もっけ道
子供達が冥府巡りをする様な話です。結構、雨降ってます。
深月鏡子はまだ6歳だったが、哀しみに対する処し方を心得ていた。それは彼女が姉であったからだが、両親の健康と、ほんの数年の年月の移ろいによるところもあった。
・・・深月鏡子は冷たい小雨に頬を打たれて目覚めた。泣いていた感触はあったが雨を涙と錯覚した可能性もあった。深い森の中だった。帽子とトレッキングポールは失くしていた。
簡易防水のアウターは濡れていたがミドルウェアまでは雨粒は染みていなかった。あちこち泥は付いていたが、怪我も無い様だった。
ザックは近くに落ちていたが口が開いていて、それを数匹の小動物・・いや、背中の曲がった栗鼠程度の大きさの小鬼達が漁っていた。
或いは深月鏡子が幼くなければ悲鳴を上げてパニックになっていたかもしれないが、6歳の深月鏡子は、小さなオバケが自分の荷物を盗もうとしている。と単純に了解した。
「泥棒っ!」
座ったまま、手近な小石や木の実や甲虫を立て続けに小鬼達に投げ付けて、相手を驚かせて追い払った。
立ち上がってザックを拾い、中身を確認すると随分減らされていた。地図はあったがコンパスが無く、カイロやヘッドランプはあったがレインウェアは無かった。食料は3分の1程度しか残っていない。
両親と何度もトレッキング等のアウトドアレジャー体験していた深月鏡子は、低温火傷に気を付けてミドルウェアの胸部の上にカイロを貼りビニールテープで一応保護し、ヘッドランプを付け、水筒の温かい蜂蜜ハーブティを飲んだ。
防水加工の地図と周囲の景色を交互に確認するがまるでどこにいるかわからなかった。
信じられない程大きな木々や熱帯でもないのに巨大なヘゴの類いが多数生えていて違う森に来た様だった。
酷く空腹だったので1本だけ残っていた塩練りのスナックバーを噛り、考える。
家族でトレッキングに来ていたはず。不意に雨に降り込まれ、強い風を受け、両親とはぐれてしまった。どの時点で気を失ったかは思い出せない。
じっとしていた方がいいのかもしれないが、深月鏡子は見晴らしが良く強い傾斜から離れた場所を見付けたかった。さっきの気味の悪い小鬼達からも離れたかった。
賢明な深月鏡子はスナックバーを半分残し、蜂蜜ハーブティを少し飲んでザックを改めて探った。レンズが片方ひび割れた双眼鏡を見付けた。もう片方は見えた。
双眼鏡を持って近くにあった人面に見える岩に登り、片方だけの視界で周囲を見回した。少し先に山道らしき物が見えた。と、
「んんんんんっっ!!」
乗っていた人面岩が目と口を開け、不機嫌そうに唸りだした。
「わっ? ごめんなさいっ! すぐ降りるっ」
深月鏡子は慌てて、怒りの表情で身動ぎし出した人面岩から駆け降り、小雨の中、山道の方へと小走りに逃げた。
山道まで来た。道の両端に延々と風車が差された奇妙な道だった。元々そう山の高い場所にトレッキングに来ていたワケでもない。
母が妊娠4ヶ月目だった。周りの勧めで産休を早め取って退屈していた母の気晴らしに、赤江町の自然公園にある山にほぼハイキングをしに来ただけのことだった。
自然公園と言ってもすぐ近くに小さな温泉街と駅がある様な環境で、温泉街へと続く国道沿いには産婦人科の医院もあった。
深月鏡子は、助けを待つまでもない、林道を下ればすぐ下山できるはず。道があるなら下山すれば村なり何なりあるだろう、と考えた。
賢明でも深月鏡子はまだ子供なので、車が走れる道がある所までゆけば父が四駆車でどこへでも迎えに来てくれると信じていた。
ただ一応、アウターの下にする形で首から提げているエマージェンシーコールを1度吹いておこう、とも考えた。
ピィイイイイーーーッッ!!!
