いつでも
「紅葉ー。準備できた?」
廊下から時雨の声がする。明日から僕は苺恋ちゃんの家にお世話になる。今はそのための荷物をまとめたりなど準備をしているところ。
「時雨、僕の部屋に服まだある?」
「紅葉の部屋?Hな本とか置いてないよね」
何いってんだあの人。
「服はもうないよ。全部持ってったはず」
「ほんと?」
なにか足りないような。あ…自分で着てた。
「時雨服あった」
「なーんだ。びっくりさせないでよ」
忙しさが落ち着いたのか、元の喋り口調に戻っている。僕の記憶では約2ヶ月、実際には半年以上子の家に住んできた。この短い時間でも思い出はできるもので、両手では数え切れないほどの思い出がある。時雨の変な話を聞いたり、苺恋ちゃんのことを話したり、聞いたり。鮫島さんのことも聞いた。北山先生が酔っ払った時雨を連れてくるのなんて日常茶飯事だった。カバンを失くして探しに行ったこともあったっけ。あれこうしてみてみると案外思い出ない…?
意外と二人きりの思い出って少ないんだ…、まあ2ヶ月だし、そうだよきっと…。
「荷物はまとまった?」
「うん。意外と多くてびっくり」
「色々買ったからねえ。思春期の子の服は難しいよ」
レディース…別に違和感がないのが不思議だ。なんでだろ。僕は男の子だったはずなのに。
「紅葉、これからも週に2回は病院に来るようにね」
「は〜い」
「定期的に家に帰ってきてもいいから。楽しみなよ」
「うん。りょーかい」
二つ返事で返す。別にこれからも普通に会うんだしそこまでさようならという感じはしない。ただ今住んでいたこの家は間違いなく僕の家だった。この前にどんな家に住んでたとかは知らないから、今の僕からすれば実家は時雨の家。いわば巣立ちのようなもの。
『気象庁は今日強い雨に十分注意して、外出は控えるようにとはっぴょうしています』
そと、そんなに雨強いんだ。耳をすませば雨音が耳を弾く。
「ちょっと御話」
時雨がダイニングの椅子に腰掛ける。この姿も今日で一区切り。
話が長いと感じた僕はコーヒーとココアを入れるべくキッチンに向かった。
「先話してて。聴いてるから」
「はいはい」
時雨は一つ息を置いて口を開いた。
「紅葉が気になってることを話すよ」
「なにそれ。御話っていうから何も考えてなかったんだけど」
「いいから。あるんでしょ。気になってること。めったに逢えなくなるんだから今のうちに聞いておいたほうが身のためだよ」
身のためって…。死ぬわけじゃないんだし。気になってること…かあ…。逆にありすぎて困る…。
「ありすぎて困るって顔してる」
「その通りだよ。何から聞けばいいか」
時雨の時折感情を読んでくるような鋭い眼差しに少し引いてしまう事もある。
「そうだねえ。何から話そうか」
お湯が沸騰し、ぶくぶくしている。それに比例してドキドキしている。ポットのスイッチを切りコーヒーフィルターにお湯を注ぐ。ココアはお湯を入れればもう完成。
「記憶…。君の昔のことを少し」
ココアの粉をキッチンの棚から取ろうとしていたその右手が止まる。自然とその手首に視線が言ってしまう。僕が長袖の理由の、この傷。そして未だ切ることすらできないこの前髪。この帳のおかげで僕は目を開けられている。誰からも見られない、見たくないものを見ないで済むから。こんな薄い前髪一つで僕の心は安定している。
「まず、記憶のことなんだけど。何時でも戻る。戻そうと思えば、いつでも」
「な、なんで…」
怖い。怖い怖い。なんで。多分前なら喜んでいたはずのことなのに、今は怖くて怖くて仕方ない。その疑問が今声となって出てきた。
「怖いのは知ってる。だから今はまで言ってなかった。でも今言わないともう会う頻度減るしね」
「なんで、今まで戻さなかったの。なんで?」
右手は下がり、感じたこともないような痛みが脈を打っている。
「それは…。今までは心が安定してるかどうかがわからなかったから」
「今は安定してきたって、こと?」
「そうなる。少なくとも数ヶ月前よりは。だからもし自分で戻したいってなったら来るといい。でもいずれ必ず戻るから。焦らなくてもいい」
