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新たな生活

 それからしばらくの旅ののち、ノノの乗った馬車はヴィラール辺境伯の領地であるヴィーニュ=ドールへと到着した。

 穏やかな気候と肥沃な大地のお陰で、あらゆる種類の農作物が豊富に採れる恵まれた土地だ。馬車の窓に映る景色からも、街の人々の陽気さが伝わってきた。それはつまりここが豊かな土地であり、治安の良い場所であることの証だった。

 よりによってレオンと二人で馬車で長時間過ごすことになったノノは常に緊張を強いられていたが、意外なことに旅の間というものレオンはただじっとノノを眺めるだけで、何か問い詰めたり探ったりしてくる様子はなかった。

 彼が連れている供の近侍たちもノノに対しては大変紳士的に接してくれ、なにかにつけ不便はないかと尋ねてくれたお陰で、不自由はなかった。

 そうして、馬車はやがてヴィラール邸に到着する。

 外から扉が開けられて、レオンが一足先に降りていく。手を差し出されて遠慮しながらもその手を取ったノノは扉をくぐり、目の前に燦然と存在する屋敷の豪華さにただただ驚かされることになった。

 ベルトラン侯爵家も元は裕福だったのだが、それとも比べ物にならない、まるで王族の住まいのような壮麗さだった。広大な庭園に豪奢な建物、使用人たちが整然と動き回る様子——それら全てがここ数年、平民として暮らしてきたノノにとっては別世界のように感じられた。

 屋敷の入口では、仕える人々が主人の帰還を出迎える。


「おかえりなさいませ、御主人様」


 恭しく迎える彼らに片手で応えて、レオンは目を留めた老年の侍女頭を呼び寄せた。


「侍女頭。彼女が手紙で伝えたノノ・バルボー嬢だ。後を頼む」

「かしこまりました、旦那様」


 いかにも厳格そうな彼女はノノに微笑むことなく深々と主人に向けて頭を下げる。

 レオンは頷いて、あっという間に近くにいた家令と共に廊下を歩き去っていってしまった。

 置いてけぼりにされたノノが戸惑っていると、頭のほとんどが白髪になりかかっている侍女頭が静かに言った。


「あなたには本日より、旦那様の身の回りのお世話を任せます」


 ノノは困惑を隠せなかった。雇われたばかりの侍女が、いきなり主人である辺境伯の身の回りを任されるなど普通は考えられないからだ。


「しかし、私のような新参者が辺境伯様のそばに仕えるのは…」


 ノノが遠慮がちに言葉を発すると、侍女頭は冷たく首を振った。彼女の表情は変わらず、あくまで当然のこととして話を進める。


「旦那様が直接お決めになったことです。それとも、何か不服でも?」

「い、いえ。分かりました」

「荷物はそれだけですか?」


 侍女頭は、ノノがトランクひとつしか持ってきていないのを見下ろして首を傾げた。


「はい。旅の途中で、急遽こちらに伺うことになりましたので」


 彼女がレオンからどの程度のことを聞いているのかわからず、ノノは控えめに説明した。すると侍女頭が眉をひそめる。


「それはいけませんね」

「…申し訳ありません」


 反射的に謝ったノノに対して侍女頭はふと目を瞠って、「違いますよ」と柔らかく言った。


「叱っているのではありません。旅の途中で急遽ということは、荷物を揃えているだけの時間がなかったということでしょう。当面、必要なものはこちらで手配しますから、何かあったら遠慮なくおっしゃい」


 白髪をぴしりと編み込んでいる彼女は皺の刻まれたきつい顔をしているが、優しい人のようだった。

 侍女頭についてくるよう言われて、ノノは本邸を二階へと上がっていく。


「あなたには、二階の東の角にある部屋をあてがいます」


 なんとノノに与えられた部屋は、大勢の使用人が一緒に暮らす大部屋ではなく個室だった。これにはノノも驚いた。特別待遇であることは明らかだったからだ。

 案内され、到着した部屋は質素ながらも過ごしやすそうな恵まれた使用人部屋であった。ベッドもキャビネットもきちんと用意されている。


「ありがとうございます…こんな立派なお部屋…」

「ただし、もしも勤めに不足があったり、無礼を働いた場合はすぐに大部屋に移します。過去にもそうした事例は幾度もありましたので、油断しないように」


 侍女頭は厳しい口調でそう言い放った。ノノは緊張しながらも、これがここでの慣習なのだろうと自分を納得させた。

 新人を一番厳しい場所にあてがい、ミスをすれば降格していくと考えれば、わからなくもない。


「あなたは旦那様が直接雇い入れた特別な侍女です。他の侍女たちはあなたを特別視するでしょうが、気にしないでください。指示は直接旦那様か私から受けるように。それを忘れないでください」