鋭い笛の音が森と、林道の上下奥深くに響いた。すると、最初はそよ風程度の風が山道の下から上へと吹きだし、道の両端の風車をカラカラと少し回した。しかし次の瞬間、
ゴォオオオオーーーーッッッ!!!!!
凄まじい烈風が林道の下方から吹き付け、小さな深月鏡子をいとも簡単に吹き飛ばし、山道の上へ上へと運び出した。
「うわわわぁああーーーっっ?!!」
見れば風の中に、風と同じ速度で林道を疾走する半透明の芋虫ともダンゴムシともつかない者達の大群がいた。
深月鏡子は風と虫の大群と共に蛇行する林道を体感で1キロメートル以上は吹き飛ばされた。
やがて道の両端に風車の代わりに彼岸花が群生しだす辺りまで来ると、風と虫の大群に置いてゆかれる形で山道に転がされた。
「痛ぁっ! もうヤダーっ。お母さぁんっ!!」
うんざりした深月鏡子はむしろ不満を訴える手段として暫くベソをかいていたが、周囲に大人がいない状況でそんなことをしても無駄に疲れるだけだった。
引き続き小雨は降り続き、動かなくても体力は減る。深月鏡子は子供ながらにシラケた顔で泣き止んだ。
座ったまま擦りむいた箇所を今となっては貴重な1本しかないペットボトルのミネラルウォーターで洗い、消毒液を吹き付け、絆創膏を貼り、自分を労る為に残り少ない塩練りの飴を1つ口に入れた。
さらにザックに結び付けている亀のマスコットを手に取り、
「今日の占いランキング1位は鏡子ちゃんですっ。わーっ、やったー! キョウシュクです。亀夫のランキングはコウセイですねー。いやぁ、何の何のぉ。5万円下さい」
等と暫くブツブツ言っていたが、気が済むと、マスコットを離し、立ち上がった。
「ん?」
立って周囲を見回すと、ヘッドランプに照らされて、彼岸花の向こうの林の暗がりで何かが光った。
深月鏡子は双眼鏡を取り出し、片方だけのレンズで光った方を見てみると蛾の触覚と羽根を持つ女の小人の複眼と目が合った。
相手はニヤリと笑った。光はこの小人の羽根の鱗粉がヘッドランプの灯りを反射していた。
「げっ?! ・・キモ可愛い子だ」
レンズの向こうで小人は右手で自分が座っている物を指差した。それは蔓まみれの瓶だった。
小人はそれだけ示し、口の動きだけで何事か囁き、また笑って羽根をはためかせ、光る鱗粉を撒き散らしながら森の奥へ飛び去ってしまった。
深月鏡子は気味の悪い瓶等放っておいて、遠くなってしまったがさっさと山道を降りるべきだ。と考えはしたが、一方でどうにも瓶が気になってしょうがなかった。
「・・う~っ、ああもうっ! 行けばいいんでしょっ?!」
彼岸花を踏み越え、深月鏡子は林の中へ入っていった。蔓に絡まれた瓶に近付くと、瓶の周りに青い彼岸花が群生していた。
深月鏡子はそれには構わず、蔓の隙間から瓶の中を覗いてみた。中からも覗かれた。
「わぁっ?! ええっ?」
2度見する深月鏡子。瓶の中には髪の長い男の子がいた。誰なのかはわからなかったが、強い衝動に駆られた。
「待って、今出してあげるから」
深月鏡子はザックから、去年になってようやくアウトドアレジャーに出る時に持つことを許された5徳ナイフを取り出し、瓶を覆う蔓を次々と切っていった。
本当はグローブを付けて作業したかったが、ザックの中から見当たらなくなっていた。
一通り蔓を切ると、男の子は自分から瓶から出ようとして瓶をひっくり返しそうになったから、深月鏡子は瓶を支えなくてはならなかった。
倒れ込む様にして瓶から出てきた男の子は4歳くらいに見えたが、白い粗い目の簡素な貫頭衣を来て布靴を履いていた。
「う・・あ・・」
言葉は話せない様だった。
「誰に閉じ込められたの? 酷いことするね。わたし、深月鏡子。一緒に山を降りよ?」
