10月23日、7時55分
僕には気になる子がいる。
いや「子」と呼んでいいのかすら分からない。
もしかしたら向こうは先輩かもしれないし、なんなら僕は彼女の名前すら知らないのだ。
知っていることは、いつも眠そうな顔とたまに寝癖がついている真っ黒な髪。
1週間の内の5日、その内の2回は必ず寝癖がついている。
教えてあげたい。そう思ってもう1か月が経っている。
でも、どうやって?
そもそも、友達でもない知らない奴にそんな事言われて彼女はどう思うだろう?
何となくその子には嫌われたくないと思った。
結局、僕は今日も何も言えずにこっそり横目で見て彼女の寝癖を観察している。
午前7時52分、学校へ向かう通学路で僕と彼女はすれ違う。
家でぼうっとしてテレビを見ていた。
バラエティー番組でお絵描き伝言ゲームをしている。
お絵描き伝言ゲームというのは、通常の伝言ゲームで伝言される「言葉」の代わりに「絵」を伝言するゲームだ。
見てると意外と白熱して面白い。
その時、僕はまるで雷に打たれたように画面に食いつきになった。
「これだ!」
慌ててノートとペンを用意する。
早速、「寝癖ついてるよ」と書こうとして思いとどまる。
待て、いきなり「寝癖ついてますよ」はないだろ。
僕は一旦ペン先を閉まってから、第一声ならぬ第一筆をどう始めようかと悩んだ。
悩んで悩んで結局、「初めまして、僕の名前は翔太と言います。あなたの名前はなんですか?」
「なになに?女の子に手紙?翔太も色気づいちゃって」
知らず知らずに声に出していたらしい。
姉ちゃんが僕の後ろから覗き込んできた。
姉って言うのはすぐに弟をからかおうとするからタチが悪い。
「随分大きな手紙ね」
姉ちゃんの言う事に返事をしないで、僕は鞄にそれを仕舞い込んだ。
10月11日水曜日ーー午前7時48分、失敗した。
鞄の中には彼女に見せる為に用意した紙が入っている。まだ彼女は来ない。
「あなたの名前はなんですか?」ってちょっと失礼じゃないだろうか?「あなたの名前を教えてもらってもいいですか?」とかもっと言い方ってものがある気がする。
姉ちゃんもからかってないでそこんところをアドバイスしてくれればいいのに。
自分の責任を別の人に押し付けたところで、彼女がやってきた。
悩んで、悩んで、僕はそれを彼女に見せた。
彼女はいつものように眠そうな目で、2回ゆっくりまばたきをしてから驚いた顔で自分の事を指差した。
僕は必死に何度も頷く。
彼女は鞄の中をごそごそし始めた。
僕に返事を書こうとしてくれているのだと分かり、僕は嬉しくなった。
ところが、僕が悩み過ぎたせいで時刻はもう7時52分になってしまった。
結局、僕は彼女の名前を知る事が出来なかった。
それでも収穫がなかったわけではない。
はじめて彼女を真正面から見た。いつも横顔だったから。
思ったよりも幼い顔立ちだったから先輩って事は無さそうだ。
午後7時49分、彼女が現れた。
現れて直ぐに僕に向かってノートを広げてみせる。
『安藤桜子』
きれいな字だ。名前もきれいだ。
とても寝癖のついている子とは思えない。
ぼうっとしていた僕に彼女がページをめくる。
『高校生?』
一瞬考え込んでから、あ、これ僕に聞かれてるんだって分かった。
急いで返事を書く。
『うん、君は?』
彼女が何ページか飛ばしてノートを広げた。
『鈴橋女子高だよ』
ある程度予測して書いてきたのか。かしこい。
鈴橋女子高と言えば、ちょうど僕の家あたりだ。
思わぬ偶然になんか感動してそれを書こうとしてやめた。
なんかなれなれしすぎるし、それを言われても「え?だから?」ってなりやしないだろうか?
無難に自分の通っている高校の名前を書こうとしたら、また時間が来てしまった。
去り際、彼女が小さく手を振ってくれたのが嬉しくて、それから彼女のノートの中身が気になった。
飛ばした数ページには何が書いてあったんだろう。
もしかして、中学生に見えたとか??
