男の子になりたいんです
これは紅葉と苺恋が話しているとき、同時刻で話していたふたりの回想である。
4年前のある夏の日。この日も今日みたいに暑い日だった。照りつける太陽に肌は焼いていき、室内に居てもクーラー無しでは汗ばんでしまうほどの暑さだった。よく覚えている。彼らのことは。
ある日、ふたりの中学生が診察に来たことがある。そのうちのひとりが夏川だ。夏川は治療を受けに来たのではなく、付き添い。彼が連れてきた友達の方が精神病を患っていた。その子は、俺が初めて主治医を担当した患者だった。患者増加の中、人手不足が深刻だった病院側は若手や新人を抜擢せざるを得ない状況だった。
俺じゃなければ、彼が死ぬことはなかったのかもしれない。
「えっと、秋山さんでいいのかな?」
当時、ふたりは付き合っているのかと思っていた。彼女の精神状態がわるいから彼氏も一緒についてきたのだと、勝手に思ってしまっていた。
「先生、美華は…その」
『言わないと。言ってあげないと』
恐らくと彼はこう思っているんだろう。夏川は拳をギュッと握っていた。彼の心は、彼女の何杯も追い詰められている。
「夏川くん。1度退出をお願いできるかな」
「なんでですか?」
「1対1じゃないと話しづらいこととあるからね」
このときの俺は若かった。こんなにも優しい口調を聞くほど。※4年前。
「でも…俺だって話すことはできま…」
俺は彼の口に閉じるように人差し指を添えた。
「あとで、聞いてあげるから」
うわ、なんて優しいんだろう。ほんとに俺天使だった?
おっと失礼。
すると夏川は素直に退出してくれた。そして、患者『秋山美華』だけが残った。
「さて、話してもらおうかな」
太ももをぽんと叩いて気を入れ直す。彼女…美華は焦点のあっていない目で虚空を見つめている。
「話しづらいよね。特にその年頃だと尚更」
美華は拳を握ったままだった。俯いていて、その表情を確認することはできない。
「…らない」
「ん?」
「私は…えっと…」
詰まる言葉が喉で渋滞を起こしてつっかえているようだ。
こちらから促すべきか、それとも自分の口から言わせるべきか。こういうときはどうすればいい…。
「その服は、メンズ?」
「え…あのこれは…」
少し踏み込む過ぎたか…。別の聞き方があったか…。いやまあいい。美華は明らかに動揺していた。
「まあ少し落ち着こ」
これは俺にも当てはまることなのかもな…。どうするか…。一度夏川に話を聞いて見るべきか。
「一度、夏川くんを呼んできてくれるかな」
美華は少し困惑した顔で部屋を出て行った。直後に夏川が入ってきた。
「やっぱり話さなかったんですか」
「ああ、君の力が必要みたいだ」
夏川は席には座らず、扉に背を預けた形で立っている。さっきもそうだった。
「座ってもいいんだよ」
「いえ。患者は美華なので」
「そうか。じゃあいいや。とりあえず、話してみてよ」
「彼女は、男の子になりたいんです。ほんとはこの代名詞も嫌なんだと思います」
「それは服と髪から見てなんとなくわかってた」
「でも…俺は…」
落ちきったままの視線からは次第に涙が溢れ出していた。
「それが嫌だ。彼女が男になることが嫌なんです」
俺は思わぬ言葉に耳を疑う。心細い、か弱い声は涙のせいか。それとも受け止めきれない現実のせいか。
「何故?わざわざ君は付き添いでここまで来てくれたのに」
何が彼を締め付けているのか。彼女を自由にしてやれないのはなんでだ。
「先生も1度見たので少し気づいたと思います。美華はものすごく美しいです。静かだけど、うちに秘めた優しさが僕は好きなんです。そんな彼女が俺は好きなんです。可愛い人は可愛いままでいてほしい!俺の理想は理想のままでいてほしいんです」
力強い声に思わず後退しそうになった。時に人の感情は他人の自由を制限してしまう。抑えきれない他人への衝動を、人はこう呼ぶ。恋と。
そんな厄介な病に彼は掛かってしまった。と同時に男の子になりたい彼女へ恋心を抱いてしまったという罪悪感から彼の心のなかでこのような葛藤を産んでしまっているんだろう。
「しかし…。心の在り方と行き方を最終的に決めるのは本人自身であって…」
「わかってる…。そんなことはわかってます!でも…もう気づいてしまったんです。だから、今日僕もここに来ました。勿論彼女の付き添いでもあります」
恐らく今本心に至るまでに感情が錯綜したに違いない。
「よく言ってくれた」
かける言葉はこれしかなかった。
「どうすればいいんでしょう。俺は」
聞かれることはわかっていたことではあったのだが…。自分でもわかっていない。
「申し訳ないが、答えは用意できていない」
がっかりするのがわかった。俺はそれを見て1つ息を吐く。思考を働かせるが、この場合の最適解というのがわからない。
「今からもう一度美華さんに話を聞こうと思う。彼女の本心で診断、治療を行うことにする」
「…」
納得行かないようで、夏川は喉に出かかった言葉を出せずに飲み込んだ。
「安心しろ。ちゃんとインフォームド・コンセントに基づいてする。強要などはしないと約束しよう」
そして俺は再び、美華を呼んだ。
「ごめんね何度も。ヤッパリ君の口から直接聞かなきゃ行けないと思ってね」
すれ違いざまにはいってきた美華は肩を縮め椅子に座った。
「じゃあ今から何個か質問するから、はいかいいえで答えてね」
そして俺は、美華にある診断をした。その中で段々と自分のことを話してくれるようになっていき、終わる頃には、正体というのを俺は理解し始めていた。
通常、この診断には数ヶ月時間をかけなければならない。その間ずっと夏川も付き添いに来てくれていた。俺以外の先生が美華を見ていたときには、よくふたりで話した。美華のことだけではなく、プライベートのことなど。どんなことが好きなのかとか学校はどうかとかほんとにそんな他愛のないこと。そして月日を経て、彼女『秋山美華』の心のモザイクが取れた。
もうこの頃には呼び捨てで呼べるくらいには仲良くなっていた。夏川とは違い少しここまで来るのに時間がかかった。身体検査から諸々が終わる頃には葉も枯れ始める時期となっていて、時の流れというのを感じさせられる。
そして運命の日がやってきた。