男の子は深月鏡子の言葉には反応せず、フラフラと山道の方へと歩いていった。ついてゆくと、男の子は林道の下ではなく上えと歩き出したので深月鏡子は困惑した。
「そっちは山の上に行っちゃうよ? 降りないと・・」
腕を掴んで促したが、思いの外強い力で男の子は山道の上へと歩き出し、深月鏡子は引き摺られる形になり、そのまま雨で手が滑って後ろの水溜まりにひっくり返ってしまった。
「ああもうっ! 最悪っ!! 勝手にしたらいいよぉっ!」
怒った深月鏡子は1人、山道を下り始めた。虫の風に飛ばされてしまったが、そこまで遠くまでは来ていないはず。
飲み物と食べ物、カイロ等もまだあった。1人なら山道を使って山を降りるのは難しくないはずだった。
・・だが、どうにも気になる。深月鏡子は引き返し、早足で男の子に追い付いた。
「山はねっ! 危ないんだよっ? 雨降ってるし、危ないんだよっ」
「う・・あ・・」
男の子はジェスチャーで先へ進むと示してくるばかりだった。
「あなた歳、いくつ? 私の方がお姉さんだよね? まず、その服がダメだからっ」
深月鏡子は1枚だけ残っていた予備の簡易防水アウターを貫頭衣の上から男の子に着せ、ビニール袋で包んだカイロをタオルで巻いて男の子の懐に入れた。
「これでよしっ。お腹空いてないの? 喉渇いてない?」
「う・・あ・・」
「全然わかんないっ。・・いいよ、これ食べて」
スナックバーの残りを男の子の口に押し込み、蜂蜜ハーブティも水筒の蓋に注ぎ、男の子に持たせた。
男の子はかなりの勢いでスナックバーを食べ切り、蜂蜜ハーブティも一気に飲み干した。
「うっ、あっ!」
言葉はわからないが元気になった様だった。深月鏡子は自分でも不思議なくらい嬉しくなった。
「山頂に行きたいの? 赤江御岳はそんなに高くないし、あんまり面白くないと思うよ?」
深月鏡子が家族と峰の辺りをトレッキングしていた赤江御岳は、自然公園や温泉街の近くになければただの里山程度の認識しかされないであろう地味な山だった。
あるにはあった山岳信仰も廃れ、点在する廟等は地元の観光協会と山地管理の組合等が申し訳程度に管理しているだけだった。
「う・・あ・・」
男の子はあくまで進むつもりらしかった。色々奇妙だが、整備された山道を使って山頂を目指せば徐々に地表の面積は減り、見晴らしも良くなってゆくはずだった。
「しょうがないなぁ。わたしの方がお姉さんだしねっ!」
自力での下山から、大人達に見付けてもらうことに考えを改めることにして、深月鏡子は男の子に同伴を決めた。
それから20分程、蛇行する山道を上り続けると道の両端の彼岸花が無くなり、代わりに小石を積み上げて小さな山にした物が並ぶようになった。
「何コレ? 崩れたら道の下が危ないよ? え~?」
「う・・あ・・」
近付いて身体を屈めて確認していると、男の子が深月鏡子のアウターを摘まんで先へと促した。どうやら同伴者として認められてはいるらしい。
「はいはい、行きますよぉ? あなたはせっかちな子ね。『せっかち』ってわかる? 慌てん坊ってことだよ?」
「う、あ」
男の子は得意気に言ってくる深月鏡子に構わず先へと歩いていった。
「ちょっとぉっ。わたしは足が疲れたよぉ? 鏡子ちゃんが疲れてるって亀夫も言ってるよ? ねぇっ! ・・亀夫を水族館で買った時のこと教えてあげよっかぁ?」
あれこれ言っても、先に進む、以外は男の子の関心を得られないようだった。
さらに進み、段々深月鏡子の機嫌が悪くなってきた頃、山道の左右の繁みから、1つ目の大蛇と3つ目の大蛇が現れた。
「衣を1枚寄越せっ!」
「いか程かっ? いか程かっ?」
