押し家
中学生達が主人公です。奇妙な家が出てきます。
日野翠子は日に日に義父の視線が耐え難くなっていた。赤江町の第3中学に上がり、フットサル部に入ったことを口実に髪を短く刈って、制服もスラックスタイプの物を選び、女子としては背も高かったが、もう誤魔化し切れない。
母に相談したが、母は日野翠子に嫉妬し、義父との間にできた幼い弟ばかり構うようになり、日野翠子は家で孤立するようになっていた。
・・・下校中、日野翠子は気が付くと、住宅街の見知らぬ通りに来ていることに気付いた。どうも通りを1本間違えた上に知らずに角を曲がり、そのまま自宅に帰っているつもりで長々と奥まで入り込んでしまったらしい。
自転車に乗ったまま右往左往していると、周囲に霧が出てきた。ライトを点けて自転車を漕ぎ、霧が濃くなるとライトを点けたまま自転車を降りて押してゆくしかなかった。
信じ難いことだが、住宅街の中にいるのにスマホは圏外で使い物にならなかった。
進めばいいのか戻ればいいのか? 困惑していると霧の向こうの高い位置に大きな灯りが見えた。
目印になる物かもしれないと近付くと、それは公園入り口の外灯だった。さらに近付くと、
「何これ?」
霧に包まれた公園に人影は見えなかったが、敷地内のそこら中の中空に家具、家電、玩具、自転車、自転車、バイク、その他様々な生活用品が浮かんでいた。
とても公園の中には入ってゆけそうになかったが、公園の奥へと、消えていた入り口以外の外灯が次々と点いてゆき、それに合わせて宙に浮いていた品々が分かれて道を作った。
「入れ、ってこと?」
暫く迷っていたが、日々に鬱屈していた日野翠子は知らずに変化を求め、自転車を押して奇妙な公園の中へと入っていった。
不自然な配置の外灯に導かれてたどり着いたのは横長に広い東屋だった。この中では物が浮く現象は起こらないらしかった。
また、そこにはまず1つのリビングがあった。ソファ、テーブル、棚、場違いに南国風の衝立、ブラウン管テレビ、数世代前の据え置きゲームハード数種等々・・。
そして、ロッキングチェアに日野翠子と同年代の、スカートタイプの知らない学校の制服を着た娘が座っていた。
古びた漫画雑誌を読む手を止め、気だるげな顔で日野翠子を見ていた。華奢で、色が白く、髪は肩まであり、驚く程容姿が整っていた。
ホームレス、にはとても見えなかった。
「こ、こんにちはっ」
「・・段差から先は土足厳禁。自転車で乗り入れるのもやめて」
日野翠子はロッキングチェアの娘の側まで自転車を押して靴を履いたまま近付いていた。改めて見ると絨毯まで敷いてあった。
「わぁっ?! ごめんなさいっ。掃除しますっ」
「ワイパーとシートはコレを使って」
ロッキングチェアの娘は、手を軽く振ってリビングスペースの先にあったロッカーから、フローリングワイパーとクリーニングシートの入った袋を浮かせて操り、日野翠子に渡した。
日野翠子は目を丸くした。
「ええ~っ? 魔女とかエスパーですか?」
「知らない。この押し家にある物なら大体操れる」
「オシヤ?」
「押す、家、と書いて押し家。それがこの東屋を含めた公園全体の名前。まぁ、・・私の家ね。今はね」
ロッキングチェアの娘は不敵に笑った。
日野翠子は少なからず混乱したが、とにかく、一旦東屋から出て、自転車を停め、ヘルメットをカゴに入れ、靴を脱いで履くよう促されたスリッパを履き、シートを付けたワイパーで自分が土足と自転車で入り込んできた辺りを掃除した。
「手際がいいね。入れ代わるよりメイドとして雇おうかしら?」
「入れ代わる?」
「そう」
