あくまで侍女として
窓からは美しい月が見えている。
ノノはベッドで横たわりながら、漏れ聞こえてきた会話のことを思い返していた。
『彼女はただの侍女ですよ』
辺境伯であるレオンは、多忙な日々を送っている。
領地の統治や国境の維持、それに加えて国王から国政についての助言を求められることもある。
国王は高齢であり、数年前に病で王子を亡くして以来、次期王位の後継についてもさまざまな噂が立っていた。
その中で、レオン・ド・ヴィラール辺境伯が後継者となる可能性が囁かれるようになり、それと共に彼の仕事は一層増えていた。
本来なら、彼の忙しさを一番支えるべき存在は妻となるはずの自分だったのだろう。
今の自分はただの侍女。かつて夢見たような妻としての役割を果たすことは叶わなくとも、それでもせめて侍女として彼に仕えるのだ。
それを自分に言い聞かせながら、ノノは再び目を閉じた。
■
ある夜、ノノはいつものようにレオンの着替えを手伝うために彼の部屋を訪れた。
しかし、ドアをノックしても返事はなく、部屋の中は静まり返っている。不在かと思いながらもドアを開けると、執務机に突っ伏しているの姿が目に入った。
「辺境伯様…!?」
驚き、慌てて駆け寄って声をかけ、そっと背に手を触れた。その背中はゆっくりと上下している。静かな寝息も聞こえてきて、どうやら疲れ果てて眠り込んでしまったようだった。
「寝室でお休みいただいたほうが良いけど…」
そう思いながらも、ノノは彼を起こすべきか迷った。伏せた目元には疲れが滲んでいて、少しでも休ませてあげられるならそのほうが良いんのでは…と思ったのだ。
そこでソファの背にかけてあった織物をそっとレオンの背にかけた。その瞬間、レオンの手がぎゅっとノノの手首を掴んだ。
「っ…!」
驚いて体を強張らせると、レオンがうっすらと目を開けてノノを見つめていた。彼の眠たげに煙る緑の瞳が、少し驚いたような光を帯びてノノを見つめている。
「…ああ…君か」
レオンはそう呟き、ノノの手をゆっくりと離した。
ノノは慌てて一歩後ずさり、深く頭を下げる。
「申し訳ありません、旦那様。お疲れのご様子でしたので…」
「ありがとう。でも、大丈夫だ」
そう言って彼は微笑んで、ノノを見つめた。その微笑みにトクンと胸が鼓動を打つ。
レオンは肩にかけられた布に気づくと笑みを深めて、それをノノの手に戻してくる。
「まだ仕事が残っているから、着替えはしなくていい。今夜は戻っていいよ」
こんなに多忙で、疲れている様子なのにまだ仕事をするという彼を心配せずにはいられない。でも侍女の立場で無理をしないでほしいなどと声をかけられるわけもなく、ノノはただ頷いて部屋を出ようとした。だが、レオンが彼女を呼び止める。
「待って」
彼は引き出しの中から出してきた銀貨を手に取り、それをノノに差し出した。
「これを」
「ですが、今晩は何もしておりません…」
ノノが断ろうとすると、レオンは彼女の手を取り、そのまま銀貨を握らせた。
大きな手に包みこまれてその温もりを感じ、思わず頬が熱くなる。
「布をかけてくれただろう」
彼はノノの耳元に唇を寄せてそう囁いた。吐息を感じた耳までも熱くなってしまう。
腕にかけたまま彼の部屋から織物を持ち出してしまったことにも気づかないまま、ノノは一礼すると急いで部屋を後にした。
自室に戻ったノノはドアを閉めると、そのまま背を凭れてしゃがみ込む。心臓がばくばくと脈打って鎮まらない。持ってきてしまった織物に顔を埋めると、ほんのりとレオンが使う香水の良い香りがした。
(ただの侍女――なのに)
もう彼の婚約者でもない、それどころか対等に話せる貴族の身分ですらない。
それなのに以前よりずっと彼との距離が近い。そのことがノノの心を惑わせる。
やっと顔から赤みが引いたあと、手を開き、彼のぬくもりを伝える銀貨をじっと観察する。いつも貰う贋金の銅貨とは違って、それは本物のようだった。
「今日に限って……?」
この件だけは、ずっと不可解だ。ともかく、ノノはその銀貨をいつもの小箱とは別にして取っておくことにした。
■
翌朝、レオンは早朝から領内の用で供を連れて出かけて行った。昨晩の疲れた様子が思い出されてノノは心の中で彼の体を案じる。