鎌首をもたげて深月鏡子達を脅してきた。これに男の子は素直に深月鏡子に着せてもらったアウターを脱ごうとしだしたが、機嫌の悪かった深月鏡子は違った。
「泥棒ばっかりだぁっ!!」
ザックからアウトドア用の唐辛子スプレーを取り出し、容赦無く大蛇2匹の顔面に吹き付けた。
「ぎゃあああっ?!」
「何事ぞっ?!」
堪らずのたうつ大蛇達。深月鏡子は唖然とする男の子の手を取り、2人で大蛇達の間を抜けて山道を駆け上った。
「おとろしよっ、押し潰してしまえっ!」
「悪童許すまじっ!」
目も開けられなくなった蛇達が後方で叫ぶと小雨の山道の先から、ズンっ、ズンっ、と道の両端の小石の山を崩しながら、毛の長い、頭部だけの怪物が跳び跳ねて降りてきた。怪物は山椒魚の様な顔をしていた。
「ヤバいヤバいっ! こっちっ」
「う、あっ?」
深月鏡子はヘッドランプを消して男の子の手を引いて山道の脇に入ると、そのまま横にしたU字の形に傾斜を登って引き返し山道に戻った。
足が無く、すぐには下る運動を止められなかった頭部だけの怪物の後ろに出た。ギョッとして半身で振り返る怪物。
その横顔の大きな目と鼻にに、深月鏡子は残りの唐辛子スプレーを全て吹き付けた。
「ンマァアアアーーーッ?!!」
叫ぶ怪物。それまで戸惑っていた男の子は、意を決した顔で怪物の頬の下辺りに全力で体当たりして山道の下方に転がせた。
勢い余って男の子も転がり掛けたが深月鏡子がその手を取って止めた。
頭部だけの怪物はそのまま山道を回転しながら落下し、大蛇2匹にボーリングの様に激突して3体揃って大騒ぎしながら山道のさらに下方へと転がり落ちていった。
「いえーいっ」
「う、あ?」
他愛なく喜ぶ深月鏡子に見様見真似で男の子はハイタッチをした。
ヘッドランプを点け直し、2人で塩飴を舐めたり、水筒の蜂蜜ハーブティを飲んだりしながら黙々と小雨の山道を上ってゆくと、道の両端に置かれていた小石の山が無くなった。
代わりに道の右側には仏教風の神兵像、道の左側に石の箱が無数に並ぶようになった。石の箱は、しゃがんでよく見ると中にアスパラガスの影に目が付いた様な者達がワラワラいた。
「うげーっ、何コイツらぁ?? ほら、チンアナゴみたいだよぉ? チンアナゴって知ってる? コイツらみたいなの」
「う、あ」
男の子は、何かにつけて立ち止まって雑談しようとする深月鏡子にやや呆れているようだった。
「あー、わかったってぇ。痛たたっ、身体中痛くなってきた。もう、どっか雨宿りできる所でお昼寝しようよ。ほら、お昼寝していい時間だよ?」
「う、あっ」
有名なファンシー猫のキャラクターの腕時計を見せたが男の子は取り合ってくれなかった。
「あなた、絶対女の子にモテないと思う。あなたはあなたのことばかり。わたしはあなたの将来が心配っ。亀夫もそうだそうだっ、て言ってるよ?」
男の子は知らん顔で先へ進んだ。深月鏡子はため息を吐いて続いた。
それから山道を雨の中を泳ぐ海月の群れが横切ったり、「お前が好きでも嫌いでもない人間の命、10人と引き換えに、お前がもっとも憎む者を苦しめて殺してやろう」と言う悪魔にしつこく取引を迫られたり、「君が知ることはなかった最高の喜びを教えてあげてもいい」と言う蟷螂の様な女にやはりしつこく迫られたり、「こっちを見ろっ!」と言う無数の目玉の巨人に脅されたりしたが、2人の子供達は黙々と山道を上っていった。
歩きながら、恐ろしい時は手を握って歩いたが、男の子の手は酷く冷たく、深月鏡子はそれが哀しかった。
空気が薄くなった感覚はなかったが、気温は下がり、周囲の木々が徐々に細くなり、雨雲の中に入り雨は殆ど止んだが、今までより重たい雨粒が時折降り、濃厚な水分の霧に覆われていた。
