無駄な人に割く、無駄な時間は、無駄なだけ ~マスタード畑と金の光~
◇・◇・◇
転生とか転移とかいうけれど、なんとなくという既視感は誰しも感じたことがあるだろう。
けれども、今回の状況はそんな既視感とも違う……
豪奢な寝台で身を起こし、わたしは瞬きをする。
わたしの名前は、オリエンナ・オリエ・シュルティール。
……の、はず。
自分が自分であることに自信がない。
昨日も朝起きて、王宮へ上がって執務の手伝いという名の業務をして、深夜に帰宅して数時間の睡眠をなんとか手に入れた、女。
今、いくつだったかしら……
この感覚は三十半ばの、あの頃の感覚。
誰も誕生日など祝ってくれない。
誕生日など、ただ年を取る日。
夫は選り取り見取りの女と遊び惚けて、散在をする日々。
三十半ばで既に飛び出た夫の腹。
顔面が整っているだけに大変みっともなかった。
起き上がって、鏡を見やる。
若いな。
肌がツルッツルだ。
きっと洗顔しても水が粒になって肌が弾くだろう。
毎日遅くまで働いて、深夜に移動をしているから盗賊や強盗に狙われて馬車は結構な頻度で襲われる。
我が家の手持ちの軍の、恰好な練習相手だ。
確か、王宮の部屋を辞して、実家に居候状態だった。
王太子妃なのに。
既視感なのか、巻き戻りなのか……
感覚が、十代にならない。
弾けるような思いも、泣きたくなるような切なさも、一切感じない。
とにかく疲れた。
疲れ切っている。
とりあえず……
オリエンナは立ち上がり、父親を真似て手に入れた豪勢な執務机から真っ赤な日記帳を取り出す。
鍵を棚裏から取り出して外す。
―――相変わらずマメね、私は。
くすりと笑う。
日付を見れば、十七歳の三日前。
私は、日記を撫でて、そして嗤った。
◇・◇・◇
さて、わたしは自室で優雅にお茶を嗜んでいる。
最近巷で流行っているという発酵茶。
名前だけだとどんな味かわからないけれど、綺麗なオレンジ色のお茶は女性に人気だ。
今回の十七歳の誕生日は、家族と迎えた。
以前の記憶? 既視感? なんと言えばいいのか……体験したような過去の記憶っぽいような思い出のような……面倒なので夢の中では、でいいかしら。
『夢の中』では、王宮でわたしの誕生日を豪奢に祝ってくれるというので張り切って出掛けたら、婚約者は軽薄な薄ピンク女を纏わらせて、嫌味な笑いを浮かべていた。
そんな場所柄を弁えない婚約者は、その後もわたしがどれだけ窘めても侮蔑して行動せず、妻の実家の権力で王となった。
そう、妻の実家の権力で。
あの日、わたしは着替えもせずに母親の寝室に向かい、ひとこと言った。
「疲れた」
母親は日頃から否定ばかりしてくる女だ。
だが、ほんの一片の愛情はある人だった。
いろいろな、母親は叱咤激励だと思い込んでいるが、口から出てくる嫌味を左から右へと聞き流して、「疲れた」だけを繰り返す。
遠くを見ながら。
本当に疲れていたから、演技をする必要なんてなかった。
疲れた。
もう嫌だ。
無理。
駄目。
疲れた疲れた疲れた疲れた。
まるで人の言葉を繰り返す極彩色の鳥のように同じ言葉を繰り返せば、侍女や執事長が気が付いて大騒ぎになった。
わたしは気にせず、母の部屋のソファに横たわる。
疲れた。
今なら三日くらい眠られる気がする。
二十歳過ぎれば人は変わろうとしなければ変わらない。
夢の中の婚約者は、変わろうとしない人だった。
ずっと小狡い少年だった。
賢しい子供だった。
周囲がわたしも含めて、かれを『賢しい子供』であることを許してしまったのだ。
だが、子供を育てるのは親の役目だ。
妻の仕事ではない。
妻に夫を育てろと言うのなら、親がきちんと育ててから言って欲しい。
成長しない二十代以上の人間など、接していて邪魔なだけだ。
入職をした新人なら、仕事を教えれば吸収し、自ら試行錯誤して成長する。
成長しない者、変わらない者は、切られる。
当たり前のことだ。
夢の中で、十分に見守った。
別の女ばかり構う夫を、諦めの境地で受け入れた。
でも、戻れたなら、そんな無駄な時間は不要だ。
夢の中の通りに、もしかしたらならないかもしれない。もしかしたら、改心して婚約者にやさしくなるかもしれない。
でも婚約者の実家の権力がなければ即位できないとわかっているのに大事にしない婚約者など、頭が悪過ぎて一緒に過ごす時間すらもったいない。