ロッキングチェアの娘は日野翠子の全身を何かの工業製品の仕様確認でもするかの様に隈無く見た。
日野翠子はどぎまぎとした。
「勿体付けても無意味ね。・・些末な点は置くとして、この押し家には重要なルールが5つあるわ。座って聞きなさい」
「ああ、はい。んん??」
日野翠子はソファを示されたので一応大人しく座った。
「1つ、押し家の主は年を取らない」
「ええーっ?」
「いちいちリアクションしなくていいわ」
「あ、はい・・すいません」
じゃあこの子は何歳なんだろう? と思いつつ日野翠子は黙って聞くことにした。
「2つ、押し家の主は押し家にある限り誰にも殺されない。こんな風にね」
ロッキングチェアの娘が手招きする様な仕草をすると、棚からカッターナイフが手元に飛んできて、ロッキングチェアの娘はそれを使って躊躇無く自分の首を掻き切った。
鮮血がほとばしり、日野翠子も返り血を浴び、ロッキングチェアの娘はぐったりとなって白目を剥いた。
「ちょっとぉおおーーーっ?!」
慌てて手当てに入ろうとすると、ロッキングチェアの娘は白目を剥いたまま片手を上げてこれを制した。
よく見れば首の切り傷が瞬く間に塞がってゆく。傷が完全に塞がると、ロッキングチェアの娘は血塗れのまま黒目を戻した。
さらに手を一振りすると、日野翠子の身体を含めてそこら中に飛び散った自分の血液を中空の1ヶ所に集め、棚からストローを招き寄せると集めた血液にストローを刺し、結構な勢いで吸い始めた。
「うぇええ~っ?! それ絨毯とか私の上にも落ちたよ?」
ロッキングチェアの娘は構わず飲みきった。
「血だけ集めた。ここでは死なないだけで、貧血にはなるから」
目を閉じて休んでいたが、ロッキングチェアの娘はすぐに回復した。
「・・ここにいる限り、押し家の主は死ねないわ。それを踏まえて3つ、押し家には2人の人間しか入れない」
こんなに広い場所なのに定員が少な過ぎると日野翠子は思った。
「4つ、押し家から出てゆけるのは1人だけ」
「え? それって」
日野翠子が警戒するとロッキングチェアの娘は苦笑した。
「4つ目には補足がある。但し先に居た方は後から来た方の許可がないと代わりに外に出ることはできない」
「何それ? 私、許可なんてしないよ?!」
ロッキングチェアの娘は薄く冷笑して続けた。
「5つ、押し家の主は外に出て入れ代わると入れ変わった相手の立場をそのまま引き継ぐことができる。ただし」
挑戦的な目で日野翠子を見るロッキングチェアの娘。
「1度入れ変わった押し家の主だった者は、2度と押し家に戻れない」
日野翠子はロッキングチェアの娘と暫くに睨み合う形になったが、やがて日野翠子はソファから立ち上がった。
「帰る。もう来ないから。あんた魔女とかエスパーじゃなくて怪物なんだね」
「この現象を総じてそう呼ぶなら好きにしたらいいわ。またね」
「もう来ないからっ!」
日野翠子は自転車を押して帰っていった。
それから、日野翠子は2日と間を置かず押し家に通う様になった。
互いに名乗らず、ロッキングチェアの娘は身の上話の類いは何もしなかったが、日野翠子は日ごとにポツリポツリと義父への恐怖や、本当は美術部に入りたかったことを語った。
その日、ロッキングチェアの娘がリビングスペースの向こうのキッチンスペースで、昨晩の夕食も今朝の朝食も昼の弁当も母に作ってもらえなかった日野翠子にナポリタンを作ってやりながら、何気なく話し出した。
「主と入れ代わる資格とタイミングの者しかここにはたどり着けないから、もうそんなに貴女には時間が残っていないと思うわ。私の時もそうだった」
「お腹空いた。サラダも付けて」