霧の中を奇怪な生き物達がしばしば泳いでいたが、深月鏡子はもう慣れっこになっていた。
ただ疲れ果てた深月鏡子は眠くて眠くて仕方無く、しまいに1人で歩いていられなくなり、見かねた男の子に支えてもらいながら、半ば眠る様に歩いていた。
それでもとうとう、深月鏡子は歩けなくなり、座り込んでほぼ眠ってしまった。男の子は最初は呆れていたが、深月鏡子の顔色が真っ白になり、唇も紫色になり掛けていることに気付いて慌てた。
男の子は自分の頬を叩いて気を入れ直すと、まず深月鏡子のザックの中からタオルを取り出し、深月鏡子の髪や衣服に押し当てて冷たい水分を吸わせて絞ることを水気が絞れなくなるまで何度も繰り返した。
次にカイロを取り出し、先に自分にしてくれた様にビニール袋で包んでタオルで撒いてカイロを貼っていない、ミドルウェアの腹の上にそれを当てて、外れない様に慎重にアウターを着せ直した。
最後に蜂蜜ハーブティはもうなかったので、ザックの中を探して1つだけ出てきた栄養価の高いタイプのゼリー飲料を、最初はどうやって飲ませる物かよくわからず四苦八苦していたが、どうにか蓋を開けて飲む様に促した。
「んん? 今、気持ち悪いから後でいいよぉ・・」
「うっ、あっ!」
強く促し、何とか深月鏡子にゼリー飲料を半分程飲ませた。
男の子はレンズが片方しかない双眼鏡で周囲を見回した。道の両端にはもう何も置かれておらず、殺風景な怪しい霧の中必死で見回すと石の廟が1つ見えた。
中に大きな狐の様な者が横になっていたが、構ってはられなかった。
男の子は左肩にザックを担ぎ、右肩で何とか起き上がらせた深月鏡子を支えてヨロヨロと、山道の脇に入った先の狐の石の廟に歩いていった。
「何だ小僧っ、鬱陶しい死に掛け等連れてくるなっ! 去ねっ」
尾が4本有る大狐は迷惑顔をした。
「う、あっ!」
「去ねっ!」
「う、あっ!」
「喰うぞっ!」
「う、あっ!」
男の子と大狐は睨み合いになった。
「・・・チッ。見回りの時間だ。戻ってきた時、まだ居たら殺すっ!」
大狐は廟から出ると尾の1本を一振りして周囲から濡れた木切れを宙に集め、それを尾に起こした火で軽く炙って渇かすと空になった廟に放り込んだ。
「俺は沐浴する時に木灰を使うっ。用意しておけっ!!」
大狐はそう怒鳴って、霧の中に浮き上がり、飛び去って行った。
「うー、あー」
男の子は大狐が飛び去った方に手を合わせてから、深月鏡子を廟に運び入れ、それからまた四苦八苦して、木切れと、ザックから見付けたマッチと深月鏡子のファンシー猫のスケッチブックの何も描いてない項の紙とを使って火を起こした。
温まった廟の中で、ファンシー猫のレジャーシートを少し畳んで厚くした上に深月鏡子をタオルを枕に寝かし、自分が着せられていたアウターを絞って被せ、様子を見ることにした。
男の子はもう眠ることはなかったので、自分の眠気は問題無かった。
2時間程で深月鏡子は目覚め、ゼリー飲料の残りを飲み干し、塩飴を1つ口に入れると、すっかり回復した。
「ありがとう、元気になった。あなた、わたしより小さいのに凄いねぇっ」
「うーあーっ」
男の子も嬉しそうだった。
2人は廟に、お礼にとビスケット3枚と500円玉を1枚と狐の画を置いて、アウターを改めて着た男の子がザックを背負って、山道へと戻っていった。
雲海の上に出た。赤江御岳はそんなに高い山ではない。深月鏡子は自分が違う場所に来たと認めざるを得なかった。
体験はなかったが、高い山にあるはずの気圧や酸素濃度の変化も特に感じていない。雲海の上を龍や霊鳥、霊獣、霊魚の類いが行き来していた。