あんな面倒な日々は、もうごめんだ。
今現在の婚約者はまだ二十歳にはなっていないが、人間の性質はそう簡単には変わらないと思う。
わたしは楽に……いいえ、効率よく生きたい。
無駄な人に割く、無駄な時間は、無駄なだけだ。
コンコンと、扉が遠慮気味に叩かれる。
「どうぞ」
声を掛ければ、わずかに開けられた隙間から、父親がそうっと顔を出した。
それにくすりと笑う。
三十過ぎた娘の送り迎えを率先して行ってくれたもう一人と父親。
わかり辛い溺愛は、三十過ぎてから理解できた。
「お父様っ」
立ち上がって、扉まで出迎える。
軽く動かせる、自分の体。
余分な贅肉のない腹部と二の腕。
それに笑ってしまう。
「疲れは……取れた、かい?」
「お父様、中へどうぞ」
「……いや、レディの部屋にお邪魔するのは……」
なんだかもじもじとする父親はちょっとばかり気持ちが悪いが、図々しいよりは微笑ましい。
「じゃあ、お父様のエスコートでどこかで軽食でもいかが?」
筋骨隆々の腕を抱き締める。
男性の腕に巻き付くのは僅かばかりの嫌悪があったが、父親相手なら気にならない。筋肉で熱過ぎる体温に返って安堵する。
「そうだな、なにが食べたい?」
「……んー。お父様のお酒のおつまみを分けて?」
甘いものは苦手だ。
夢の中では、執務をしながら酒のつまみのようなものばかり食べていた。ついでに酒も飲んでいた。
飲んでいないとやってられなかったからだ。
酔いどれ王太子妃。
実は、お酒もあんまり好きではない。
酔えば、気持ちが沈んで楽しくない。
楽しくない酒を飲んで深夜まで働いて……夢の中の私は、死んだから夢から覚めたのかもしれない。
父親のエスコートで中庭を見渡せるバルコニーに出る。爽やかな風を受けながらお茶を嗜む。
目の前の父親は娘が付き合ってくれることにご満悦で、得意でもないワインをゆっくりと飲んでいた。
飲んでいるというより、舐めている。
ちびちび。
晴天。
塩気がちょうどいいベーコンと卵のパイ。
ハムとチーズを挟んで焼いたパン。
松の実とチーズを香草と共にすり潰したソースが掛かったショートパスタ。
トウモロコシと砂糖のケーキ。
朝焼けのようなオレンジ色のお茶と、夕焼けのような深紅のワイン。
テーブルには手軽につまめるおつまみとお茶とワインが並ぶ。
目の前には、娘を溺愛して窺ってくれる父親。
ああ、幸せだな。
王宮でのわたしの十七の誕生パーティーは、殿下が別の女のお披露目会として流用して開催をしたらしい。
阿呆か。
あれ以来、王宮へは上がっていない。
何度か王宮から使者が来たようだが、適当な理由を並べて断ってくれているらしい。
殿下へはわたしから手紙を送った。
わたしの存在が貴方をそんなにまで追い詰めていたのですね。
どうか、お好きな方と一緒になられて。
貴方のために、わたしは身を引くわ。
殿下と、噂と無駄な話しか掲載されない新聞の編集室へ同じ内容で送った手紙は、殿下が対応する前に大きく取り上げられた。
―――王太子、真実の愛に身を捧ぐ。
わたしはその後、涙ながらに取材に答えてあげたのだ。
お出掛け先で馬車に乗る前に記者が押しかけてきた。ちょうど面白い本に没頭したせいで完徹をした翌日。寝不足で出たあくびを噛み殺したから目元が濡れてしまった。手巾を押し当てて、拭いながら記者と少し話す。
その時、風が舞ったため砂埃で目が痛かった。
鼻もちょっと啜ってしまった。
淑女としてあり得ない失態に、顔面が蒼白になったのが自分でもわかったわ。
慌てて義弟②と護衛騎士達がわたしを馬車に導いてくれた。
―――愛する王太子のため、身を引く国軍将軍の健気な娘。
また新聞に掲載された。
……誰それ。
記者さん、ちゃんと他の事件でも取材できているのか不安になった。
「これもおいしいぞ」
娘が相手をしてくれるのが嬉しいのか、ごつい顔に満面の笑みが浮かんでいて、正直引く。
けれども、父親の愛情は本物だ。
脳筋だが。
王太子妃は辞退し、わたしは宙ぶらりん。
「お父様……わたしは、できたら一族の誰かに嫁ぎたいです」
卵のパイは、食べたところにベーコンがほんのちょっとしかなかった。
残念。
「オリエンナ!! そんな淋しい顔をしなくても、お父様が絶対にお前が幸せになれる相手を探すよ!」
王太子殿下を選んだ父親が?
