元婚約者様は強引で
「間違いでもいい、私の元へ来てくれないか?」
そんなレオンの突然の言葉に、ノノは驚きを隠せなかった。
その場の空気が一瞬止まったように感じられた。アルフォンスもまた、困惑した表情でレオンを見つめている。
「お待ちください、それはいったいどういうことでしょうか?」
アルフォンスがまた食って掛かりそうになっているのをノノは押し留める。彼女の頭の中にはさまざまな考えが駆け巡っていた。
このまま拒否してしまえば、自分が『エレオノール』だと疑っているのであろう彼の疑念がますます深まるかもしれない。しかし、受け入れることも到底できない。
「恐れながら申し上げます」
ノノはあくまで平民として声をあげる。
「私はノノ・バルボー。商人テオドール・バルボーの娘にございます」
願わくばこの名乗りで彼が諦めてくれれば、と思いつつノノは頭を下げる。
「繰り返し申し上げますが、あなた様がお探しの方とは別人かと」
「……しかし、あまりに似ている……」
腕を掴むレオンの手にまたぎゅっと力がこもる。それはどこか縋るようでもあった。
しかしノノは毅然として続けた。
「私には商人の娘としての務めがございます。それに、父も他の土地で暮らしており、私がここに長く留まるわけには参りませんので、お仕えすることは難しいかと存じます」
丁寧な断りの言葉を述べても、レオンの瞳には諦めの色が見えなかった。
「勤め先はこの地ではない、私の領地――ヴィーニュ=ドールの屋敷に来て仕えてもらいたい。お父上も呼び寄せて構わない。それならどうだ?」
レオンは真剣な表情でそう言った。
その提案に、ノノに焦燥感が募っていく。ここまで強引に出られるとは思っていなかった。
エレオノールとは別人だと言っているのに、まだ信じてもらえないのか、それとも何か確信があるのか。いや、確信があれば直接「お前はエレオノールではないか?」と聞けば良いだけのことだ。そしてノノがそれを否定すれば他人の空似で終わる。
なまじレオンがエレオノールの名前を出さないから、ノノも正面からそれを否定することが出来ないのが厄介だ。使用人として仕えるように言われているせいで断るのが難しい。
ヴィーニュ=ドールと聞いて、アルフォンスも相手が誰だか分かったらしく、サッと顔色が変わっていく。若くして辺境伯地位を継いだ駿才の評判は、国内の端々にまで知れ渡っている。
「それでは父に連絡を取らせていただきます」
ノノはそう答えざるを得なかった。その場で完全に断ることはできなかったが、少しでも時間を稼ぐために父の名前を持ち出したのだ。
「分かった。だが、早急に答えを聞きたい。私はこれから王都に向かう。ここへの戻りは一週間後だ」
「…承知しました。私達も商売でこの地を離れますが、一週間後に戻ってお返事いたします」
そう答えると、レオンは少しの間ノノを見つめた後、ようやく手を離した。
彼は「許しなく触れて悪かった」と詫びて、踵を返して去っていく。ヴィラール辺境伯が供の一人も連れずに市を歩いているなど、それこそたちの悪い連中に知れたら大事だ。
追い払っておきながら、ハラハラと心配になってノノはその背中を見送った。
■
市場を抜け出して宿に戻る道すがら、アルフォンスは何度も怒りの声を上げた。
「ノノ、あんな男の言いなりになる必要はない。俺たちは逃げよう」
彼は本気で怒っていた。
はたから見るとレオンの行動は、街で見かけた小綺麗な女を屋敷に引き入れようとしているように見えるのだろうし、そういう事案が本当にあるのも事実だ。
『元婚約者に似た女を連れ帰ろうとしている』という状況だと思うと、ノノもエレオノールとして悲しむべきか、ノノとして怒るべきなのか迷う。だが『平民ノノ』という立場として考えるなら、家名のない一介の商人の娘が、世に名高い辺境伯のお屋敷に勤められる機会など滅多にあることではなく、喜ぶべき場面のはずだ。
「父上にも話を通して、遠くの土地でやり直すことだってできる」
「義兄さん、それでは義父様の立場を悪くしてしまう」
商人バルボーの名を出した以上、その娘が辺境伯からの要請を無下にしたとなれば、父にお咎めが行くかもしれない。
アルフォンスの必死な様子に、ノノは心を痛めながらも首を振った。
「だから正式に断らない限りは逃げるわけにはいかない」
アルフォンスは悔しそうに唇を噛んだ。
「だが、お前がもし奴のところへ行けば、この件が露呈して、二年間の努力が水泡と帰すかもしれないんだぞ」
「…それは」
