知りたくない
「みっちゃん。紅葉は君に敬語を使ってる?」
「いや、使ってないですけど」
紅葉と話すようになってすぐのとき、時雨先生にそんなことを聞かれたことがあった。
「そっかあ。良かったね」
「どういうことですか?」
「紅葉ね、心を許した人にしかタメ口で話さないんだ。最初は、多分敬語だったでしょ」
そう言われてみれば、私が紅葉がいると初めて知ったときに教室に声をかけに行ったときは、敬語だった。
「どうして…」
紅葉の記憶の中では、私は存在しない人となっているはず。だからあのとき、紅葉からしたら私は『初対面』の人。
「何はともあれ、みっちゃんたちは相互特別な関係ってことだね。君にしかできないことも、そのうち出てくるんじゃないかな」
いつもの、マイペースでふざけている感じを知っていれば、さっきの時雨さんは随分おかしかった。別人かと思ってしまうほどに。だからかな。時雨さんが紅葉にかける切実な思いと責任が伝わってきた。私にしかできないこと。紅葉が変わるためには、私が必要…か。
未だ眠る紅葉を見る。その右手にそっと被せるようにして手を置く。今にも溢れそうな涙はどこへやろう。誰かのために動くことも、何もかもは結局ぜんぶ自分のため。ここで私が引き受けなくて、紅葉に何かあったら、と思うと気が知れない。もう、昔の私じゃない。紅葉への償いをしなくちゃ。
「紅葉?!」
「あれ…ここは?」
紅葉の目が覚めた。体を起こして、あたりを見渡している。
起きたなら、涙は閉まっておかないとね。
「保健室だよ。紅葉運ばれてきたの」
「そうだったんだ…。運んできてくれたの?苺恋さん」
私は首を横に振る。
「運んできたのは夏川くんなの。私はそれについてきただけ」
「夏川くんは?」
「んー。多分先生と話してるんじゃないかな」
まあ、先生違いだけど。
「紅葉、私のことは、もう呼び捨てでいいよ」
自分でも、なんでこのタイミングでこのことを言ったのか理解できなかった。でも、私の中の直感が脳に司令を出した結果だろう。
「え、なんで」
あとから理由をつけるとしたら、敬語じゃないのにさん付けは似合わないっていうのと、私がそれが嫌だっていうこと。
「さん付けは距離がある感じするでしょ?だから、呼捨て。あだ名でもいいよ」
「苺恋…。…んー…ちゃん付けじゃだめ?」
「ちゃん付けなら良しとする」
いずれ、もっと親しみを込めてあだ名とかつけてほしいな。
タイミングだとか、いつ何を聞くとか、正直どうでもいい。それがその場に応じてなかったとしても。紅葉と話したいものがあるときはその話をすればいい。私は紅葉と話したいだけだから。どんな他愛のないことでもいい。笑っていられたら、どれだけ愛おしいか。叶わないと知っていても、願ってしまう。
「私達、一緒に住むことになったよ」
少しこの場にはふさわしくある沈黙があったあと、私は尋ねた。多分…いや絶対紅葉は驚いているだろう。目を丸くしているのがその証拠と言える。
「え?なんで?」
「記憶を戻すためだって。それと、次いつこう倒れるかわからないから、そのためにね」
紅葉は右腕の袖をぎゅっと掴んだ。
「戻すの…?記憶」
下唇を噛ん出るところから見るに、何か不安そう…。
「どうしたの?」
「知りたくない」
私は聞き間違いかと耳を疑った。
「え?」
「怖い…」
震えだした声は、次第に頬を伝う雫になっていた。
「どういうこと?」
「せっかく今楽しいのに、何があったのかわからない過去を知るのって…自ら危険なとこに行くのと同じじゃない」
そういうものなのかな。人は未来というのを怖がって、過去を変えたいとよく言う。でも、今の紅葉の話を聞いている感じ、過去が怖いから未来に行きたい。というふうに感じる。それは普通の人の逆ってことだよね。未来に行きたい…か。多分紅葉は未来に行きたいなんて思ってはいないんじゃないか。私が今した解釈は違うんだろうな。