一瞬思ったことが顔に出たらしい。
父親は顔面蒼白になって泣きそうだ。
本当に……この人が泣く子も黙る国軍将軍なのだろうか……
「お、お父様、権力に負けないからね!!」
言い方から、王室より何か言われているのかもしれない。
もう、面倒。
新しい関係を築くのも、新しい人を信頼するのも。
夢の中……信頼できる人は、いたのだろうか。
……覚えてない。
きっと、馬車を警護してくれた人たちは信頼していたとは思うけれど。
「お父様、期待しております」
「任せて!!」
口先だけのお世辞だけれど……でも、父親は嬉しそうに破顔した。
◇・◇・◇
わたしは、シュルティール家の長女だ。
父、母、兄、遠くに住む父方の祖父母。そして縁戚から迎え入れた三人の義理の弟。二つ下、四つ下、六つ下の義弟たち。
我が一族は貴族には珍しく、養子を迎えることが多い。家によっては養子を交換していたりする。
血が澱まないように。
と、いうけれど縁戚同士ではその措置も正しいのかはわからない。
夢の中では兄は可愛いお嫁さんを迎えていた。
そのお嫁さんは、わたしの待遇を自分のことのように怒ってくれる素敵な人だった。
誰だったかしら……
夢の中のことは、『夢の中』だと名前を付けたせいかどんどん曖昧になっている。
お茶会などに参加すれば思い出せるかもしれないが……たぶん、夢の中で一生分の『働く気』を使ってしまったせいで、面倒くさくて仕方がない。
第一、夢の中で大事にしてくれなかったオトモダチに割く時間って無駄じゃないかしら。
無気力なまま、天井を見上げる。
――― どうして、過去のわたしはあんなに働いていたのかな……
うーーん、って考えれば、
「頼られたから、よね」
と、呟く。
王太子府の人たちから頼られるのは悪い気がしなかった。
自分が考えた政策が滞りなく進むのは楽しかった。
でも、またあれをしようとは思えない。
女というだけで、夫の名前を出さなければ政策が通らないなど、阿呆らしくてしょうがない。
今度頑張るなら、わたしの名前が出る場所がいい。
せめて、ちゃんと労われて、感謝される場所がいい。
そう思いつつ怠惰な日々を送っていたら、阿呆が来た。
◇・◇・◇
手持ちの中で一番素朴なドレスを身に纏って、応接室を訪れる。
背後には兄と三人の義弟。
隣には母親。
なぜ?
父親は、王太子殿下の護衛に混ざって対面にいる。
殿下の背後に護衛よろしく立っているが、ただ圧を与えているだけだ。
オリエンナと母が挨拶の後に座ると、厳つい顔をにっこりをさせて手を振ってくるが、笑いが零れるので止めて欲しい。
「どのようなご用件でしょうか、殿下」
隣に座る母親が口を開く。
冷たい。口調がとてつもなく冷たい。
「私は、婚約者のオリエンナに「王太子殿下、娘のことはシュルティール侯爵令嬢とお呼びください」……」
母親の声に殿下は続きを濁らせた。
周囲の護衛が「無礼な」と言おうとして、父親の殺気に「ぶっ」で止めていた。ぶ。
「ご用がないということですね。王太子殿下のお帰りです。婚約をそちらの都合で解消したのです。二度と我が家門を超えることのないお方。丁寧にお見送りを」
母親が一刀両断。
なんというか……わたし、けっこう愛されている?
