それって
「時雨、今度の日曜苺恋さんとでかけてくる」
夜ご飯を食べてる時、僕は唐突ながら時雨にそう告げた。
今まさに野菜を口に運ぼうとしてた時雨が目を丸くしながら口に野菜を運んだ。
「おー。中々珍しいことをするんだな。どこ行くんだ?」
「まだ何も決まってないよ。苺恋さんから誘ってきたから」
帰り道、急に決まったことだ。今日は木曜日だから明々後日。僕らには連絡手段がないから明日決めないとどうにもならない。最悪僕は苺恋さんの家を知ってるから行けばいいけど。
「へえ。なんか以外。あんまし誘うイメージなかったなー」
「そう?大体苺恋さんからだよ?」
「人は見かけによらないもんだな」
ぼくは、誘わない。その勇気がでない。何か嫌なことがあるとかじゃなくて、元々そうなのかもしれない。誰かのリードにかけられて引っ張られている。
「まださんづけしてるのか?」
時雨が口の中のものを飲み込んでから箸でつつくようにして聞いてきた。
「この方が楽だからいいかなって」
「前の呼び方で呼ばねえの?」
時雨がまた箸で料理を口に運ぶ。
確かいちごちゃんって呼んでたっけ。
「ちゃんもさんも変わらないよ」
「じゃあなんでちゃんじゃないんだ?」
時雨は時に人間の弱点をついてくる。僕は反応に困りつつもなんとか理由を絞り出そうとした。
「高校に入って初めて呼んだのが苺恋さんだったから、かな」
初対面でいきなりの呼び捨ては相当なチャレンジャーだし…。とっさに出てきたのが「苺恋さん」だった。だから僕は苺恋さんと呼ぶ。
「まぁそこはなんでもいいんだけど」
「じゃあなんで言わせたの」
反射でそうツッコんでしまった。時雨はそんなこと無視してごはんを食べ続けている。僕もご飯食べないと…。
「半袖、着ないのか」
味噌汁の器を口に運んで一口喉に通したとき時雨が服全体を見るような目で見てきた。僕は味噌汁の器の箸から自分の腕を両方見る。
「え、あぁ気づかなかった。でも暑くないからいいかなあって」
僕は、言葉をつつしまなければならない。何も言わない。言ったらだめなこと。腕だけは。何があっても見せてはいけない。
「明後日、暑いぞ」
僕はギクッと体が微妙に跳ねる。どうしよう。
「僕、寒がりだから」
僕は元々平熱が低い。風を引いても37℃を超えることは珍しい。
「そうか。ならいいんだけど」
時雨がなにか不満気そうだけど、僕はそれを問いただすことをしなかった。
日曜日、僕は今どこか見覚えのあるところへ来ている。大きなショッピングモールだ。予定どおり苺恋さんがいる。
「うわー。久しぶりに来たけどやっぱ広い!」
中に入るなりいきなり苺恋はんは感嘆と言った。中の冷房が少し肌寒いと感じる。手提げかばんを両手で持ち僕の方を振り返った。
「行こ紅葉!」
今日はいつにもまして元気なようだ。
僕は「うん」と笑みをむけて返事をして少し離れた苺恋さんとの距離を縮めた。
笑顔を引き立てるおしゃれな服。学校では校則的にだめなブレスレットまでつけている。僕は普通に家にあって気に入った服を着てきた。
「ふー。いっぱい歩いたね」
あれから2時間弱、本屋さんやCD屋さん。ちょっとしたアミューズメントパークに行ったりほとんど休憩無しでここまで来た。運動不足には応える運動量だった。そして今は休憩のための飲み物を買ってベンチで休んでいるところだ。
「紅葉運動不足なんじゃない?運動は大切だぞ!」
あぁ…これ絶対筋肉痛になる…。返す余力もなく呼吸を整える。
「それより暑くないの?」
「長袖来てる人には言われたくないんだけど…」
苺恋さんを見ると僕と全く同じ長袖長ズボンだ。
「わたしは暑くないからいいの」
トンデモ理論で返ってきてついくすっとしてしまった。僕の笑みを見てから苺恋さんもくすっとわらった。
「でも流石にこれ以上暑くなったら半袖にするかな」
暑いのか、自分の服の胸元をハタハタとさせている。そんな苺恋さんを見ても、一瞬たりとも心が揺らぐことはなかった。
「ずっと長袖?」
覗き込むような視線は眉がハの字になっている。答え方に困ってしまい、視線を合わせられなかった。
「まあ、夏とかはそんなに出る予定とかもないし、半袖はちょっと…」
僕は腕を伸ばして疲れた体に安らぎを与えた。
「紅葉…腕、どうしたの」
今の行動が凶にでてしまった。今すぐにでもやり直したいくらい後悔した。
もう、誤魔化しようがない。いつついたのか、僕の手には大量の切り傷がある。
「それって」
記憶にはない。なぜ僕がこんなことをしてしまったのか。転校する前にはもう気づいてた。お風呂に入るために服を脱いだとき自分に自分じゃない体が目の前にあった。無数の切り傷。もはや普通の皮膚のほうが目立つんじゃないかってくらいの深くて、赤い傷。痛みはないのに傷んでる。時雨には怖くて言えなかった。
「覚えてない。こんなことしたつもりなんてなかった」
弁明しても無駄だろうな。必死に隠してももうバレてるから無駄だというのに。僕は右手で左手の袖をぐっとおろした。そしてももを手で強く握る。
「リストカット、だよね」
