鼓又
ラップ題材です。YOっ!
松崎剛士は破綻の無い男だった。
会社では若手がすぐやりたがる新規事業も程々に取り入れ、自分が職場にいなくても支障無く業務が回る様に部下の連携や個々の対応力を整理し、大半の取り引き先はスケジュールの進捗状況を逐一聞きたがるので無意味に思えても細かく連絡することを心掛けていた。
同年代とは無駄に争わず、社内派閥は一番中庸な閥に入り、常に無難を決め込んだ。これで昼行灯にならないのは仕事自体は普通にできたからだった。
別に特別な秘密があるワケではなかった。単に自分の学歴や能力からすると1段劣る会社を敢えて選んだだけのことだった。
家庭は、職場結婚した妻と2人の子供と、犬とで平和に暮らしていた。
妻は長男が中学に上がると友人がやっているハンドメイドアクセサリーの会社の手伝い始めたが、週2回家事代行を頼み、至って円満に働いていた。
不倫は2度したが、2度目で自分には器量が無い。と了解し、以後不倫することはなかった。
器用な方だが野心家でも天才でもない。
松崎剛士は子供の頃からそう考え、実際その様に振る舞い過ごしてきた。
・・・その日、仕事帰りの松崎剛士はハイブリット車を停めて、先に購入しておいたワインに加え花束を購入し、近くのパーキングへ歩いていた。
特に浮気を辞めてからは月に1度このセットを、中々の酒豪であった妻にプレゼントするのが習慣になっていた。芝居掛かっているが松崎剛士は他にどうしてよいかよくわからなかった。と、
タンっ! タタンっ! タタタタ・・・タンっ!!
軽快な太鼓らしき演奏音が聴こえてきた。最初は微かな響きだったが、路地裏から響くこの音に耳を傾けているとハッキリと聴き取れる様になってきた。
詳しいワケではなかったが、松崎剛士は仕事の付き合いで能や狂言等を観にゆく機会もないではなかったので、この音が鼓の音色に似ていると感じた。
しかし、この曲調は・・
「ラップ?」
ラップに関しては能や狂言よりもよくわからなかった。普段の松崎剛士ならば確実に無視してゆくはずだが、どうにも気になり、フラフラと路地裏の闇の中へと歩き出していった。
闇の向こうから、鼓の音と共に奇妙なラップが聴こえてきた。
来たなメーン 来いよメーン 哀れな鼠 迷える鼠 猫の瞳が逃さない YOっ!
近寄ると、青白い炎が数個、宙に灯り、やはり鼓を持ったラッパーの姿が明らかとなった。
「なっ?」
それはストリートファッションで身を固めた擬人化した猫だった。背丈は人の子供程、尾が2本あり、通常の物の2倍はありそうな大きな鼓を抱えていた。
「コスプレラッパー?」
「違うぜメーンっ!」
2本の尾の1本を伸ばし、松崎剛士を捕らえると軽々と宙に持ち上げる猫ラッパー。驚いた松崎剛士が花束とワインのボトルを取り落とすと、猫ラッパーはもう1本の尾で素早くそれを受け止めた。
「花と酒に罪は無しっ、SAYっ! SAYっ!」
「な、何だ?! 君っ??」
猫ラッパーはサングラス越しに鋭く松崎剛士を睨んだ。オッドアイだ。そのまま鼓を鳴らしならが歌いだした。
俺は鼓又っ! マタマタツヅミ 鼓又っ yeahっ! 取り繕ってるお前のライフっ! ワナビさえ無い空虚なソウルっ 知っているぜ yeah 知っているぜ yeahっ! 打ち壊せ 打ち壊せ 本気を聴かせろお前のリリックっ! SAY SAYっ! YO YOっ!