一週間が終わって、土日を挟んで月曜日。
彼女の好きな食べ物と苦手な食べ物、好きな動物なんかを僕の「ハンバーガー」「納豆」「いぬ」と引き換えに知って今日は「好きなスポーツ」を聞こうかなと思っていた所に彼女の方からノートがめくられる。
「手話、できる?」
手話?と考えて彼女が言いたいことが分かった。
確かにいちいち紙に書くのは大変だし、用意も必要だ。
その点、手話ならすぐに返事ができる。
それに手話ができる人にしかなんて話しているか分からないから機密性もある。
『3日ちょうだい』
大見得を切って彼女に返答をしたら、ちょうど7時52分。
隣のクラスに耳があまり聞こえない奴がいると、同じ中学の友達に聞いたことがある。
その時は「へーそうなんだ」ぐらいだったけど、これはチャンスだ。
もしかしたらそいつは手話ができないかもしれないけど、聞いてみるぐらいはできる。
赤坂は友達となんかしてたが、教室の入口で待つ僕の呼び出しに来てくれた。
事情を説明した紙を用意していたが、赤坂は自分の耳を指差して「補聴器ついてあるから早口じゃなけりゃ大丈夫」と言ったので、僕がホームルーム中にこっそり書いていた嘆願書は無駄になる事となった。
僕の話を聞いて赤坂は一つ返事で引き受けてくれた。
こいつ、いい奴だな。
僕が感心していると「選択美術だよな、助かったわ。あの先生めちゃくちゃ聞きとりづらくてさ」
高校に入ると、自分で選択できる授業がある。大体他のクラスと合同でやるから恐らく僕は赤坂は同じ授業を受けていたのだろう。
確かにあの先生は口にモーターがついてるんじゃないかってぐらい早口だ。
要は、手話を教えてやる代わりに聞こえない部分を通訳してもらうからなってことだ。
こいつ、現金な奴だな。
僕の赤坂への評価は一変した。
けどまあ、正直な奴は嫌いじゃない。
僕らは同盟を組んだ。
3日で手話をマスターするって言うのは流石に無理だった。
でも、大分たどたどしいけど簡単な会話ぐらいならできるようになった。
赤坂のお墨付きだから僕の上達速度は間違いない。奴は本音でしか会話ができないんじゃないかってぐらいズバズバ言う。
逆に言えば、その赤坂が「へぇ、覚えるの早いじゃん」って言ったのならそれも本音と言う事だ。
僕は早く彼女がやってこないか少しドキドキしていたと思う。
赤坂との特訓の為に、朝早く学校に行っていたから3日彼女とは会っていなかった。
壁にもたれて鞄を抱えて待っていた。
でも、その日は7時49分になっても、それから当たり前っちゃ当たり前だけどそこから3分経っても彼女は現れなかった。
10月23日月曜日7時49分
週明けの今日も彼女はいない。
風邪かもしれない。事故にあったのかも。
でも、もしかしたら僕とのこのやりとりが嫌だったのかもしれない。手話の事を聞いたのも、それで僕が諦めるのを期待していたのかも。
事故や風邪なんかよりもそっちの方がずっといいのに、両方とも嫌だなと思う自分が浅ましくて嫌になる。
溜息を吐く。
だれかがそんな僕の肩をとんとんと叩いた。
「翔太君、だよね?」
振りかえるとワンピースを着た知らない女の人、、いや、私服姿の彼女だ。
はじめて声を聞いた。思ったよりも高い。いや、それよりなんで制服じゃないんだ?学校は?いや、そんなことよりなんでここに彼女が??
頭の中が「?」で埋め尽くされて言葉が出ない僕に彼女は何かを押し付けた。
「しあさってから修学旅行って伝えようとしたのに、君ずっと来なかったからさ。
今日は振り替え休日なんだ
それでこれ、今度から会えなくても連絡できるように」
『1番線南浜行き、まもなく発車いたします。閉まるドアにご注意ください』
「じゃあ、連絡まってるからね。それと、また明日」
「う、うん、また明日」
線路沿いには市内緑化計画のコスモスが揺れている。
それもあっという間に過ぎて、いつもの光景が順々に繰り返されていった。
__反対車線から、わざわざ階段を昇ってこっちのホームまで来てくれたんだ。
もたれたドアから金属の冷たさが制服ごしに腕に伝わってくる。
それが今日はちょうどいい。
もう一度手の中のそれを開く。
雑に破り取られて端っこがちょっと欠けたルーズリーフ。
彼女らしくて笑える。
数字とアルファベットの羅列の中に彼女の飼っている猫の名前を見つけてくすぐったくなった。
これから学校があるなんて何だか信じられない。
数学の山崎にあてられても絶対に答えられない自信がある。
僕はいつもの景色を眺めながら、無難なメールの切り出し文句に頭を悩ました。
7時52分が嫌いじゃなくなったそんなある10月23日、7時55分の話。
最後まで読んでくれてありがとうございます
不足を説明しますと、隣り合った車線の開かない扉側にいる二人の話です。
駅に止まっている7時49分から7時52分の3分間ですね。
季節感はまったくありません。
それは、今時計を見たら30.1度と出てうんざりしているそこのあなたの為に秋の涼しさを思い出してもらおうとしたわけです。
はい、嘘です。整理してたら中途のが出てきたので「いいや、出しちゃえ」と書き直したものです。
基本僕にこの甘酸っぱさはないので、誰かの入れ知恵だと思われます。
楽しんでもらえたのなら幸いです。