風は去りゆく
一通りの口論を終えて、幸史郎と菖蒲は同じタイミングで飲み物を手に取り、そして地面へと置いた。
11月の夜。二人が初めて言葉を交わしてからおよそ40日目、あるいは20日目の夜。
どちらも気が立っていた。深夜の公園のベンチに冬の訪れを感じさせる風が吹きつけて、熱くなった二人の間を空気も読まずに通り抜けていく。
しかし彼らの熱量はそれにさらわれることもなく、自らの内で渦巻いては爆ぜて、そして虚しく昇華していく。
菖蒲が右手につけた時計を見る。細く白い腕に巻かれた黒い腕時計は、間もなく彼らの日常に一区切りをつける時間が近いことを示していた。
それを悟った幸史郎は一気に頭を冷やし、髪の毛や制服の至る所を気にして弄り始める。
その心の移りようを、隣に腰掛ける少女は優しい眼差しで見つめていた。
やがてどちらからともなく立ち上がり、目を合わせるでもなくその場で所在無げに虚空を見つめる。
日付が変わるまであと二分。何があってもその時間には心をフラットにすることを、幸史郎はこのひと月で何よりも大切にしてきた。
重ねて言おう。彼はこのルールを心から大切に思っていた。
「ーーん」
だからこうして、どれだけその時間に至るまでに言い争いをしていても、彼は顔を合わせずとも左手を菖蒲に差し出す。
恥じらいがあるのか耳まで赤いその横顔を見て、少女は一息ついて目を閉じる。
幸史郎の心には憤りが堆積していたが、少女の心はそれ以外の何かで満たされていた。
「ありがと」
菖蒲の落ち着いた声が少年の胸を打つ。初めて声を聞いた時、その見た目通りに落ち着いてかっこいい声だと配信で告白したことを思い出した。
恥ずかしい気持ちか、それ以外の何かが溢れてきたのかはわからないが、幸史郎はますます顔を赤くし、空いた右手で口元を覆う。
菖蒲は、両手につけた腕時計から鳴るはずのない針の音を聴いた。
カチリ、カチリと。時の迫る音色が心を波立たせる。
一瞬、見ないようにしていた左手の方の白い時計にチラと目をやる。そちらも同じく短針が天辺に間もなく届こうとしていた。
左手のこれを見ると、いつだって菖蒲は辛い気持ちに苛まれた。
時に焦り、苛立ち、そして無力さに打ちひしがれてきた。
カチリ、カチリ。
タイムリミットが迫る。このひと月と少しの間続けたきた習慣を、しかしこの時の菖蒲は、いつものように行うことを躊躇っていた。
カチリ、カチリ。
不思議に思った幸史郎も恐る恐るといった感じで彼女に目線をむける。
その動作が決定打となった。
…………。
……。
数分後。そこには立ち尽くす少年の姿だけがあった。
キョロキョロと、まるで今生まれてきたかのように辺りを見回している。
こんなところで、一人で僕は何をしているのだろう。
寝起きからじわじわと覚醒していくように、夕方から今に至るまでの記憶が組み上がっていく。
最終的に、また平日に夜更かししてしまったことへの後悔だけが胸に残った。
いや、違う。何故かとても、心臓が脈打っている。
そこでようやく心と体が同期して、彼は自分が肩で息をしていることを自覚する。
高校生の身空で急に走って足が笑うこともないが、腰から崩れ落ちそうな感覚だった。何よりも胸が苦しい。
何かやるせない気持ちに苛まれながらも、彼は歩いて数歩で出られるその小さな公園を後にする。
ーー去り際、ふと自分のいた場所に目をやった。
二人がけのベンチ、足元に置いていた缶コーヒー。
一瞬また息が詰まってしまい、頭を振って気持ちを明日に切り替え、少年は家路へと戻っていった。