宝石の様なオッドアイで睨まれながら、激しい鼓の音を聴かされ、見透かした様なことを言ってくるラップを聴かされてゆく内に、松崎剛士はある夏の午後を思い出していた。
「勇気。幼稚な言葉だけど、君にはそれが足りないんだと思う」
互いに直帰できる外回りの仕事の時間を調節して、ホテルに来ていた。今日で別れることは互いに確認済みだった。
「私の立場で言うと、ただの負け惜しみだけどね」
彼女、2度目の、最後の不倫相手は髪を掻き上げながら苦笑した。
もう8年も前の出来事だった。
帰宅した松崎剛士は酷く消耗していて、言葉少なにワインと花束を先に仕事を終えて帰ってきていた妻に渡し、
「着替えてくる」
と言って自室に引っ込んだ。消耗はしていたが、内から言葉が溢れ出しそうな奇妙な感覚があった。
「何だ、これは??」
「それがリリック。内なる言葉。ラップはただの悪口やカッコつけパフォーマンスじゃないぜ?」
作業机の椅子に鼓又が座っていた。
「いたのか?!」
「取り憑いてるからなぁ」
「何が目的だ? いやそもそも何だ君は?!」
「そろそろ電話が来るようだぜ?」
「何?」
松崎剛士のスマートフォンが振動した。手に取ると表示は部下の櫛田だった。
「電話に出るから暫く黙っていてくれ」
「難しい注文だぜ」
ニヤニヤする鼓又を一旦無視することにした松崎剛士。
「・・はい。どうした?」
「部長、すいません。いきなり電話して、メールじゃ長文になっちゃいそうだし、ショートメールも禁止なんで」
会社の情報流出対策で、グループSNSサービスは基本的に不可になっていた。
「具体的に」
「はい、あの・・太陽光パネルの件なんですが」
会社で色々噂になっている件だった。赤江町の端にある農地に隣接した山地を切り開いて外資の安い太陽光パネルを大量に設置しようという話だった。
ただ山地は平地ではなく木も生えている。そんなことをしたら地下水は枯れるし、地滑りの危険もある。農地や一部に別荘用地も面している為、あまりにハイリスクだった。
しかも、下調べに向かった業者や社員が相次いで落雷の被害に遭い、既に3人病院送りになって神社か寺で御祓いするしない、という話にもなっていた。
松崎剛士の同期で社長の甥でもある水元辰雄が無理押ししていた。ずっと出世争いをしている年下の社長の親類筋の浅谷健次が近々役員に推薦されるという動きがあった為、焦っているらしかった。
「実は水元さんに太陽光パネル事業のプロジェクトリーダーにならないか、って言われてしまって」
櫛田は松崎剛士の部下であって水元辰雄の部下ではない。が、社長の甥である水元辰雄という男はしばしばこういったことをした。特にリスクの高い仕事では。
「櫛田・・」
アドバイスしようとすると、鼓又がタンっ! タタタタンっ!! と鼓を打ち鳴らし始めた。松崎剛士は静止しようとしたが、気が付くと鼓に合わせて歌い出していた。
櫛田 櫛田っ お前俺の部下っ! 水元マジ無関係っ yeahっ!!
「部長?!」
パネル パネル その発注 キックバックを役員にバラまくつもりのマジ水元 YOっ! 事故は起きるし 赤字確定 電力買い取りレートマジ厳格化っ! どっちに転んでもお前が責任取らされる SAY SAYっ!
「そんな・・」
明日 トゥモロー 俺が会議で カタつける カタカタっ ブっちめるマジ水元っ これまでの悪行三昧 決着の時っ! 来たぜ YO YOっ!
「大丈夫ですか部長? というか何でラップですかっ??!」
ここで一旦 電話切る このクソ猫 マジでKILLっ! yeahっ!!
「猫??」
松崎剛士は一方的に電話を切ると、鼓又もニャハハっと笑いながら鼓を打つのを止めた。荒い呼吸を整えると、松崎剛士は鼓又に掴み掛かった。
「どういうつもりだぁっ?!! 私は水元辰雄等に関わりたくないっ。我々の派閥は内々に会長や社外取締役達に計画の無謀さをリークして穏便に納めるつもりなんだっ! バカげた約束をさせるなっ」
「約束させた覚えなんてないぜ、メーン? 全てお前の本心だろ?」
「うっ、・・そうだとしてもっ」
