」
レオンの問いに、ノノはまっすぐ彼を見つめ返した。そして決心したように口を開く。
「どういった意図で私をお試しになられているのですか?」
とうとう正面から疑問をぶつける時がやってきたのだった。