目を瞬かせている間に、我が家の護衛に殿下が両腕を持ち上げられて配送されそうになっていた。
無礼な、離せなど叫んでいた口は、義弟①の「口に入れられるのは父の汗たっぷりの手巾でよろしいですか?」という質問を受けてからは閉じられた。
義弟②が「王太子殿下、王太子妃予算で購入された貴金属は早いうちに返された方がいいですよ。そのうち王太子でもなくなるんですし」囁けば顔面を青白くさせていた。
「あ、申し訳ありません」
義弟③が王太子殿下の裾を直す振りをして屈み勢いをつけて立ち上がりで自らの後頭部で殿下の顎を殴りつけた。
ガツッと鈍い音が響く。
「大丈夫かい?」
義弟③を助ける振りして、兄の右肘がアレの左頬に突き刺さる。
ソレが痛みで悲鳴を上げた。
「いいな、わたしも殴りたい」
素直が言葉が出た。
「あ、でも自分の手が穢れるのも嫌だし、感触が残るのも気持ちが悪いかも……コレが自分の婚約者だったという過去すら消し去りたいのに」
コイツに対して、なにもしたくない。
「クサガメムシを室内から逃がす方が、まだ行う気になるわね」
両手を見る。
触れるのも気持ち悪い。
クサガメムシって触ると悪臭を放つのよね。思い出して眉根が寄る。
「元王太子殿下……貴方が仰るようなことは、一切ございませんでしたな」
父親の声掛けに、殿下は肩を落として引き摺られて退場していった。
「……なんだったの?」
呟けば、義弟②が溜息を零した。
「オリエンナが自分を恋い慕って夜な夜な泣いている夢を見たのだ、これは予知夢だ……などとほざいて煩かったので現実を突き付けました。寝言は寝ている時にされても迷惑なのに、起きている時にされると殺意が芽生えますね」
十三歳の少年の発言には思えない辛辣さだ。
それに笑ってしまう。
「オリエンナ姉さま、あの阿呆を城に連行するついでに、姉さまの私物を回収してきますね。与えられていた部屋以外になにか取ってきた方がいい物はありますか?」
義弟①が尋ねてくる。
うーーん、と考えて首を僅かばかり傾げる。
「特にないわ。変に持ってきて難癖つけられるのも嫌だから、全部置いてきていいわよ」
「確かに。では、金で返すよう手配しますね」
「よろしくね」
「ねえさま、ねえさまは殴らなくてよかったの? グーをする時は親指は中に入れては駄目なのよ?」
義弟③の可愛い口から零れる物騒な言葉に苦笑う。
「ありがとう。頭突きして痛くなかった?」
ふわふわな髪の毛を撫でれば「へいき~」と義弟③が笑う。
「ねえさま、今日は僕とお茶しましょう?」
「いいわよ」
義弟達は義弟①十五歳、義弟②十三歳、義弟③十一歳。
ちなみに兄はわたしと二つ違いで十九歳だ。
義弟②が呼び捨てにしてくる以外はだいたい仲がいい。兄がわたしのことを呼び捨てしてくるから、真似ているのだろう。可愛いものだ。
十一歳の義弟③の小さな手を取って立ち上がる。
「あの……ありがとう」
わたしは、小さな声でお礼を言う。
こんなふうに家族に守ってもらえるなんて、思ってもいなかった。夢の中のわたしも、家族に頼ればよかったのかもしれない。
そう思うけれど、夢の中のわたしは誰かに頼るなんていう選択肢は思い浮かびもしなかった。
それくらい体も心も疲れ切っていた。
今は、ゆっくりと過ごせて、睡眠もしっかり取れているから、頼る勇気もお礼を言う勇気も持てる。
家族が、わたしを大事に思っているから助けてくれると自信を持って言えるくらいには、心が満たされている。
「……家族なのだから、当たり前のことだわ」
母の小さな声に、わたしは泣きそうになった。
否定ばかりでうっとうしい母だけれど、今日は嬉しかった。
「ねえさま、行きましょう」
小さな手に引かれて、中庭の八角形の四阿へ向かう。
義弟③の名前はエセルレッド。
父親の従兄の五男だ。
体が頑丈で、騎士を目指して鍛錬している。
兄は侯爵家を継ぐため、義弟①②③が騎士職や領土での統治関係を助けられるように心身共に励んでいる。
ずらっと甘味が並ぶ。わたしの好みも反映して甘さもいろいろ調整されているようだ。義弟③好みのとっても甘いものから、ちょっと塩気のあるものも並んでいる。
どれも手が掛かるものばかり。
殿下が来るとわかって、終わった後にわたしを労うために作るよう指示されたのだろう。