「ちょっとくらい横槍が入っても強引で面子を気にする水元が止めるワケない。精々事業規模が縮小されるくらい。お前の入ってる日和見派閥は適当な名目で最低限度土砂対策をしてやり過ごす所まで折り込み済み。そういうことだろ? メーン」
「・・・世の中、善人ばっかりじゃないんだよっ。私だって潔白じゃない。お前みたいな、ワケのわからない者にはわからないんだよっ」
「俺がお前に憑いた。もうお前はこっち側っ。お前自身の魂のリリックから、お前は
逃げられないぜ? SAY SAYっ!」
「黙れっ!」
松崎剛士は鼓又を殴ろうとしたが、部屋のドアがノックされた。
「貴方? どうしたの? さっきから騒々しいけど??」
妻だった。
「いや、何でもない」
応えていると、胸ぐらを掴んでいた感触が不意に無くなり、鼓又は姿を消していた。
翌日、うんざりしたが気を入れ直して出社した。松崎剛士にとって、こんなトラブルは慣れっこのはずだった。
数年前、とあるプロジェクトで水元辰雄に逆らった松崎剛士の部下が徹底的に吊るし上げられ、意図的にプロジェクトを失敗させられ、責任を取らされて自殺未遂したことがあった。
部下は退職し未だに精神科に通っている。それでも松崎剛士は属する派閥と反水元派と密かに連携し、慎重に立ち回ってきた。その結果が、水元辰雄ではなく浅谷健次の役員推薦の流れだった。
反動でこんな多数の人命に被害が出かねない案件が発生するのは甚だ不本意だったが、逆にこんな仕事を作るヤツが易々と役員になれば今後どれだけの災いを振り撒くかわかった物ではなかった。
電話ではおかしな魔法? を掛けられて何やら勇ましい口約束をしてしまったが、櫛田の件も何とか穏便にフォローできるはず。
ここが踏ん張り所だ。苦汁もあとジョッキ一杯くらいは飲んでやるっ。楽な会社に入ったつもりがこの世に楽な仕事等無かった。松崎剛士はそう考えていた。
覚悟を決め、定例部長会議に参加する為に松崎剛士は廊下を歩いていた。
定例部長会議は月に1度開かれる都合のつく本社の部長級社員の4割程度が毎回参加する会議だった。毎回、状況確認程度で大したことは決まらない。
この会議の目的は腹の探り合い。立ち位置、出方、調子、関係性、表に出していない情報の感触。これらを探り合う。
会社は工場のラインでは無い。人の坩堝であった。まして部長級まで昇ってきた生え抜き達である。他の者から『合理的な方針』を指示される筋合いは無い。
この辺りを理解しないコンサル上がりの転入者が会議の合理化を声高に訴えたが、いちいち鼻に付く物言いと服装、あらゆる虎の尾を何も考えずに踏む間抜けさで全ての派閥から梯子を外され、最後は円形脱毛症まみれになってカツラを被って退職していったこともあった。
水元辰雄は特に酷いが、どちらにせよ生き馬の目を抜く場であった。浅谷健次も自分の政敵には容赦はしないタイプだった。
「松崎君」
会社で上司以外で松崎剛士を君付けで呼んでくるのは今となっては1人だけだった。
「見川?」
振り返ると同期の見川初実だった。自分と同い年だけにそれなりに歳を重ねていたがまだ若い頃の凛々しさの残火の様な物が見られて、松崎剛士には未だ眩しく見えた。
2度目の、最後の不倫相手であった。今は見川も結婚し、5年程前に子供を1人産み、それから驚く程早く復職して周囲を慌てさせていた。
「櫛田さん、だっけ? 危ないんじゃない?」
「最悪、有給取らせる。ウチでリークするつもりだ。そんな時間は掛からない」
「水元、それくらいで引き下がるかな・・」
見川初実は暗い顔をした。部下が出張先で水元辰雄にしつこくセクハラされた時も結局退職したのは見川初実の部下の方だった。
大昔、新人研修の時に見川初実も水元辰雄に胸を触られていた。
今更のことであったが、自分でも信じ難い程怒りが松崎剛士の中で燃え上がった。
「見川、会議中、私と水元と浅谷さんが画面に入る席から録画できるか? 勿論音声も」
自分が何を言ってるか一瞬理解できなかった。
見れば半透明の姿で見川初実には見えていないらしい鼓又がいつの間にか側にいたが、肩を竦めてきた。鼓は持っていなかった。
「何? 何する気? 何か凄い証拠でも持ってるの?」
「新しい材料は無い。だが、・・俺のリリックで打ちのめしてやるぜっ! YOっ YOっ! SAYっ!!」
