やあ、久しぶりだね
保険室内には俺を除き3人の人がいる。みっちゃんとその同級生であり同じクラスの夏川。そしてベットで横になる紅葉。夏川は俺の顔を見て何かまずいことでもあるかのように保健室を出た。すれ違いざまにも彼は俺の顔を見なかった。
―俺のせいだ
夏川の心はそう言っている。逃げ走る夏川に疑念の目を向ける。心は一瞬なので、聞こえも一瞬に過ぎない。
「わたし、少し無理をさせすぎたかもしれない。紅葉の負担になってしまったかもしれません」
涙ぐんでいる声だ。そして彼女の手の甲に大粒の涙が一粒、二粒と滴る。
「みっちゃんは、何も悪くないよ。最初にも言ったけど、紅葉は複雑だから。それに、紅葉は確実に良くなってる」
「今日のことじゃなくて…」
「心当たりでも?」
「…いえ、特には」
「詳細は知らないけど、今日の一件、誰も悪くない」
こう言ってもなお、まだ首を振っている。
「みっちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんですか?私にできることならなんでも言ってください」
よし、と思った。
「今のこれを見て少し思ったんだけど、これからも紅葉がヤバい状態になるときがあるかもしれない。それがいつかも分からない。だから、一緒に住んであげてほしい」
「というのは…」
「どっちの家でもいいから、紅葉と一緒にいてほしい。もし次こうなったときに、そばにいる人が必要だと思ったから」
「私に何かできるでしょうか…。今日だってここまで運んできたのは夏川君です。私は何もしてません。それに、時雨さんの方が紅葉には詳しいんじゃないですか?」
「でも、本心の紅葉を知るのはみっちゃんだよ。カウンセリングっていうのは、いかにその人に寄り添って接するかが大事。いわば常にガラスの板一枚おいた状態で話さなきゃいけない。紅葉とは大分親しくなったけど…。昔からの付き合いがあるからこそ、寄り添える部分があると思う。カウンセリング…っていうと堅いか。ただ、紅葉と話をしてあげてほしい。どんな他愛のないことでも、最近あった愚痴でも嬉しかったことでも、悲しかったことでも。最近こんなことがあったとかこのテレビが面白かったとか、なんでもいい。君にしかできないことがある。もちろんそれは俺にも言えることだけど、俺は悪魔でも主治医だから。だからお願い。紅葉を治せる人は、限られてる」
みっちゃんからの返事はなく俯いたままだった。少しやってしまったと思ったけど大丈夫だろうか。
「少し部屋を出るよ。俺も俺で、話さなきゃいけない人がいる」
これは心を読めたとかじゃない。勘が働いて、なんとなく一人になりたそうにしていた。
「夏川くんですか」
「御名答。彼の誤解を解かないと」
「そのことについてなんですが。私も1つ解いておかないといけないことがあります」
いつの間にか、頬の涙も乾いていた。涙で潤わされた目はキラキラと光っているようにも見える。
「時雨さん。あなたは昔、夏川くんと何があったんですか?」
保健室から出ようと背を向けていたのだが、叶わぬ現状。まさかそんなことを聞かれるとは。ギクッとした。
「なにもないよ。ただ、顔見知りなだけ」
どうせ、いつか言う羽目になるんだ。今は少しくらい遊んでもいい。というおちゃめな理由で敢えて意味深に言った。
そして次にみっちゃんが口を開ける隙を与えまいと、保健室をあとにした。
保健室の外の窓から夏川が見えたのを覚えている。その記憶をたどり、俺は夏川の元へ向かった。
「やあ、久しぶりだね」
「なんで来たんですか」
「誤解を解きに来たんだよ」
「誤解って…俺何も言ってないじゃないですか」
「目は口ほどに物を言うからねえ」
正確には違うけど。俺は白衣のポケットに手を入れる。
「言っとくけど、お前のせいじゃないよ」
「それは違います。俺が強く叩いたから」
「叩いた?どういうこと」
「剣道だったんです。その時に強く打ったら、しばらくうずくまった後気を失ってしまって」
そういえば気が付かなかったけど紅葉も夏川もみっちゃんも体操服だった。もしかしたらその場にみっちゃんもいて、夏川と一緒に来たのかもしれない。
「防具してたんでしょ?」
「してました。でも、俺が強く打ったから…。だから気を失ったんです」
「責任はあくまでも自分にあるって言いたいのかい?」
「責めてください。もう誰にも嫌な思いをさせたくないんです」
体操座りでうずくまり、ダンゴムシみたいになってしまった。
「人を責める精神科医じゃないんだよ。人を癒やすのが精神科医の本業だ。俺はお前がなんと言おうとその傷を癒やす」
「例え加害者でも、ですか?」
「過去の話をしても何もならないよ。それに、あれも夏川は加害者じゃない」
相当トラウマになってんだな…。
「あれは…本当に夏川は悪くない」
いじめられた側は誰がなんというと被害者であることに間違いはない。一方アメリカではいじめた側、つまり加害者をカウンセリングするんだそう。いじめた側に、そうしなければならない理由があるとでも言うように。実際、そういうこともあるのかもしれないが、だからといって人を傷つけていいという口実にはならないだろう。
「誰もがそういうんです。でも自分を認める。そんな単純なことができない。彼の代わりに生きてくれと言われているのに、その邪念が絡まってしまっているような気がしてならないんです。今日だってほんとは苺恋さんじゃなくて俺が音花さんの隣りにいなきゃいけないのに、こうして逃げててしまいました」
夏川がいうことには分かる節がある。ただ、それを完全に理解するには時間がかかりそうだ。
「俺にも責任がある」
「でもあれは…」
「いくら他人が望まないことでも、本人が望むことならそうしてあげるべきだったんだよ」
「じゃあ…俺があんなこと言ったからですか」
「それは違う。邪な感情を持ったからいけなかった。夏川は、悪くないんだ」
感情の波が大きくなっていのがわかる。
「あの一件は、俺のミスなんだ!俺だけが悪かったんだ!お前は…夏川は何も悪くないんだよ!」
俺も、思い出したくないものだ。
「そんなの、無責任です」
夏川の声が震えている。こんなにも暑いのに彼は震えている。
「無理です。先生ひとりに抱えこませるわけには行きません。俺にも約束があるので」
「だからって…」
「患者さんに寄り添いすぎるのは良くないってよく言われると、言ってましたよね。こういうことのことを、言っていたんじゃないんですか」
『夜来。何度も言うように私欲を患者の前に出すな』
よく上司に言われた言葉を思い出した。そのとおりだと、俺は何も言えなくなってしまった。
そうか、私欲に左右されるようではだめなのか。じゃあ今までの俺は…紅葉を、みっちゃんを私欲で支配していたことになるのか…。
「先生、少し楽になりました。ありがとうございました」
「いやいや。俺の方こそ大事なことに気づけたよ。ありがとう。じゃあね。俺は職場に戻らないと」
さようならという言葉の定義は様々だ。ひとつは、また会いましょうという意味。友達間や学校で用いる。そしてもう一つは、永久の別れ。