こういう些細だけれど確かな愛情に、夢の中のわたしは気が付けなかった。
気遣う視線も、慰めるあたたかな手も。
夢の中のわたしも、頼れればよかったのに。
「……食べきれないわね。みんなも呼んできましょうか?」
クッションをたくさん敷いてテーブルを見渡せるようにして座っているエセルに微笑む。
「そうですね」
控えている侍従に他の家族も呼ぶように伝える。
その後、殿下を連行した父と義弟①②は来られなかったが、家族団欒を堪能した。
なんだか、胸の奥がくすぐったかった。
たった一人に裏切られたからといって、すべての人へ不信感を抱いていたのだろう、過去のわたしは……
もったいないことを、していたんだな……
わたしはそんな思いを菫のプディングと共に喉に流し込んだ。
◇・◇・◇
「オリエンナ、はい」
恒例になった中庭の八角形の四阿の家族お茶会で義弟②ギディオンから渡された革袋。
中からは金貨が出てきた。
「とりあえず、慰謝料とは別の、王宮へ置いてきた貴女の私物を換金した」
王室御用達の商人を呼び出して買い取らせたらしい。
「これで、なにか買いに行くか?」
わたしと四つ違いのギディオンは十三歳。それなのに、言葉遣いが勇ましいというか大人っぽいというか、武人っぽい。
母親の姉の三男だ。
きっと彼が父の元で騎士としての職責を継ぐのだろう。
「ありがとう……そうね、考えておくわ」
疲れ切ったわたしは、まだ回復が中途半端だ。
今はなにかを考えるのも疲れてしまう。
「……確かに、貴女はあの莫迦の仕事を押し付けられていた。王太子妃教育に執務に、疲れるのはわかる……だが、もっと別の要因があるのではないか?」
ぱちりと瞬く。
二十年分くらいの執務の思い出と心労。そんなものを背負えば、それは疲れるだろう。
でも、今はまだ現実ではない。
ふわりと金の光が舞う。
今日は晴天で新緑が眩しい。
「疲れた時は甘いものだというが……貴女はそれほど甘いものが得意ではなかったな」
あら、よく見ている。
菫のプディングのようなあまり甘くないものは好きだけれど、クリームや砂糖がこれでもかと塗してあるようなものは苦手だ。
「ギディオン、お買い物に付き合って」
わたしは、懐かしの味を求めることにした。
テーブルに並ぶ、瓶・瓶・瓶。
面白い絵面に笑ってしまう。
執務室で、部下と一緒に口にしたおつまみのようなもの……
「全部、開けてしまいましょう」
わたしは笑う。
瓶を開けて皿に移す。
色とりどりの野菜の酢漬け、魚や肉の油漬け、塩漬け。
それと燻製肉やソーセージなどもいっぱい買ってきたので、それらも温めてもらって並べてもらう。
卵のピクルスを口にして、懐かしさに口元が緩む。
決しておいしいとは言い切れない物もあるけれど、ただただ懐かしい。
大変だった、辛かった、苦しかった。
でも、言えばよかったのだ。
なんで我慢してしまったのだろう。
その思いと共に、にんじんのピクルスを噛み切る。
ポリッ。
軽快な音が響く。
食堂でいつものようなカトラリーを使わずに、思い思いに好きなものを食べていく。
パリッとゆでたソーセージが口の中で割れる。
熱い肉汁が口の中に溢れる。
おいしい。
あたたかい。
これを急いで腹に収めるように食べていた過去のわたし。
夢の中のわたし。
もし、また目が覚めて夢の中に戻ったとしても、今度のわたしはきっと「助けて」って言える。
「オリエンナ?」
ギディオンが心配そうに覗き込んでくる。
それに目を細めて、そして笑う。
いつも、御者台に座っていたのは……この義弟②か父親だった。
◇・◇・◇
元王太子殿下との婚約を辞退してから四年が経った。
わたしは相変わらず家にいる。
だけれど、必要とされているからいる。
家は母と兄、そして兄のお嫁さんが担っているが、その中にわたしも入っている。
あとは領地へ赴いて、代官達と査察、確認、情報交換をするのもわたしとギディオンの仕事になっている。
「ギディオンは、騎士にならなくてよかったの?」
一度聞いてみたけれど、「どう足掻いてもエセルのが適任だ」とむすっとして返された。
エセルは、あれからすくすく成長して筋骨隆々になりつつある。あの可愛らしさは思い出の中にしかない。