突然のラップに見川初実はただ唖然とするばかりだった。
会議が始まった。ペーパーレス化が進んで紙の資料は少なくなったが、その分わざわざ印刷される資料には概要が纏められていたりした他、セキュリティ的に敢えて電子化せずに会議室からの持ち出しも禁止された通し番号付きの紙の資料もあった。
暫くは辺り触りない近況報告が続いたが、水元辰雄以外の出席者全員が水元辰雄に集中しているのが松崎剛士にはわかった。
見川初実は、手筈通りの位置の席を変わって場違いな新人の頃から使っているお気に入りの筆入れに密かにスマホを立て掛ける様にして録画録音していた。
「眠たい話はどうでもいいよなっ?! 太陽パネルの話をしようぜっ? 社長の了承もあるっ」
水元辰雄自身が口火を切った。浅谷健次がチラリと見川初実の筆入れの辺りを見たが、すぐに目を閉じた。
半透明の鼓又はプロジェクターの前で寝そべって欠伸をしていた。既に鼓は抱えている。
「キックバックは全役員に配ってやるっ! お前達の派閥のボスにも配ってやるぜ? 土砂崩れ対策だなんだ、ってのはお前の派閥て上手くやってくれんだろぉっ?! 松崎ぃっ!! 仕事作ってやるよぉっ!」
浅谷以外の全員の視線が松崎剛士に集まった。松崎はスルスルと紙の資料を丸め、筒状にし始めた。鼓又が反応し、起き出し、伸びをし、筒を抱え直した。
「こうやってハイエナみたいに上手く処理する役回りもちゃんとあんだよ? パネル事業は赤字になるが2年目で県の団体に転売できる段取りになってる。禿げ山は即、ゴミ処分場に転用だ。地権者はウチになるからなっ?! 文句あるか? あーんっ?!」
めちゃくちゃだが、回収する算段はしていた水元辰雄。参加者の視線は自然と、浅谷健次に集まりかけた。だが、
「SAY SAY SAY SAY SAY セェエエイっ!!!」
松崎剛士は会議室の机の上に立ち上がった。手にはマイクに見立てた丸めた紙の資料を持っていた。
鼓又が踊りながら鼓を打って前奏を始めた。音は松崎剛士にしか聴こえてなかったが、十分だった。
全員が驚愕する中、松崎剛士は渾身の声で歌い出した。
水元 YO YOっ! お前YOっ! 俺の部下 自殺未遂っ マジ絶許っ! 櫛田に同じ目遭わせないっ SAY SAYっ!!
「な、何だ?? 松崎、気が狂ったか?!」
見川の部下っ! 他にも多数っ! セクハラ三昧っ パワハラ三昧っ 資料は揃ってるyeahっ!
「資料? 証拠はあるのか?! 何だコレは?! お前ら俺を嵌める気かっ?!」
横領多数っ! お前の裏金メインバンク 赤江3区の地銀SAYっ! YO YOっ!
「くっ・・知らんっ! 知らんぞっ! 何の証拠も無いっ。俺はそんな支店と契約してないっ。風評被害だっ!! 陰謀だっ! 浅谷ぁっ! お前の差し金か?」
「さぁ、私は・・」
お前の悪事っ 周知のこと 切っ掛け待ち 羞恥を知れっ! 人は噂で死ぬっ! お前は終わりだっ!! 水元辰雄Yeahっ!!!
「ふざけるなっ! タダの言い掛かりじゃねぇかっ! 松崎この野郎っ!!」
筒猫が素早く2本の尻尾を伸ばし、1本は机の上に駆け上がって松崎剛士を殴りに掛かった水元辰雄の足に絡め、もう1本は素早く内ポケットに忍び込ませ財布を摘まみ出した。
派手に転倒し、大袈裟に痛がる水元辰雄。床に落ちた財布からは地銀のキャッシュカードが抜け落ちていた。それをブランドのハンカチで挟んで拾う浅谷健次。
「名義が違う様だが、確かに3区にある地銀だね」
「待てっ! 何でそんな物が財布に・・」
鼓又は舌を出した。
「少し、調べていいかな? 水元」
「待てっ! ちょっと、親戚じゃないか、浅谷さぁん」
転倒で鼻血を出した顔で媚びた顔をする水元辰雄。
「勿論、親戚として親族会議は開かれることになるだろうね。会長にも来てもらおう」
水元辰雄は絶望した顔で床に膝を突いたまま項垂れた。
鼓又が陽気なリズムで鼓を打ち鳴らしだした。松崎剛士は見川初実を机の上に引っ張り上げた。
「ちょっと?! 松崎君っ!」
松崎は笑って、最後のリリックを絞り出した。
見川初実 俺の同期っ! 俺のリーマンエンドロール 一緒に居れてマジ光栄っ! Yeahっ!!
