黒い思惑
その日の夕方、ノノは銀食器を磨いていた。ピカピカに輝くまで食器を丁寧に磨き上げ、棚に戻すのを繰り返す。そうするうち、棚の奥に壊れたランプが押し込められているのを見つけた。
「これ…?」
棚の奥に押し込まれていたランプを手に取ってみると、それは繊細な装飾が施された外国製の高価な品と分かった。しかし、一部が歪んで壊れてしまっている。
ちょうどその時、侍女頭が通りかかり、ノノがランプを手に取っているのに気づいた。
「ああ、それはいいのよ。壊れていて直らないの」
「でもずいぶん立派な…」
「ええ、旦那様が気に入っていらしたランプなのよ。でも、使用人が落として壊してしまったの」
金属細工が大きく歪んでいる理由がそれで分かってノノは「そうなんですか…」と手にしたランプを見下ろした。
「処分するようにと言われたのだけれど、旦那様が気に入っていらしたからどうにかして修理できないものかと思ってずっと取っておいたのよ。残念ながら近隣には直せる職人がいなくて、もう何年もそこで埃を被っているのだけれどもね」
侍女頭の言葉に、ノノは少し考え込んだあと思い切って提案する。
「もしお許しいただけるなら、私が知っている職人に修理を頼んでみてもよろしいでしょうか」
「そういえば、あなたは商人の娘だったわね。伝手があるのならお願いするわ」
思わぬ申し出に侍女頭は少し驚いた表情を浮かべた後、ノノの来歴を思い出したのか納得したように頷いた。
「もし直せたら旦那様もお喜びになるでしょう」
「ありがとうございます、それではお預かりいたします」
ぱっと輝くような笑顔を浮かべ、ノノはランプを抱きしめる。
侍女としてできることは限られているかもしれないが、それでも彼のために最善を尽くしたい——その思いがノノの心を支えていた。
■
翌日、執務室に呼ばれたノノは辺境伯から思わぬ役目を申し付けられていた。
「腰を傷めた家令の代わりに、街の商人への支払いに行ってくれ」
レオンの言葉に、ノノは目を丸くした。
貴族の買い物というのは、先日侍女達が買い物をしたときのように商人が品を屋敷に持ち込む形で行われることが多い。その場で支払いをすることもあれば、何回かの取引の分をまとめて別の機会に支払うこともあるし、今回ノノが頼まれたように商人の元まで遣いが出向いて支払いを済ませる場合もある。
ノノが依頼されたのは、常日頃から取引のある衣服や靴といった品々を扱う街商人への支払いであった。これは貴族である辺境伯のためのものというより、使用人のための買い物の対価が主だ。
ただ、主人の買い物か使用人のための買い物かにかかわらず、侍女である彼女が支払いという大役を任されるのは異例といえる。
「君は商人の娘だと聞いている。他の誰より適役だろう」
レオンから直々にそう言われて、自分が商人の娘として過ごしてきた経験が役立つのだと感じ、ノノは誇らしさを覚えた。
「かしこまりました。お任せください」
ノノは小さく頷き、感謝の念を込めて答えた。
レオンは微笑みながら、ノノに一枚の銀貨を差し出した。
「ついでにこれで、何か髪飾りでも買ってくるといい。ぜひ身につけたところを見せてくれ」
支払いをしてくるよう命じられたこと以上に、この一言にノノは驚きを隠せなかった。
これではまるで個人的な好意を向けられているかのようだ。差し出された銀貨に視線を落として、ノノは曖昧な笑みを浮かべてそれを受け取った。いつものことながらレオンの真意を測りかねていた。
■
いざ街に向かう馬車の中で、ノノは改めて預かった帳簿を見返していた。
購入品のリストには商品の名前や数量、金額が細かく記されており、それを正確に把握した上で支払いをしたかったのだ。
商人の元へ行けば、向こうから帳簿の控えを見せてくれるだろうが、それがこちらで取っている記録と合うかどうかを確かめることが肝要だった。
(記録は商人の命、か…)
義父であるテオドールの言葉が頭に浮かぶ。
もし商品や金額に間違いがあれば、商人は即座に信頼を損なうことに繋がる。義父と義兄のアルフォンスに厳しく教えられてきた彼女は、リストの内容をほとんど暗記する勢いで目を通した。こうして情報を頭に入れておけば、現地で何か問題が起きた際にも対応しやすい。
金を動かすということもあって、辺境伯の命令で屈強な護衛がつけられ、ノノは厳重に守られた馬車で街へ向かった。
馬車の中でふとノノは護衛たちの方に視線を向けた。彼らは鋭い目で周囲を警戒し、少しも油断する様子はない。任された仕事を無事に終えることができるよう、心の中で祈りつつ、自分に課せられた責任の重さを改めて噛み締めた。
(大丈夫、私ならできる)
自分に言い聞かせるように、ノノは再び帳簿に目を落とした。
商人の元に到着すると、迎えてくれたのは年配の温和そうな男だった。にこやかに出迎えられたノノは、その場で軽く挨拶を交わし、取引の場へと案内された。
「ようこそいらっしゃいました。いつもの御家令の方ではないのですね」
「実は彼が体調を崩したため、本日は私が代理で参りました」
「それはいけない、お大事にとお伝え下さい」
商人は気の毒そうにそう言いながらも初対面のノノを歓迎し、奥の応接間に通してくれた。
護衛たちは金の入った木箱を室内に運び込むと、部屋の外で待機する。彼らが部屋を出ていくと商人はノノの前にお茶を出してくれた。香り高い上質なお茶だった。
一口飲んだところで、いよいよ本題に入る。
「さて、今回の支払いについてですが…」
そう言いながら商人が紙面に記した金額を提示してくる。
ノノは一瞥してすぐに違和感を覚えた。その金額は、ここに来るまでに確認しておいた帳簿に記されていたものよりも明らかに低かったのだ。
「えっと…失礼ですが、こちらの金額は何かの間違いではありませんか?」
ノノは慎重に口を開いた。商人は少し驚いたように目を見開いたが、すぐににこやかな笑みを浮かべて首を振った。
「いえいえ、これはサービスですよ。お嬢さん、辺境伯様のためにわざわざお越しくださったのですから」
商人の言葉にノノは戸惑わずにはいられなかった。
通常、貴族の取引において「サービス」という言葉が使われることはあまりない。それに、辺境伯から預かってきた金額との差があまりにも大きい。
(何か裏があるのかもしれない…)
そう感じたノノは食い下がった。
「お手数ですが、帳簿を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
商人は一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑みを浮かべて帳簿を取り出した。ノノは急いでそれに目を通す。やはり最初に預かってきた金額が正当であることを確認した。まもなく帳簿から顔を上げて真顔で伝える。
「やはり、金額が間違っているかと。もう一度お願いできますか」
静かにそう告げると、商人は笑みを浮かべたまま、暗い目で彼女を見つめてきた。
「まあまあ、お嬢さん」
出迎えてくれたときには柔和に見えた笑みが今は急にどす黒く見えてくる。
その変貌にノノはぐっと握った手に力を込めた。自分もこれでも商人の端くれ、胆力で負けてはならぬ場面には遭遇したことがある。今も怯えたら負けだと直感が囁いていた。
「これくらいの金額、浮かせてしまっても誰も困りはしませんよ。その浮いた金を、お嬢さんが懐に入れてはどうですか?」
商人がにっこりと笑って告げた一言にノノの背筋を冷たい汗が伝い落ちた。