義弟①は幼馴染みの少女と成人すると同時に結婚して、騎士団側で父親のサポートをしている。騎士としてではなく、作戦立案側でのサポートだという。
十八歳が成人の我が国で、二十一歳になっても結婚するでもなくふらふらしている娘は奇異の目で見られるが、元王太子殿下があまりにも酷かったため「男性が怖くて……」など目を逸らして言えばだいたい相手が黙ってくれた。
王太子殿下は我が家訪問後にすぐに王太子位を剥奪され、地位は高いけれど重要ではない役職に回された。第三図書館の名誉会長だという。サインすら必要のない仕事だという。
それでも熟せないだろうけど、もう関係のない人だから遠くでひっそり生きて欲しい。
今は領地に向かうため馬車に乗っている。
周囲には我が軍に商隊がいくつか。結構団体様だ。
領地の行き来に民間人を守って行けば、護衛料を節約できる。そんな噂で、我が軍が動く際はついでに守って欲しいという人たちが着いてくる。
御者台でギディオンと二人で、並んで座る。
わたしは爽やかな風に吹かれてのんびりしているだけ。
父親、母親との関係は良好。母親は否定が相変わらず強いけれど、兄や義弟①②③に窘められて、徐々に直ってきている。
兄は飄々と執務をしながら兄嫁といちゃいちゃ。
義弟③は副将軍の娘さんといい感じらしい。
周囲は平和。
ああ、悩みがないって最高。
そして、周囲もきちんと働いているって最高!
人の成果を奪う盆暗も、他人が働いているのに遊んでいる莫迦もいない環境って大事。
ああ、夕陽もとっても綺麗。
美しいものを美しいと思える心が返ってきた。
「オリエンナ、俺と結婚して欲しい」
前を向いたままギディオンが言う。
馬車を操っているのだから、こちらを向かれたら困る。
「わたし、このままおばあちゃんになるかと思っていた」
からかって言えば、「悪い」という短く返された。
夢の中で、わたしを送り迎えしてくれたのは父親とギディオンだった。
そのことに気が付いてから、ちょっと挙動不審になったりもしたけれど、わたしはギディオンが言葉にしてくれることを待つことにした。
もし、言葉にならなかったとしても、思い出だけ胸に抱いて生きていけばいい。
そのうち、他のご縁もあるだろうとのんびりと。
父親は、時折キョロキョロと周囲を見渡して、そして義弟②に睨まれて口を閉じていた。
どんな弱みを握られているのだろう。
ふわっと金の光が舞う。
ギディオンの周りが煌めいている。
馬車が野営地について、わたしたちは御者台から降りる。部下に馬車を預けて、ギディオンはわたしの手を引いて丘を目指す。
夕陽に煌めくマスタード畑。
金色に輝く風景。
「俺と、結婚して欲しい」
「喜んで」
わたしは向き合って、真剣な瞳で告げてくる義弟②……ギディオンに即答する。
「いや、もっと考えなくてもいいのか?」
その言葉に笑ってしまう。
口煩い小姑のようだ。
「もう、四年も考えたから大丈夫よ」
笑えば、ギディオンは顔を真っ赤にさせていた。
十七歳のギディオンだからこそ、受けられる。今から婚約して、一年後のギディオンの成人で結婚ができる。
今よりも前だったら、きっとわたしは即答できなかっただろう。
「……それは、待たせて悪かった」
「ギディオンこそ、もう待たなくてもいいのよ?」
抜かれた背丈。
大きな体躯。
わたしは抱き締められて、届かない背に手を回す。
触れるだけのくちづけ。
金の夕陽はすでに赤色。
ギディオンの顔と同じ。
「幸せになろう」
「幸せになりましょう」
ほぼ同時の言葉に、わたしたちは顔を見合わせて、もう一度くちづけた。
その日の夕食は周囲の全員に祝福されて、色とりどりの瓶詰めとお酒が振る舞われた。
彼の周りには、金の光。
焚き火を囲んで、吟遊詩人が謳うのは金の妖精の悪戯。取り替えっ子、消える食べ物、未来と過去が交わる物語。
煌々と金の光が得意げに踊る。
妖精の愛し子の物語は、吟遊詩人の得意の演目だという。
今、目の前に本物がいるらしいわよ。
わたしは、そんな言葉は飲み込んで金の光を見て、微笑んだ。
おしまい
父親、母親、兄、義弟① 名前が出ませんでした……
きっと立派な名前があるはず。
マスタード畑は菜の花畑に似た、綺麗な黄色のお花畑です。