「今が楽しいなら、どうやったら楽しい方向に進むか考えようよ。次何をしたら今の自分が楽しいかなって。記憶がないってことは、今からたくさん楽しい思い出を作れるってことでしょ?それって、すごく楽しいじゃん!私は記憶をなくしたこととかはないから実際つらいのかどうかもわからないけど、紅葉の事なら知ってる。もし辛い時があったら私に言ってくれたらいつでも行く。今度からはすぐに駆けつけられる距離にいられるんだから」
私は今どんな顔で、紅葉には私はどう見えているんだろう。前髪の向こうにあるその瞳を、いつか見たみたいにまた見たい。昔みたいに、声を出して、満面の笑みで笑ってくれるその日まで、寄り添っていたい。
紅葉はまだ不安そうにしながらもうなずいてくれた。
「お、満月さん。まだいてくれたんだね」
背後からの声に私は振り向く。そこには紅葉のクラスの担任の先生がいた。
「先生。紅葉目を覚ましました」
「そう。でも今日は大事をとってもう帰ろうか」
「あ、私もついていきます」
「ありがとう。じゃあ荷物とかまとめるのを頼んでもいいかな?」
「はい」
「任せました」
先生が教室から離れていくのを見たあと、紅葉に一声かけて私は紅葉の教室へ向かった。
教室につくなり私は紅葉の荷物をまとめ始める。何を持って帰るとか聞いてくるのを忘れたのを少し後悔している。毎日のように来ているから鞄も机の位置も完璧に把握している。
ふと、私は紅葉の席に座ってみる。ここから見える景色は紅葉と一緒。でも何を感じるかは互いに違うんだろうな。
もう、失敗しないようにしないとね。次はもうない。今の私には少し都合のいい状況なのかもしれない。正直、紅葉の記憶が戻ることは私にとっても不安。流石に、もう覚えてないよね。小学生の頃なんだもん。頬杖をついて思わずため息が出る。
制服が入ったナップザックと、それ以外の荷物をまとめた手提げかばんを持って教室をでる。
結局どっちの家に行くんだろ。私の両親は夜勤だったり出張だったりで家にいないことのほうが多いから、少し事情を説明するだけで大丈夫だと思う。それに今から帰っても私は鍵を持っている。でも流石に知らない家に一人はストレスがかかるか。紅葉が家の鍵持ってたらとりあえずは家に入れるけど、持ってるかな。時雨さんに聞いてみよう。
とりあえず荷物を保健室に…。ん?あの白衣の人って。
「時雨さん!」
窓の外を歩く白衣の男性。間違いなく時雨さんだと思い私は窓を開けて大きい声を出した。
「家の鍵、紅葉は持ってますか?」
「えっと…。あー持ってないね」
腕を組んで考えたあと時雨さんはそう言った。
「あ、じゃあこれ持っておいて。俺が帰ったら荷物まとめてみっちゃんの家に行くって感じでいいかな」
「はい」
「ほい」
声の割に大ぶりで投げられた鍵は放物線を描き私のところへ向かってきた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、あとはよろしくね。俺は仕事に戻るから」
手を振られ、私は軽く会釈をしてその場をあとにした。
紅葉へ荷物を持っていく頃にはもうベッドから降りて立って待っていた。
「苺恋ちゃん。ひとりで帰れそう」
「ほんとに?無理はだめだよ?私ついていく」
確かにもう大丈夫そうだけど…。まだ少し立ちくらみがしているようにも見える。
「やっぱり私ついていく。ほら肩貸すから。ゆっくり行こ」
「あ、ありがとう」
また少し不安そうな返事。
そして私ももみじの家までついて帰った。学校に戻る頃には、もう県道は終わっていた。