「はい、分かりました」


 厳命に、ノノはただ頷くしかなかった。

 その後、侍女頭に連れられて邸内を案内されることになった。

 広大な屋敷の中を歩くノノは、あちこちから投げかけられる召使いたちの興味津々な視線を感じていた。

 彼女たちはノノのことを珍しそうに見つめている。時折聞こえる囁きが緊張をさらに高めたが、目立って喋っている者はすかさず侍女頭に怒られていたので、聞えよがしに何かを言うような不躾な者はいなかった。


「新しい侍女が来たのね」

「旦那様にお仕えするんですって。羨ましい」


 緊張して固くなっているノノに対し、侍女頭がふと表情を緩めて言った。


「旦那様は大変お優しい方です。安心してお仕えなさい」


 もちろん主人を悪く言う人間はいないだろうが、その言葉には少しだけ気持ちが和らいだ。

 一通り邸内を案内した侍女頭は「今日は長旅で疲れているでしょうから、休んで構いません」と告げ、ノノに部屋で休むことを許可した。

 与えられた個室に戻り、ノノはその静かな空間にほっと息をついた。荷解きをしたり案内された屋敷を頭に入れたり、今度について考えたり、やるべきことはあるかもしれなかったが、ふかふかのベッドに体を沈めると、緊張の糸が切れて眠りに落ちてしまった。


    ■


 夕方、ノノは侍女頭に起こされ、侍女たちの食堂へと連れて行かれた。そこでは、数名の侍女たちが和やかに食事をしていた。

 大半の使用人たちは邸内にある使用人専用の別棟で生活しており、本宅で生活するのは限られた侍女や近侍だけであると侍女頭が説明してくれた。

 近くに座った若い侍女たちが笑顔でノノに話しかけてきた。


「ここでの生活に慣れるまでは、無理をしないでね」

「お屋敷が広くて、しばらくはきっと迷子になるから」

「ありがとうございます。皆さん、優しいですね」


 ノノは少し緊張がほぐれた様子で答えた。食事をとる姿を見ていた侍女頭が、ふと彼女に声をかけてきた。


「食事の仕方に、気品があって大変よろしいわ」


 その言葉にノノは一瞬、心臓が止まりそうになった。もとの身分がばれてしまうのではないかと背筋に緊張が走る。


「ありがとうございます…商人である父が、どのようなお得意先に出しても恥ずかしくないようにと、厳しく指導してくれたお陰かと思います」


 動揺を隠してなんとか適当な理由をつけ、礼を述べてその場をやり過ごした。


「お父様は商人でいらっしゃるのね。ナイフとフォークの使い方がとても上品」

「きっと高貴な方とテーブルを共にする機会もあったのでしょうね」


 別の侍女たちもそう言ってノノを褒めた。ノノは笑顔を作りながらも内心は冷や汗ものだった。

 食後、待機部屋で屋敷とその周辺の地図を見せてもらいながら目を通していると、夜も更けた頃に辺境伯の部屋に呼ばれることになった。

 侍女頭から「旦那様のお部屋へ行くように」と指示されてノノの胸には再び不安がよぎる。


(もしかして、このまま夜伽でも命じられたら…?)


 そんな不安を抱きながら、ノノは辺境伯の部屋の扉を叩いた。

 許可を得て部屋に入ると、レオンはただ彼の着替えを手伝うようにと頼んでくる。

 そのあまりにも単純な依頼に拍子抜けしながらも、ノノは着替えの手伝いをした。しっかりとした布地の重たいジャケットを彼の肩から引き抜き預かる。


「今日は大変だっただろう。疲れているのにすまないな」


 楽な部屋着に着替えたレオンがそう言って微笑んだ。急に向けられた笑顔にドキリとしつつもノノは何とか微笑みを返した。


「お役に立てるのなら光栄です」


 着替えが終わると、レオンはテーブルの上に置いてあった小物入れから何かを取り出し、ノノに差し出してきた。


「これを。今日はよくやってくれた。褒美だ」


 ノノが差し出した手のひらに置かれたのは、銅貨だった。

 それを受け取りながら、ノノは「あれ?」と内心首をひねる。その瞬間、何か違和感が頭をよぎったが、それが何なのかはまだはっきりと掴めなかった。


「どうかしたか?」


 レオンが不思議そうに尋ねる。


「いえ、ありがとうございます」


 ノノは慌てて頭を下げたが、その違和感が心に引っかかったままだった。彼女は部屋を辞し、自分の個室に戻りながら、その違和感の正体を探ろうとしていた。

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