まさかの申し出
エレオノールの少女時代は、生まれながらの許嫁、レオンの肖像画を眺めながらの夢見がちな日々であった。
彼女は遠く離れた地にいる許嫁の姿を思い浮かべ、いつの日か再会することを願いながら過ごしていた。彼女にとってその肖像画は、心の支えであり、未来への希望でもあった。
しかし、夢見がちな生活も五年前の事件で一変した。しばらくは金銭に苦労する生活が続き、二年前には身分を変えるという大きな決断をすることになった。
二人の思惑を聞き入れてくれたのは、父の親友でありやり手の商人テオドール・バルボーだ。
もともと彼はベルトラン侯爵の危機を知ってからは何かと援助をしてくれており、エレオノールの頼み――死を偽り、身分を変えたいという重大な希望を叶えるのにも手を貸してくれた。
『それなら私がエレオノール嬢をお引き受けしましょう』
立派に生きていけるように助力は惜しまないと言ってくれた彼の義理の娘となった『ノノ』は、彼の元で商売の技術を一から学ぶことになった。
テオドールの実子であり、ノノの義兄となったアルフォンスと共に、商人としての修業を二年間みっちりと積んできた。厳しい日々だったが、彼女は持ち前の知恵と努力で商売の技術を身につけ、今ではアルフォンスと共に父の名代として各地を訪れることも増えていた。
市場の喧騒の中を歩きながら、アルフォンスが言った。
「お前は本当に金細工が好きだな」
さきほどまでのレオンを見かけた動揺がやっと落ち着いてきたノノは力強く頷く。
「この国の金細工の技術は大陸一だもの。中でも彼が編み出す技法はいつも素晴らしいから」
そんなことを話しながら二人がやってきたのは顔なじみの細工師の工房だ。
高い技術を持つ初老の細工師が若い職人を雇い入れて、技術を教えながら新しい技術の創造と素晴らしい商品の生産に励んでいる。
「こんにちは」
ノノが声をかけて中に入ると、見知った職人達はよく訪れる二人のことを歓迎してくれた。
「ああ、バルボーさんのところの。ようこそ、親方を呼んできましょうね」
そう言って奥へ向かった職人から声をかけられ、細工師は若い二人がやってきたことに気づくと軽く手をあげた。
そして後をその場の職人たちに任せて手を止め、二人の元へとやってくる。
「バルボーのお嬢さん、それに坊っちゃん。いつもこんなむさ苦しいところへ」
「いいえ、ここは技術の粋が集まるところ。むさ苦しいだなんて」
「そう言ってくれるのはお嬢さんだけですよ。こっちで新しい細工を見て貰えますか、自信作が出来たんでね」
初老の細工師は笑って、二人を工房の片隅の席へと誘う。
向こうが透けるほど薄い彫金細工を見せてもらってノノが「なんて綺麗…」と感嘆の吐息を漏らしていると、随分と年若い初めて見かける職人があたふたとお茶を入れて運んできた。
「ど、どうぞ」
いかにも物慣れない雰囲気の若い職人は、ノノの姿に頬を染めながらカップを前に置いてくれた。
二人は工房の片隅で出されたお茶を口にしながら、細工師の近況を聞く。
「職人さんがまた増えたんですね。随分お若い方も」
目ざとく気づいたノノが指摘すると、細工師は「知り合いの、そのまた知り合いの工房が閉めることになってね」と溜息をついた。
工房の閉鎖はそこにしかない技術が失われることと同義なので、ノノは顔を曇らせる。
「最近、細工師が誘拐される事件が何件かあって、職人仲間が怯えているんだ」
と暗い顔で細工師が言った。
増えた職人達がもともと所属していた工房が閉じたというのもその事件のせいで、親方をしていた細工師がいなくなって工房が立ち行かなくなったことが原因らしい。
閉鎖することになった工房に勤めていた職人を、ほかの工房と共にここでも数人引き受けることになったのだという。そして、そういうことが立て続けに起きたのだそうだ。
