記憶の中の面影との再会
冷たい風が辺境の空を駆け抜け、馬車の中の若き辺境伯レオン・ド・ヴィラールの顔をかすかに撫でた。辺境から王都に向かう道中、馬車の揺れを感じながら彼は思い出に浸っていた。
許嫁だったエレオノール・ド・ベルトラン。彼女は亡くなってしまった——その知らせが届いたのは二年前のことだった。わずか十五歳の若さでこの世を去ったと聞かされ、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。思い出の中で彼女はまだ幼く、透き通るような青い瞳と亜麻色の髪をもつ少女だった。
「レオン様、またお会いしましょう」
そう言って微笑む彼女と別れた日のことを、レオンは今でも鮮明に覚えている。
彼女は当時五歳、彼は十二歳だった。まるで小鳥がさえずるようなその声と、青く透き通った双眸、無邪気な笑顔。たった一度の逢瀬だったが、その甘酸っぱい思い出は子供心に深く刻まれていた。
「エレオノール…」
思わず名前を口にしたその時、ふと馬車が止まった。なにかと思えば、御者が「牛飼いが道を横切っていまして、当分かかりそうです」と申し訳無さそうに告げてくる。レオンは彼に構わないから行かせてやれと言ってやった。
市場の賑わいが外から聞こえてくる。王都へと続く道中の休憩所として利用されることが多いこの市場は、多くの商人や旅人で溢れていた。
レオンは外の空気を吸いたくなって、御者に声をかける。
「ついでだ、少し歩く。市の出口で合流しよう」
驚く御者を置いてさっと馬車から降りたレオンは、人の賑いの中へと足を踏み入れていった。
市場は活気に満ちていて、色とりどりの商品が並んでいた。美味しそうな食べ物の匂いも漂っている。
彼の目はふと、人々の間をすり抜けるように歩く一人の女性に引き寄せられた。亜麻色の髪が風に揺れ、その横顔がちらりと見える。驚くほど彼女に似ている——レオンは思わず足を止めた。
「エレオノール…?」
思わずその名を呟いた。彼の胸が急に高鳴り、まるで何かに導かれるようにその女性を追いかけていた。だが、彼女の姿は人混みの中に紛れて見失ってしまう。レオンは立ち尽くし、まるで夢から覚めたような感覚にとらわれた。
「まさか…そんなはずはない」
だが、あの横顔、あの瞳。どうしてもエレオノールを思い出させる何かがあった。
たった一度、幼き日に会ったきりの許嫁の死から二年——今もなお、その痛みは心に重く残っていた。
一方、その市場で姿を消した女性、ノノ・バルボーは物陰に隠れて冷や汗をぬぐっていた。
「レオン…辺境伯様がここにいるなんて…」
ノノの心臓は激しく脈打っていた。まさか彼に会うとは思わなかった。しかも、こんな市場のど真ん中で。
遠目にヴィラール家の馬車が見えたときにはそのまま通り過ぎていくものと思ったのに、牛が道を埋め尽くしたせいで進めなくなってしまったのだろう。
しかし止まることはあっても、まさか辺境伯本人が馬車を降りて市場へと入ってくるとは思わなかった。
見違えようのない金の髪と緑の瞳。その横顔はつい二年前まで時折手にする肖像画だけで見知ってきたものよりも、ずっと精悍で美しかった。
そう、レオン・ド・ヴィラールが思い出の中に描いていた許嫁、エレオノール・ド・ベルトランは今、平民ノノ・バルボーとして生きているのだった。
■
五年前、エレオノールの父フィリップ・ド・ベルトランは財産の大半を失った。
父は本当に善良な人で、誰かのために尽力することを惜しまなかった。しかし、それが仇となり商人を騙った詐欺師にだまされて家の財産のほとんどが奪われた。貴族であることの誇りと責務、そのすべてが崩れ去る音をエレオノールはいまだに忘れられない。