「じゃあ別に苺恋ちゃんの家に住まなくても戻るってことでしょ?それだったらここに住んでてもいいじゃない。苺恋ちゃんも治療だから今はそばにいてくれてるけど、それじゃなかったらきっと僕と関わることなんかなかった。他の友達を差し置いてまで一緒にご飯を食べて、登下校も一緒にして、苺恋ちゃんの自由を奪ってるの。戻せるなら、早く戻して苺恋ちゃんを開放してあげて」
苺恋ちゃんは自由を置いてきた。僕の記憶の治療のために。ひとりの高校生の事由を完全に奪っている。そんなのだめ…。
「それは、紅葉の意志じゃない」
「どういうこと?」
「みっちゃんは…」
「何」
「みっちゃんは、自分から治療してあげたいって言ってきた」
「後からだとどうと立って言えるじゃん」
「違う。だって俺はみっちゃんが紅葉と昔からの友達だって知らなかったんだもん。元々他人無しで治療するつもりだった。でも懇願されたら無理だよ。患者だけじゃなくて家族や親しい人の意見も聞かなきゃ。その結果がこれなんだ」
「もうわかんないよ…。何がなんだか」
「紅葉、落ち着け」
「誰かに迷惑かけるために生まれてきたんじゃない!記憶がないのはなんでか知らないし、昔に何があったかなんて今は知りたくない。過去も未来もきっと怖い。僕が目を逸らしたくなるようなことばっかりだよ。…僕はわかんない…。怖いの。こんな前髪だって、この両手の傷だって、気がついたら付いてたんだよ?こんなに暑いのに学校だと僕だけが長袖で…なんでか知らないけど髪を切るのが怖くて…。何なの?なんでなの?もう…」
多分僕は泣いてるだろう。頬が濡れる感触がする。知りたい自分と知りたくない自分。ひとりな気がしない。
「もう…わかんない!」
「止まれ!紅葉!」
逃げたのは現実と時雨から。雨が降る外へと逃げ出した。
玄関を開けると、近くに苺恋ちゃんがいるのに気づいた。
「紅葉?」
反対方向に逃げた。転びながらも必死で。土砂降りの雨こそが僕の傘だ。誰からも見られないこの雨こそが。強い音とともに僕は泣いている。時折石が足の裏に刺さる。靴を履いてこなかったのなんて今は後悔しない。
苺恋ちゃん、こんなことに巻き込んでごめん。時雨治療してくれてたのにごめん。でも僕はわからない。なんで他人が僕なんかのために奉仕をしてくるのか。ありがたいことではあるけど僕みたいな人に時間を費やすなら他の人と笑って楽しい時間を過ごしたほうがいい。時雨も、北山先生とご飯食べて、たくさん笑って。苺恋ちゃんも僕なんかと一緒にいないで他の友達とご飯食べたり、放課後にショッピングしたりカラオケしたりしていい。絶対その方が楽しいのに。こんな未来のないやつの闇を知るより、そのほうが絶対楽しいのに。僕は何もかもわからない。親も、心もこの服も。この前髪もこの傷も。一つでまとめるとしたら記憶、過去。時雨は僕を弄んでいるの?そうじゃなかったら早く記憶のこと教えてよ。ほんとに何もわかっていないの?ホントはわかってて僕に言ってないだけじゃないの?
こんなに大声を出して泣いても誰も僕を見つけない。そう、これでいいんだ。こんな大雨に濡れて今にも崩れそうなやつなんかほっといて、他に未来のある人を救うべきなんだ。僕なんか…。僕なんか…何者にもなれないただのヒト。望むべきは闇なんだ。誰かに優しくしてもらえたから光を知った気になっていただけでホントは何も手に入っていない。元々僕は普通なんかじゃないのに。学校の人の判断は正しいよ。何だあの変わり者みたいな目で見てくる人たちが正解。苺恋ちゃんと時雨は不正解。もう僕に構わないで。なにもいらない。何も求めてない。こうしていたらいつか車に引かれて死ねないかな。誰も悲しまない。こんなやつひとりいなくなったって。
もう何から逃げてるのか分からなくなった。でもわかる。後ろに闇がある。その闇が段々大きくなって、僕を包み込もうとしている。だから必死に逃げる。
どこにいるのかわからなくなってきた。え…嘘。前髪が雨に濡れて。




