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朧月  作者: りんご
21/25

君は

そして運命の日が来た。

 一通り診断を終えて診断結果もはっきりしたものが出ていた。それなのに俺の心は固まっていなかった。まるで溶けたアイスみたいに不透明な形で、それで不完全な思い。

 人にはついていい嘘と悪い嘘があると俺は思っている。今から起こることが、俺の選択が正解が不正解かは、未来の自分のみが知っている。後悔すれば不正解だとわかる。

 今一度彼女の診断結果を見る。この世界では残念なことに偽造が行われることがある。俺は今からその残念の道を行こうとしている。幸い誰かにバレるなんてことはない。この検査は俺ひとりが担当したもの。ただそうでなかったと、心の誤りだったと言えば何ら問題もない。そうだったんですかという簡単な言葉で済ませることができる。

 昨夜は寝れなかった。お陰で真っ暗な部屋で、目を開けているのか閉じているのかもわからない時間をずっと過ごしていた。段々と明るくなって初めて俺は今日寝ていないと知る。体が妙に重かった。肩におもりでも乗っているようだ。それでもなんとか体を起こす。美華と夏川との約束の時間は昼から。それまで、いやその後もか。憂鬱な時間が帳をおろして俺を包むだろう。朝は食べる気にもなれなかった。今から俺は嘘をくのか正直になるのか。そんなことで迷っている自分に嫌気が差す。せめて身だしなみだけでもと寝癖やクマは消す。ふと、自分の生活を別の人から眺めているような、そんな感覚がする。

「よし、行こう」

 両頬をバチンとたたく。次第に赤くなり熱を持つのが鏡越しに見てわかる。こうでもしないと休んでしまいそうだから。

 いつもの朝のはずが、カラスがいるみたいに不吉だ。今からどんな災いが起こるのか。想像ができなかった。想像したくないというのもあったけれど。

 通勤の道はいつもの景色。ランニングをするおじさんや、はしゃぎながら登校する小学生。世間話を繰り広げるおばあちゃんたち。近くの公園では楽しそうにゲートボールをしている老人の姿も見える。ここにいる人たちみんなに謝りたい。そして思いっきり叱ってほしい。医者として嘘を着いて誤った診断結果を渡すなんて。いくら付添人の私欲が混ざったとしてもあるまじき行為。もしバレたらクビじゃ済まないだろう。恐らく保護者に訴えられて敗訴し、そこからの生活は自分で招いてしまった負のレッテルを張って生きていかなければならない。

「夜来、今日だったな」

 病院につくなり、正面の上司が話しかけてきた。なんのことかと一瞬わからなかったがそれも束の間。

「午後からです。少し緊張します」

「うん。それは緊張し過ぎだがな」

 ガタガタとかなり揺れる俺を見て目を細める上司。でも実際はそんなんじゃ足りないくらい緊張してる。今は冷静を保とうとするので精一杯。午後のことしかいまは考えれなかった。

 なんとか集中せねばと、事務を行っているといつのまにか約束の時間が迫っていた。ようやく来たかと言う気持ちとまだ来るなという気持ちの入れ代わりが心をより疲れさせる。それじゃあ行ってきますと眼の前の上司に告げて席を立った。

「夜来」

 背中の言葉は俺を押さずに引き止めた。

「平等に、な」

 俺は振り返らずに進む。上司の言うことは要するに私欲を混ぜるなと言うこと。散々言われてきたことだ。俺は今更ながらに疑問を抱く。医療ドラマとかでよく見るシーンと今言われたセリフは類似というより一致している。なぜ患者を最後まで治療しないのか。なぜ他の患者が来たからと見捨てるのか。俺には意味が分からなかった。

 でも俺がしようとしてることは、患者を見捨てることに等しかった。

「お待たせ」

 長袖に長ズボンを身に着け、手と首にはマフラーがしてあるため露見しているのは顔のみだった。でもなんとなく彼女の隠された内側に傷があることが想像できる。夏川は毎度のように美華の後ろに立っている。多分問い詰めるとまた僕は患者じゃないからと言うんだろう。