「松崎君・・」
雨の時 サラサラ 風の中 キラキラ 懐かしい俺達のビジネスライフ YO YO・・
松崎剛士の最後のリリックはそれからたっぷり8分も続いた。歌い終わる頃には鼓又の姿は無かった。
病気を理由に休職した松崎剛士はそのまま早期退職した。
見川が技術部の協力者を介して適切に編集した動画や音声を社内にバラ撒いたこともあり、水元辰雄は完全に失脚した。
一方で、浅谷健次が役員に昇格し、既に発注されていた太陽光パネルは他社が再開発に失敗した赤江町の旧工業促進エリアに仮設されることになった。キックバック金は単純に値下げ、という形で合法処理された。
農地エリアの山地で多発した落雷騒動も収まったが、地元の町議が勇んで現地に建てた避雷針は建てた当日に何者かに重機並みのパワーでへし折られ、税金が無駄になっただけだった。
約2ヶ月後、病院のカウンセリングに問題は無く、長々と失業保険をもらうのは性に合わなかった松崎剛士は妻が手伝っていたハンドメイドアクセサリー会社の主に経理スタッフとして働いていた。
仲間内で運営していて事業としての確立が甘かった為、松崎剛士が無難に経営を整理するだけで驚く程業務効率が上がった。
昼休み、再び同僚となった妻と時間が合わなかった為、松崎剛士は会社の入っている5階建て雑居ビルの屋上に来ていた。
かつての職場の、赤江町の中では高層なビルが遠くにうっすら見えた。
松崎剛士はパック豆乳を飲みながらコンビニのサンドイッチを食べ、浅谷の計らいで多めに払われた退職金で家のローンと長男の学費までは何とかなりそうで良かったと改めて思っていた。すると、
「暫く見ない間に薄っぺらい風体に仕上がってるじゃあねぇか? メーン」
青空を背景に宙空に鼓又が現れた。松崎剛士は場違いになるのを避ける為、背広のグレードを下げ、ネクタイを締めるのも基本的に辞めていた。
「お陰様でな」
「ニャハハハッ、どういたしましてYOっ!」
「なぁ」
「ニャ?」
「君は私の幻覚なのか? 全部、私の年甲斐無いヒーロー願望だったのか?」
鼓又は楽しげに松崎剛士を見下ろし、鼓を一回打った。
「それは、どっちだと応えても同じじゃねーか? ブラザー」
松崎剛士は笑うしかなかった。
「そうだな。もう行ってくれ、ラップは懲り懲りだ。もう言いたいことが無くなった」
「ニャハハハッ、ラップを極めたみたいなことを言ってらぁっ! dopeだなっ。最後にいいこと3つ教えてやるよっ?」
「何だ?」
「お前は毎月ワインを嫁にせっせと貢いでいるが、確かに酒好きではあるようだが、お前の嫁、軽いワインアレルギーらしくてな、毎回翌朝腹を下しているぜ? メーン」
「ええーっ?」
「それから不倫も2回ともバレてる。嫁が騒がないのはセックスが面倒なタチで、回数が減って清々していたからだぞ? メーン」
「ええええぇ・・・・」
「最後に、これを教えておいてやる。お前の嫁がもうすぐこの屋上に来る」
「何っ?」
松崎剛士が振り返るのと、塔屋のドアを開けてコンビニの袋を提げた妻が屋上に降りてくるのはほぼ同時だった。
空の方を向き直ると既に鼓猫の姿は無かった。
「貴方?」
「いや、何でもない。あの・・・」
妻は松崎剛士の前まで歩み寄ってきた。
「色々、申し訳なかった」
松崎剛士が深々と頭を下げると、妻は困惑顔をした。
「色々あり過ぎてどのことかわからないけれど、お握り買ってきたから1つ食べる?」
「・・・ありがとうっ。ありがとう」
コンビニの梅のお握りを1つ受け取って夫が泣き出すので、妻は益々困惑した。
赤江町の路地の奥の暗がりに並の人には聴けぬ、鼓の音が響いていた。陰鬱な、ヒップホップ。
観客は、気が狂ったホームレス、ドラッグ中毒の家出少女、2度とは家に帰らない徘徊老人達、眷族たる野良猫達、まだ形をはっきり成せない怪しき者達、そして・・失脚後、出向先への出勤を拒否している虚ろな目をした水元辰雄。
鼓猫はこの世の影に入り込んだ者達に闇のリリックを放っていた。
俺は鼓又っ! マタマタツヅミ 鼓又っ yeahっ! 取り繕ってるお前のライフっ! ワナビさえ無い空虚なソウルっ 知っているぜ yeah 知っているぜ yeahっ! 打ち壊せ 打ち壊せ 本気を聴かせろお前のリリックっ! SAY SAYっ! YO YO YO・・・
鼓又は隻角が暴れない様に間に入った形でした。もっとスマートに解決できたんでしょうけど、そんなに真面目な怪異ではないのでイジり甲斐のありそうな松崎に絡みに行った次第です。でも結果的に良かったですね、SAYっ!