やめて!
人生は泡のようだ。一瞬で弾けてしまう。友情も愛情も、絆も何もかも、どれだけ作り上げるのに時間がかかっても、すぐに消えてしまう。記憶もその中の一つだと僕は思っている。実際僕は苺恋と友達だったこともつい2ヶ月前の記憶さえもない。元々そうだったのかもしれない。何ヵ月か経つごとに記憶が消えて、また新しい記憶を作っても何ヵ月か経てば消える。きっと今の記憶も何ヵ月か経てば消えるんじゃないのだろうか。
「あ、もう来てるわ」
玄関の扉を開けると僕たちを閉鎖しているみたいに一台の軽車が止まっていた。
「遅いですよ先輩」
助手席の窓が空き、しぐれと同い年くらいの女性が怒り気味に言う。
「ごめんごめん。すっかり寝坊しちゃって」
「もう、何やってるんですか」
時雨は反省の色とは程遠い顔で謝る。時雨が起きたのは約束の30分前。なんで寝れなかったか、理由は簡単。昨日桜の樹の下で寝てしまったから。
それよりも、先輩?時雨に後輩がいることにびっくりしている。しかも女性…。反対なのは名前だけらしい。
「まあいいです。さあ、後ろ乗ってください。遅刻しますから」
時雨が後ろの扉を開けて中に入っていったので僕もついて後ろに乗った。
「危ない。ギリギリ間に合った」
「南海ちゃん飛ばしすぎ。酔ったんだけど」
「誰のせいだと思ってるんですか!早く行きますよ」
病院の駐車場につくなり、北山さんは、急いで車から降りて、後部座席にいる時雨も「はい、早く行きますよ」と引きずり降ろした。
「え?ここから入るんですか?」
正面の入口から入るのかと思ったら、まさかの関係者以外立ち入り禁止の場所から堂々と入っていこうとしていた。ふたりはまだ職員的な立場だからいいけれど、僕は何者でもないから、なにか言われても言い訳のしようがない。
「大丈夫。事前に言ってるから」
時雨はそう言うと、『関係者以外立入禁止』赤いバックに白字で書かれている扉を開けた。思い雰囲気の扉だったけれど、中は普通の病院。大丈夫だとわかっていてもちょっと怖い。僕は少し肩を縮めながら小さな足音で歩く。
周りにいるのは職員の人たちだろうか。通りかかる人全員が僕を見ている。
「さ、一番に診察するから、私についてきて」
時雨の後輩の人は時雨より年下のはずなのに、時雨よりもよっぽど大人っぽい。頼りがいもあるし、時雨よりも優秀そうだ。
少し歩くと、普通に患者さんもいるような景色に変わってきた。北山さんが扉の開いている部屋へと曲がっていった。
診察室に入って、北山さんと向かい合う形で椅子に座った。
「改めてこんにちは。先輩から聞いてると思うけど、私は北山。先輩の2個下。これから何回か診察したりすることがあるかもしれないから、よろしくね」
「よろしくお願いします」
軽く会釈をしながら僕はそう言った。今よりももっと緊張していた昨夜が嘘みたいにリラックスできているような感じがする。
「紅葉さん。その前髪、あげるの怖い?」
声に芯ができているように太かった。
心臓を触られていると思うほどドキリとした。ここまでドキリとしたのは苺恋さんに話しかけられたとき以来かもしれない。
「やめて!」
僕の返事も待たず悪魔の手みたいに北山先生の手が伸びてきて、僕の前髪をあげようとてきたけれど、とっさに出た声と手が止めてくれた。苺恋さんの時みたいな感覚と感情になった。
「前髪、上げたくないの?」
少しひどい態度をとってしまった。にも関わらず優しい口調で北山さんは診察を続ける。
「は、はい」
声が震えた。声だけじゃない。体も震えてる。指先が音のように振動している。
北山さんは僕の髪から手をそっと離した。
学校でも家でも外でも、僕は前髪を降ろしている。もう少しで鼻にかかってしまうくらいまで伸びてきてしまっている。お風呂でもあまり鏡を見てない。はっきりと自分の顔を最後に見たのはいつだろう。視界的には見えているから問題はない。
「なんで怖いかはわかる?」
「いえ。わからないです」
僕は首を横に振った。「そうか」と先生は頭を上下に動かす。今まで何度か前髪が上がってしまいそうな時はあった。そのたびにホコリまみれのガラスみたいにぼやけたモヤが心を支配する。ただひとつわかることはそれが恐怖であること。前髪のない視界はとても怖い。僕にとっては異空間となる。
「その服は元々あったもの?」
「はい。気づいたら家にありました」
「レディース…ね。それの記憶もない?」
今度は服の方の話になりそうだ。僕の服を一通り見回してから北山さんはぼそっとつぶやいてからそう聞いてきた。
「ないです。服を買ったことも覚えてないです」
夏川くんにも同じことを聞かれたのを思い出した。確かにレディースの服だけれど、はっきりとレディースだと、なぜわかるのだろう。
「その服を着ることは嫌ではない?」
それは、男の子なのに女の子の服を着ても嫌ではないのかという意図なのか。
「嫌ではないです。けど…」
「けど?」
「不思議です」
北山さんはやまびこのように僕の言葉を繰り返す。
もはや声というより息に近いほどだった。
「なんで僕はレディースを持ってるのか、不思議です」
サイズが大きくて指先しか出ない。いわゆる萌え袖という状態になっている。そんな服と手をみながら僕は思う。
性別が男なのに、なんでレディースなんて持っているのだろう。とっさに浮かんだ疑問だった。
「それは、覚えてないってこと?」
「はい」
北山さんは困ったように手を顎に持っていった。記憶がないというのがおかしいことは当事者の僕でもわかる。逆に僕も聞きたい。なんで僕だけ記憶がないのか。他にもそういう人がいるのかを。
「紅葉さん。昔の記憶、ある?」
「いえ、ないです。ここ1ヶ月くらいのしか」
「なるほど」
時雨から聞いたのだろうか、僕に記憶がないことを知っているみたいに冷静な口の回しだった。今までの話と何か関係でもあるのだろうか。
「あの!…なんで僕には記憶がないんですか?」
思わずまえのめりになってしまった。ももの上においている手に力が入る。
「なんでかは私にもわからないわ。でも、記憶を呼び寄せる方法ならあるかもしれないの」
記憶を、呼び寄せる…?
「これは先輩から聞いたんだけど、紅葉さん、高校に小学校の友達がいるみたいだね」
「はい、います」
北山さんは記憶を探っているように聞いてきた。
「紅葉さん。記憶戻したい?」
記憶…。記憶が戻るということは苺恋さんと一緒にいたときの記憶も戻るということで間違いないだろう。苺恋さんといたときの記憶…。当然だけれど苺恋さんはその時の記憶がある。だから僕に話しかけて、僕が苺恋さんのことが誰かわからなかったとき、焦点のあってない目をしてその場を去っていった。それでも僕に話しかけてきてくれて、僕と仲良くしようとしてくれている。アルバムを見ても、修学旅行を一緒に行動するくらいだからよほど仲が良かったはずだ。僕自身も何をしていたのか気になる。だから、だから
「知りたい、です。記憶を」
たとえその記憶が僕の望みでなくても。望まぬものに転ぶのはもとより望むせいだと僕は思う。望むから思い通りにいかなかったとき悲しくなってしまう。だったら最初から望まなければいい。覚悟はできている。どんな記憶が来ても、後悔はしない。
「そう。それなら…」