主人が不在で手持ち無沙汰になったノノが部屋で過ごしていると、侍女仲間のサラが部屋をノックしてやってきた。
「ノノ、今とっても素敵な商人が来てるのよ! 一緒にお買い物しない?」
特に興味はなかったが、サラに誘われてノノは外に出た。
辺境伯の屋敷ともなると、商人が多数訪れる。主人に対して高価な品々を持ち込む商人と、数多くいる使用人らのために手頃な品を持ち込む商人だ。
今回訪れたのは後者であるようだった。
庭に集まった侍女たちの前に、色とりどりの商品が並べられていた。珍しい異国のアクセサリーや布地、王都で流行しているという美味しそうなお菓子が並んでおり、侍女たちは歓声を上げてはしゃいでいる。
賑わいに近づく手前で、荷運びの男性陣と共に立つ商人の顔に目をやったノノは目を見開いた。やってきた商人というのが、義兄アルフォンスだったからだ。
商人バルボーはどちらかといえば貴族階級向けの仕事を多くしているが、使用人らを相手にした商いもしていないわけではない。義兄はそれを利用してこっそりとこの辺境伯邸へ忍んできたのだった。
彼が来ても侍女頭から何も言われなかったところを見るに、商人バルボーの名を使わなかったのかもしれない。もし彼がノノの家族だと告げていたのなら、あらかじめ侍女頭がノノを呼ぶなりしていただろうから。
アルフォンスのほうもノノに気づき、素早く周囲の侍女たちから少し離れた物陰に彼女を誘った。
「ノノ、大丈夫か? 無理をしていないか?」
「大丈夫。みんな親切にしてくれるし、辺境伯様もお優しいから…」
貴族だったエレオノールが商人の義娘になるという時にも、義兄は随分と心配してくれたのを思い出す。
父が騙され、貧乏になってからは使用人を雇うことも出来ずに、父娘は自分で手を動かすしかない生活を送っていた。だから侯爵令嬢という肩書ではあったもののエレオノールは彼が思うよりずっと庶民的な生活をしてきたのだが、それでも彼はノノが重い荷を運んだり水仕事をしたりするたび、気遣ってすぐ代わろうとしてくれた。
今もまた心配そうに問いかけてくるアルフォンスに、ノノは微笑みを浮かべて答える。
しかし、それでもアルフォンスは表情をかえず、むしろかえって眉をひそめた。
「本当か? もしお前が辛いなら、俺は…さらってでも連れ出してやる」
ノノはその言葉に驚きながらも、首を横に振った。
「そんなことをしたら、罪人になってしまう」
侍女が勝手に逃げ出すだけならまだしも、商人が拐かしたとなれば立派な犯罪だ。
まさかそんなことに義兄を巻き込めないし、そもそもノノはここを出ていきたいとは思ってはいなかった。
アルフォンスは悔しそうに唇を噛んだが、思慮深い彼はもとよりそれが罪と分かっている。無鉄砲にそんなことをする人ではなく、彼は深く息を吐いて頷いた。
「分かってる……父さんがかなりの僻地まで行っているせいで、なかなか連絡がつかないんだ。話が出来たら、きっとお前を連れ出す。また二人で商売の旅をしよう」
その言葉に、ノノは心が痛んだ。
ここで貴族の侍女として勤めることは、せっかく商人として仕込んでくれた義父の尽力を無に帰すことなのかもしれないと思うと、ここでレオンを支えたいという思いと今の家族への思いとの間で引き裂かれそうな気持ちになる。
父の友人という縁で貴族の死の偽装という一大事に手を貸してくれたテオドールにも、家族として自分を受け入れて守ろうとしてくれるアルフォンスに対しても感謝しかない。
それに当初の予定であれば、アルフォンスと自分は今頃、他の土地での取引に行っているはずだった。優しい義兄はそれを曲げてわざわざ自分のためにこの地に来てくれたのだ。
「ありがとう、義兄さん。手紙を書くから」
ノノはそう言って微笑み、アルフォンスの気持ちを少しでも軽くしようと努めた。
アルフォンスは悔しげだったが、二人でいるところを誰かに見られたり怪しまれたりしないよう、注意してノノを物陰から送り出してくれた。
ノノも何気ない様子を装って、賑やかな侍女たちの間にまぎれて商品を覗き込む。
「さあ、欲しいものは見つかりましたか。お代はこちらで頂戴しますよ」
にこやかな商人の顔になってアルフォンスが侍女達に声をかけている。
見目の良い彼の微笑みに侍女達がひそかに黄色い声を漏らしているのを聞きながら、ノノは砂糖菓子を一袋だけ手に取った。