たしかにそれはノノが絶対に避けたい事態だった。
もしノノ・バルボーがエレオノール・ド・ベルトランであると発覚したら、貴族としてあるまじき行為に及んだ父フィリップにも、受け入れてくれた優しい義父テオドールにも、咎が及ぶことになるだろう。
だが、エレオノールとレオンの接点といえば、たった一度、顔を合わせた幼少期の思い出と肖像画のみ。レオンの肖像画が本人と少し印象が異なっていたように、エレオノールの肖像だってきっと本人とは違うところもあったはずだ。
十二年も会っていない相手を、それと見抜くことなんてきっと出来ない。
それに、他人の空似だと思うからこそ、レオンはお前はエレオノールではないのか?と訊くのではなく、間違いでもいいから来てくれと言ってきたのだ。
難しい顔で考え込むノノの肩にアルフォンスが手を置く。
「俺はお前を守る」
ノノは優しく微笑み、アルフォンスの手に手のひらを重ねた。
「ありがとう、義兄さん。でも、今はもう少しだけ待って。義父様に相談して、最善の方法を見つけたいから」
宿に戻ったノノは、義父であるテオドール・バルボーに宛てて手紙を書き始めた。
辺境伯レオンからの申し出と、自分の考えについて詳しく書き、助言を求める内容だった。手紙を書き終えたノノは、それを信頼できる使者に託したのだった。
それから、アルフォンスと共に数日の商売に出かけたノノが宿へと戻って来ると、滞在を調べたのだろうレオンからの手紙が届いていた。
改めて、最初の声かけが乱暴だったことを深く詫び、父君の許しを得て出仕してもらえることを願っていると書かれていた。そこに、支度金を届けさせるのでもし承諾してもらえるなら、自由に使ってほしいという内容まであって、ノノは驚愕した。
書かれている支度金の金額は、下級貴族の娘が王宮に出仕するときに用意する金額にも匹敵していたからだ。
用意された金を前にすると、正直ノノ自身にも打算が働いた。
お金に困っている実父にこれを渡すことが出来たなら、どんなにか楽になることだろう。
ノノの心が揺らいでいるのを感じ取ったアルフォンスが、心配そうに寄り添って問いかけてきた。
「行くつもりなのか……?」
遠方に商売に出ている義父からの返事はまだ戻ってきていない。一週間の期限にはおそらく間に合わないだろう。
ノノは静かに頷いた。
「義父様や父上に迷惑がかからないようにしたいから」
六日目にあたる日、ノノは支度金を辺境伯邸に上がるのに恥ずかしくない程度の衣服を買うことに使い、残りは義兄に託して実の父である侯爵に仕送りすることにした。
着慣れた質素な衣装から、身ぎれいな新しい衣服に着替えたノノを見てアルフォンスは悔しげに唇を噛んでいた。
■
七日目。ついに、ヴィラール家の馬車が戻ってきた。
馬車はまっすぐにノノとアルフォンスが泊まる宿へとやってくる。
近づいてくる馬車の音にノノは深く息をつき、覚悟を決めるように背筋を伸ばした。
「来てくれるだろうか」
宿の前に出迎えに出たノノは、馬車から降りて尋ねたレオンに「お仕えいたします」と深く礼をした。
旅の途中の旅立ちとあって持って行く荷物は多くなかった。必要なものがあれば、後から義父に送ってもらうことになるだろう。ほぼ身ひとつと言っても過言ではない、トランク一つを持ってノノはヴィラール家の馬車に乗り込むことになった。
「ノノ、必ず父さんと連絡するから」
アルフォンスは去り際のノノの手を掴み、抱きしめると「会いに行く」と囁いた。
二年前、突然家族になることになったときにも、アルフォンスは寛容に受け入れてくれた。貴族としての生活習慣しか知らないノノに、庶民らしい暮らし方を教えてくれたのは彼だ。
義父の元で二人でともに商売を学んだ日々はノノにとってもかけがえのないものとなっている。
「…ありがとう、義兄さん」
ノノは義兄の背を抱き返してそう囁き返し、レオンに促されるまま馬車へと乗り込んでいった。
鞭を入れられた馬がゆっくりと動き出す。
宿の前に立ち尽くしたまま遠ざかる馬車の背を見送るアルフォンスの表情は険しく、彼の胸には怒りと無力感が渦巻いていた。
工房で聞いた話を思い出す。腕の良い細工師を、悪い貴族が連れ去って自分のためだけに働かせる。昔話のはずが、それが今また起こっている。
これも、まさにそれなのではないか。辺境伯の強引なやり方は到底受け入れられるものではなかった。
アルフォンスはぎりりと歯を食いしばり、馬車が見えなくなってもその場に立ち続けていた。