「美華、君は…」

 俺は息を呑む。まるで宣告を受ける側のように緊張している。

「成長期によく見られる違和感の一種だ。しばらくすると消える。恐らく今治療しても大人になったときにまた逆の違和感を抱くことになる」

 それに、俺が嘘をつくと決めた決め手となる1つは

「君の年じゃ、治療はできない」

 通常、ホルモン療法は18歳から受けられる。例えいま診断結果が出たとして治療を受けるのは年を少し重ねなければならない。

 当然、美華には嘘をついた。彼女は性別違和の状態にあるし、治療を受けさせなければならなかった。最低で、最悪なことをしたのだ。空に広がる青のように多い罪悪感とひとつまみの正義感。ある人の恋心を救ったというそんなださくて脆い砂上の楼閣。

 夏川は驚いていた。その顔に色が灯る。無色で絶望とした顔に薄い色が入る。しかし笑ってはくれなかった。信じられないからだろうか、罪悪感か…。まさか俺が嘘をついて診断したことを見抜いてか。

「そうですか…」

 不完全燃焼なのか、美華は拳を強く握る。ジーンズにシワを生む。もしかして…と少し焦るがこういうときに動揺してしまうのは良くない。俺は揺れる心を必死に抑え平然を装う。

「もちろん診断結果が出なかったからと言って治療をしないわけには行かない。カウンセリングは、受けてもらうよ」

 当然、患者を見捨てることはしない。偽りの診断だとしても、嘘をついた限りは嘘を通し切る可能性がある。そして、或る人の手助けをした。今からはその補助も兼ねる。だから俺は二人に向けて今の言葉を言ったのだ。

「先生」

 夏川にそう話しかけられたのは、美華がトイレに行くと部屋を出ていった瞬間だった。

「なんで…」

 俺はあえて聞こえていないふりをした。パソコンをタイピングしてカルテを作るふりをしていた。実際は聞こえてるし、カルテなんてつくってない。

「恋や愛は、何よりも重い病気なんだよ。それを優先してしまった。これが正解か不正解かで言うと不正解になっちゃう」

 タイピングの指は止まる。そして雑に打っていた文字たちを一斉に消しにかかる。

「その不正解を可能な限り正解に直すよう努力する。だから君も手伝ってほしい。なにかあれば俺の罪にしていい。君にはこの診断書を預けておくよ」

 俺が渡したのは性同一性障害の診断書。彼がもし彼女を優先する日が来たときに渡してほしいと付け加えておいた。

「それは免罪符として使って。そうすればいつでも俺を罪人にできる。お前は救われる」

 免罪符であると同時に彼を正当な道へと導く紙切れ。この紙で救われる人が何人もいる。もちろん俺もその一人であると思う。

 そして美華が帰ってきて、そのときに1言、またおいでと告げるとふたりは軽く頭を下げて部屋をあとにした。

 その日から2週間に1回のペースで彼らは俺に顔を出すようになった。話していくうちに段々ふたりの笑顔を見る機会が増えていた。この時から俺はふたりの関係に変化があったのではと考えるようになった。それに関して俺は特に口を出さなかった。聞かなくともふたりがいま幸せであるということはわかった。俺は確かにひとりの恋心を優先した。しかしそれは夏川に必ず付き合えと言った訳ではない。もし違った形でも幸せならいい。

 色んな話をした。もちろんカウンセリングがメインではあるが、それ以外の他愛のない世間話や互いに好きなこと、学校はどうかとかほんとにたくさん。順調に思ってた。治療は進んでいると勝手に思い込んでた。だってふたりはずっと笑っていたから。

 この期間は、咲いた花のように短く、すぐに枯れていった。

―美華は3ヶ月後()()()()()()()()()()()()()

 

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