日野翠子は不貞腐れた顔でそう言うだけが精一杯で、涙が零れるのは隠せなかった。
昨日、義父からキツい香りの香水をプレゼントされた。年頃だから、と。
自分が、この世の普通の範囲の道理では救われそうに無いことを認めたくはなかった。
帰宅した日野翠子は夜、ゴミ箱から拾い直された香水を吹き付けられて、義父に犯された。翌朝、ヒステリーを起こした母に10万円を押し付けられて静岡の伯母の所にゆけと、家を追い出された。
自転車を家に忘れた為、いつものスラックスタイプの制服に大荷物を抱え、10万を握り締めて日野翠子は初めて徒歩で押し家に来た。
日野翠子は10万をロッキングチェアの女に渡した。
「色々大変だろうから、お詫びに。私、日野翠子っていう名前だったんだ」
「押し家の主の名前は代々決まってる。御宿嬰子。いつか再び、産まれ直す名前だと、覚えておいて。それからシャワー室は向こうのカーテンの所。棚の薬箱に一通りの物が入ってる。自分で勝手にして」
シャワー室のまだ日野翠子である哀れな娘の為に、御宿嬰子はコーンスープとカットフルーツ等を用意していると、いつの間にかシャワー室から出てバスローブを着た日野翠子が背後にいた。
「早いね。これで最後だから今、食事を・・」
日野翠子は言葉を遮って御宿嬰子を抱き寄せ、強引に口付けした。殴られていた日野翠子の口からは血と軟膏の味がした。
御宿嬰子は日野翠子を引き剥がした。その顔には怒りの色が強かった。
「代償行為? 貴女ならわかるでしょうけど、私は、この私は! もう2度と私を傷付ける者を許さないと決めているのよ?!」
「別に好かれたくない、もう会えないなら、一番傷付けてやるっ」
日野翠子は強引に御宿嬰子を霧の東屋のソファに押し倒し、これから自分の人生を乗っ取ろうとしている怪物を力の限り傷付けた。
2日後、日野翠子の両親が車のブレーキとエアバッグの不具合による事故で死亡し、幼い弟は施設に預けられることになった。
相続した実家を弁護士を介して早々と売却した日野翠子は小さな単身者用のマンションを購入し、1人で暮らし、そこから赤江町第3中学校に通うことになった。
フットサル部を辞めて演劇部に入った日野翠子は髪を肩まで伸ばしていてスカートタイプの制服を着るようになっていた。
日野翠子は10万円はする普通の中学生としては高価な香水をしばしば使っていて、これも評判となった。
元々特に目立つ生徒ではなかったはずの日野翠子の誰も予期できなかった美貌に、たちまち芸能スカウトが押し掛けるようになった。
この後、華やかな生涯を送る日野翠子の周りでは、一方で事故死や自殺、病死、失踪が多発する様にもなったが、それはもはや別の物語であった。
霧深い様々な品々が宙に浮かぶ奇妙な公園の広々とした東屋で、清潔に管理はされていたが、スラックスタイプの古くさい中学の制服を着た御宿嬰子はロッキングチェアに座りながら、1枚のデッサンを描き上げた。
御宿嬰子は髪は腰まで伸びて、肌は白くなり、背は高いままだが身体つきは華奢になっていた。
もう何年も描き続けていたが、初めて上手く描けたと思えた。
唯一懐かしい娘の姿だった。
ふと、気配を感じた。年月の中で、押し家は御宿嬰子の身体の一部の様になっていた。
公園の入り口に1人の電動車椅子に乗った中学生らしい娘が公園の奇妙な様子に困惑して中に入ることを躊躇していた。
自分にも時が来たと悟った。上手くやれるだろうか? 御宿嬰子は不安を感じながらも手を振るい、宙に浮かぶ品々を左右に除け、道を作り、東屋までの外灯を次々と点けた。
業的な部分も書こうという感じで書いてました。