聴こえた瞬間見えない傷が身体の中で強い痛みを訴えてきた。さっきよりも何倍も心配そうな視線が視界の端に映る。
「なんでだろ。僕っておかしいよね。記憶もないしリスカの跡だってあるし」
右手を左の袖から離して両手でズボンをぐっと掴む。
落胆しきっても、どれだけ暗い気持ちになっても僕は泣けない。一生隠し通そうとしていた秘密を今、知られてしまったというのに。
「紅葉、知ってる?人ってみんなおかしいの」
「でも、僕は変だよ」
「死ぬ以外の選択を人は取るでしょ?自傷行為をする人も一緒なの。それが今は自分が生きるためにできること。紅葉がなんでそんなことしたのかは誰にもわからないけど、あのときの紅葉の選択は間違ってないよ。きっと、よっぽど生きたい理由があったんじゃないかな」
苺恋さんの目は今何を見てるんだろう。どんな未来を描いてるんだろ。その眼差しで今何を思ってそんなことを。
「誰にも言わないから、安心して?」
そう言われて少し心に余裕ができた。荒かった呼吸が、擦られてる背中のぬくもりから落ち着きを取り戻してきた。呼吸で精一杯になっているところを、苺恋さんはやはり心配そうな目で見てくる。
「紅葉浴衣似合いそうだね」
背中の手が止まり、若干上がった口角が目に入った。
「急にどうしたの?」
「だってかわいいもん」
今までにないような感覚が体を駆け巡っていく。なんだろ。嬉しいのかな。それでも照れてるのがバレないよう両手で顔を覆う。
「照れないでいいのに。お世辞でもなんでもないから」
「そんなこと言われたの初めて」
手はどけることができない。嬉しさと恥ずかしさが共立している。そうか。僕は今嬉しいんだ。
「零も前言ってたよ。自信持っていいんじゃない?」
零さんってそういうこと言ってくれるような人だったんだ。影で光のあることを言われてるのは嬉しい。人はいつも影では暗いことばかり。
「それより!これからどうする?」
それは、悪い空気を一掃するような声だった。
「んー」
腕組みをして考えるけどこれといったものは浮かばない。やりたいことはあるけれど、名前が思い付いてないといったほうが正しいかも。
「野球するとこ行きたいかな」
「あー、バッティングセンターのこと?」
「多分そう」
そうだバッテイングセンターだ。苺恋さんに言われてようやく思い出した。
苺恋さんは立ち上がってから「じゃあ行こっか」
と言った。
何気に始めてかもしれない。運動経験もないから打てるのかわからない。まずバットってどうやって握るんだろう。たまに時雨が野球の試合を見てるのを横目で見てるくらいしかない。あたりは鉄バットでボールを打つ音が目立つ。
「何キロのやつでするの?」
「もちろん、一番遅いやつ」
「そんな自信満々に言う事じゃないけどね」
僕は野球を知らないけれど流石に球速が遅いと打ちやすいということは分かる。苺恋さんにそう告げたあと、この店で一番遅い70キロのところに行った。
「野球はじめて?」
危険だからだろう、コインを入れるところからはもう僕しか入れない。備え付けてあった中で一番軽いバットを持ったとき、網目に手を掛けた苺恋さんが聞いてきた。
「見たことあるくらいかな」
少し振ってみたけれど、軽いしなんとかなりそう。
「素振りの初心者感すごいね。打てそう?」
「んー。でもなんとなく行ける気がする」
根拠のない自信を述べ、僕はコインを入れ70キロとかいてあるボタンを押した。
流石に一球も当たらないなんてことは…。
「ふぎゅ!」
「そりゃ!」
「てい!」
「ふぎゃ!」
「てい!」
「そりゃ!」
「えい!」
だ、だめだ。何球打っても当たる気がしない。思ったよりも球が早いし、眼鏡でも見えない。急に落ちたりしてきてもうてんやわんやだった。
「ほんとに、初心者だったね」
困ったように引きつった笑顔を見せられ、恥ずかしさのあまりまた体温があがってきた。
「紅葉見てたらなんだか打てる気がしてきた!」
目をギラギラさせて両手を胸の前でガッツポーズにしている苺恋さんを見て、僕は褒められてないということだけ理解できた。
「ほ、ほんと?頑張って」
初めて持つ重さ、それを思い切り振ったことでどっしりとした疲れが2時間分の疲れと共に押し上がる。
交代で苺恋さんがいわゆるバッターボックスと呼ばれるところに立った。
「見てて〜」
苺恋さんはそう宣言すると出てくる球を一球入魂と言わんばかりにフルスイングしていった。
「すごい!あたったよ!」
まるで宝くじでもあたったかのような喜び。ぴょんぴょんと跳ねている。
「次の、出てる出てる!」
パチパチと呑気に拍手を送っている場合じゃなかった。「そうだった」と笑みを見せ、少しだけ舌を出してきた。すぐにまたバッテイングを再開した。
結局彼女は、ほとんどの球を打ち返した。僕は一回も当たらなかったのに。
「もう一回する?」
首を傾げて来た苺恋さんに僕は大げさに首を振る。
大人っぽくて、どこか子供らしい苺恋さんは可愛い。僕にはそう映る。多分僕と同じように思う人は多い。
そんな彼女に憧れを抱くのは、かなり先になることを僕は知った。