もちろん犯人を捕らえるべく追ったが詐欺師はずる賢く、気付いたときには逃亡を許してしまっていた。以来、大金を持って逃げた犯人らの消息は知れず、二年近くに渡る追跡も吉報をもたらすことはなかった。
「父上、このままでは私たちは…」
母は早くに亡くなっており、父はエレオノールにとってたった一人の家族である。
貴族たる父が財産を失ったこと、犯人を捕らえそこねたことが露呈すれば、立場を失うことになる。
しかも騙されて財産を失ってからなんとか二年持ちこたえたとはいえ、エレオノールも十五歳となり、いよいよ結婚が近づいている。相手は辺境伯の一人息子、跡継ぎであるレオン・ド・ヴィラールだ。嫁ぐとなればエレオノールは身の回りを整え、豪奢な嫁入り道具を持って行くのが当然のこと。だが、今のベルトラン家にそれを用意できる財力はもはや残っていない。
自分がこのままベルトラン家に残っていては、父がその地位を失うことになりかねない。
そうして、エレオノールは自分が死んだと偽ることに決めたのだ。
もちろん優しい父は泣いて手をつき、申し訳ない、お前にも亡き妻にも申し訳が立たないと繰り返したが、エレオノールは心優しき父がこのまま侯爵としてこの地の領主を続けることを何よりも望んでいた。
父は領民から深く慕われている。祝事があれば民はすすんで祭りを開き、弔事があれば共に嘆き悲しんでくれた。母が死んだときには民もまた喪に服し、葬儀には人々が途切れることなくやってきた。
そうした民のためにも、父はこの地の領主たる侯爵であるべきだ。
決意したエレオノールは侯爵家の娘としての存在を消し、父の親友であり商人であるテオドール・バルボーの庇護のもと新しい名を得ることになった。商人テオドールの義理の娘、それが今のエレオノール、つまりはノノ・バルボーだ。
「大丈夫、姿を見られたわけでもないのだし」
『ノノ』は自身に言い聞かせるように呟いた。
しかし、その胸には不安が渦巻いていた。たった一度会ったきりだが、彼はその頃から優秀さを音に聞くほどの人物だった。
もし、彼が自分と同じように対面できない許嫁の姿を絵姿でもって眺めることがあったなら、今の自分の姿を見て気づくこともあり得るのかもしれない。
そして、あの懐かしい青い瞳にもう一度出会ってしまったら…。
「そんなこと……」
ふとノノの背後から声がした。
「おい、大丈夫か?」
振り返ると、アルフォンス・バルボーの姿があった。彼は彼女の義兄であり、いつも冷静な目で彼女を見守ってくれている存在だ。エレオノールは慌てて微笑みを浮かべると何でもないと首を振った。
「ただ少し、混雑に疲れただけ」
「そうか。それなら良いが…無理はするなよ」
アルフォンスは彼女の肩に手を置き、優しい眼差しで見下ろしてくる。彼のその気遣いが、ノノの心を少しだけ安らげた。
だが、その安らぎも束の間、再び市場の向こうからレオンの姿が見えた。彼は明らかに何かを探しているようだった。ノノは息を飲み、その視線がこちらに向けられる前に素早く口を開く。
「そうだ、細工師のところに寄っていっていい?」
「またそれか。いいよ、ここでの用事はあらかた片付いたしな」
金細工の好きなノノが細工師のところで作業を眺めたがるのはいつものことだったので、アルフォンスは突然の言葉にも疑問には思わなかったようだ。
ノノは長身のアルフォンスの影に隠れるようにして、レオンに見つかることのないよう静かにその場を離れた。
(もう二度と姿を見ることなんてないと思っていたのに…)
もしももっと遠くから彼を眺めることが出来たなら、『エレオノール』はいつまでだって彼を見つめていただろう。
毎年贈られる肖像を毎日飽かず眺めていた二年前までの日々のように。