細工師のような腕がものをいう職業の場合、この人こそと思って師事した相手の技術を伝承してもらえることこそ職人のやりがいとなる。ただ食い扶持としての仕事をするだけではなく、特定の親方の元で働きたかった職人のことを思うと、ここで引き受けたから解決とはいかない。
「お嬢さんが生まれるよりもずっと前には、悪い貴族やらが評判の良い職人をさらって、自分のためだけに働かせるなんてこともがあったんだがね」
今よりずっと治安の悪かった昔のことを思い出しつつ、細工師は励む若き職人達に目を向けて首を振った。
「今ではもう、昔話と思うぐらいにはなっていたんだがな。また嫌な昔話が蘇ってきたのか……」
「父に知らせておきます」
険しい顔をしたアルフォンスが口を挟んだ。
名のある商人であるバルボーなら事件について何か耳にすることもあるかもしれないし、攫われた細工師の品がどこかから流れれば、父の目利きの力があればそれを見極めることができるだろう。出どころがわかればもしかしたら行方に繋がることもあるだろう。
「ありがとうよ。何かわかればありがたい」
義兄に向かって礼を言う細工師の使い込まれたごつごつした手に手を重ね、ノノは彼のことを気遣う。
「どうか、気を付けてください」
「ありがとう、お嬢さん」
細工師はノノの手をもう一方の手で包み込む。分厚く、あたたかい手だった。
「そっちこそ気をつけるんだよ。この市場も最近はたちの悪い連中が出入りすることもあって物騒だからな」
と、そこまで言ってから彼はアルフォンスに顔を向け、笑った。
「まあ、こんなに大きな兄さんがついているなら安心だ」
アルフォンスは少し照れたような顔をして頭を掻いた。
二人はお茶の礼を言って工房を後にした。工房の外は相変わらず人で溢れており、市場の喧騒が耳に響く。
「さて、次の商談に向かおうか」
とアルフォンスが言う。ノノも頷き、彼の背についていく。
その時、突然ノノの腕が引かれた。ぐい、と後ろに引っ張られて驚きと恐怖で振り返ると、そこには――
「あなたは…!」
目が合って、ノノの心臓は弾け飛びそうなほど激しく鼓動した。
そこには見間違えようのない相手——レオン・ド・ヴィラールが立っていた。
「貴様、その手を離せ!」
義妹に近づいた不逞の輩にアルフォンスが激怒し、レオンに掴みかかろうとしている。だが、ノノはとっさに彼を止めた。
「義兄さん、待って! 貴族の方だから――!」
二人は所詮平民の身分だ、貴族を相手に暴力など振るっては大変なことになる。
なんとか義兄を押し留めたノノは冷静を装いながらも、内心は大混乱だった。まさかレオンがここまで追いかけてくるとは予想していなかった。やはり先程、姿を見られていたのかもしれない。
ごくり、と息を飲んでノノは口を開いた。
「あの……ご身分ある方とお見受けいたしますが、何か御用でしょうか?」
彼女は言葉を丁寧に選んだ。だがレオンの目が自分を見つめていることに内心では恐怖と動揺を感じていた。
気づかれてはいけない。あくまで他人を装い、平民として接しなければ。
「こんなところで知人と再会できるとは思ってもいなかったので」
そう言いながらレオンは迷いを帯びた瞳でノノを見つめている。その眼差しは、彼が何か確かめたがっているかのようだった。
ノノは少し微笑んで、毅然とした態度で答えた。
「申し訳ありませんが、私はあなた様を存じ上げません。あなた様がお探しの方とは別人です。どなたかとお間違えかと」
レオンの言葉とノノの対応から、アルフォンスも目の前の貴族男性が『エレオノール』を探していると察したのか、その場を離れるべく「失礼ですが、我々には急ぎの用事がありますので」と遮り、ノノをかばうように腕を引く。
だが、レオンは手を離さなかった。そして彼はどこまでも真剣な緑の瞳をノノへと向けてくる。
「間違いでもいい、私の元へ来てくれないか?」