岩肌の見える山道の両端には古風な剣が等間隔で打ち込まれ、その柄は注連縄で結ばれていた。
歩きながら、上りながら、深月鏡子は少しずつはっきりとしてきたことがあった。むしろこれまでわからなかったことの方が不思議だった。
それは男の子の方も同じだった。
「手を繋いで」
清い空気に満ちたこの雲海の上で、2人を脅かす者は見当たらなかったが、深月鏡子は歩きながら手を差し伸べた。
「うー、あ」
男の子は応えて深月鏡子の手を握った。
「お母さん、半年くらいしたら赤ちゃん産むみたい。わたしは、とっても、早い気がして、あなたが、忘れられちゃう、て」
深月鏡子は泣いていた。
「皆、あなたを可愛い可愛いって言うし、あなたは、身体が元気じゃなかったから、お母さんもお父さんも大変で、わたしはお婆ちゃんとばかりいて、たまにあなたと一緒にいても・・仲良く、できなかったね」
「う、あ」
「双子なのに、わたしだけ元気だ。晶人」
「う、あっ」
男の子、晶人は笑った。深月鏡子は晶人を抱き締め、晶人は深月鏡子の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
山頂まで来るとそこには巨大な鳥居があった。鳥居の前には鳥居とそう変わらない大きさの猪頭の鬼がいた。髑髏の首飾りをしている。
猪鬼は左手に蓮の花を持ち、右手には『一死七生一輪千華』と印された金棒を抱えていた。
猪鬼は晶人を一瞥し、鼻息を一息吐いてから、顎で鳥居を潜るように促した。
晶人は深月鏡子の手を離した。
「うー、あ」
「これあげる」
深月鏡子は残りの塩飴の入った袋と、半分程残っていたミネラルウォーターのペットボトルを晶人に渡したが、ミネラルウォーターのペットボトルは受け取ってもらえなかった。
「う、あ」
「またね、晶人っ!」
晶人は手を振って鳥居を潜ると、硝子の欠片の様になって煌めきながら空の彼方に消えた。
「白骨の、散りて深草青々と、比良坂の逢路にて・・」
猪鬼は唱えながら、蓮の花を深月鏡子の額に押し当てた。蓮の花弁がほどけ何倍にも増え、花の嵐となって深月鏡子を浮き上がらせた。
「・・吹き荒ぶ河岸に着きたる麻の帆の」
花の嵐は深月鏡子を山道の下へ下へと吹き飛ばしていった。
「わぁあああああ~~~っ!!!」
深月鏡子は姿が見えなくなってから2時間後に、赤江御岳の初級者向けトレッキングコースから外れた草むらの中でミネラルウォーターのペットボトルを抱えて眠っているのを発見された。
周囲にはなぜか蓮らしい花弁が数枚、落ちていた。
約半年後、母は元気な女の子を産んだ。
小学生になった深月鏡子は習い始めた空手教室から帰ると、手をしっかり洗い、指の爪が伸びていないか確認してから、ベビーベッドに眠る妹の頬に触れてみた。
「こんにちは」
それはとても柔らかく、頼りなく、温かい体温だったが、深月鏡子は冷たい感触も覚えていた。それは遠い遠い昔のことの様で、胸の奥深くしまわれていた。
深月鏡子はそれからも、時折、はっきりとは思い出せなくなった山の細道のことを感じ、夢に見ることもあったが、その哀しみを誰かに打ち明けることはなかった。
蛾の小人が口の動きだけで言ったのは「愛別離苦と坊主は言う」です。剣呑です。一輪千華は造語で一つの道理も様々に現れる、といった感じです。猪鬼の呪歌は全文を生者が聴くと死んじゃう系のヤツですが、死者に対しては祝詞で死を形付けることで浄めています。大昔に読んだ他の創作で確か白骨や比良坂というフレーズがあったのですが、後は考えました。哀しみ処し方については彼女の場合はこうなりました。そんな感覚も、どこかあるかな、と。個人的には思っています。