堀の手
堀の跡の怪異です。ワンコも出てくるかも?
赤江町の駅裏には江戸時代にあった堀がほぼそのまま残っている区画があり、今ではそこは繁華街裏のハローワークへと続く細道に組み込まれていた。
道なので当然水は張っていないが、豪雨や長雨があると破損や目詰まりの多い側溝近くでは踝まで水に浸かってしまう。
堀の跡は殆んどの箇所で土が粘土質になっている為、水捌けも悪かった。
・・小田晶子が働いているピンクサロンに通う道も、いつも湿って苔むしていて、塀や建物が込み入っている所等は黴臭くすらあった。
その日、本来、小田晶子は平日の午後2時から午後8時まで店にいるのだが、昼間来た客が、
「お前は河童に呪われているっ!」
と喚き散らしだして騒ぎになり、気分が悪くなった小田晶子は6時過ぎに早上がりしていた。
あんな客に付きまとわられる様になったら働く店を変えなければならない。
それとももう風俗は引退すべきだろうか? 目的としていた金額までは貯金は貯まっていなかったが、疲労感は年々拭い難い物になっていた。
消毒や洗浄は心掛けているが、20代の頃と比べると免疫が衰えているのか病院に通うことも増えた。半年程前から突然、指名も減った。
月ごとの自分で決めた金額に達することができず、翌月土曜出勤をすることも増えていた。
「潮時、かなぁ」
苔むした夕暮れの通りに立ち止まり、小田晶子はポツリと呟いた。と、道端の小さな石仏が台座の上で横に倒れているのが目に入った。
風化と苔の侵食で殆んど苔まみれの小さなラグビーボールの様になっている石仏だ。
小田晶子は普段、気味が悪い、としか思っていなかったが、流石に倒れたままにしておくのはより不吉な気がした。
増して今日は様子のおかしい男に河童に呪われている、等と言われたところだ。
「ついてないわ」
小田晶子は覆った苔が湿って触り心地も不快な石仏を起こした。起こしてみると台座に円形の溝があるのがわかって、石仏の底をその溝に嵌め込み、固定させた。
汚れた手を除菌シートで几帳面に拭い、ショルダーバッグの中から目に付いた栄養ドリンク1本とのど飴を1つ供え、手を合わせた。
マシになりますように。
そう願った。結果的に少し清々した気分で、小田晶子はその場を立ち去った。
暫く歩くと、出勤の度に憂鬱なモルタルの塀と草地に挟まれた場所に差し掛かった。
草地は通年でロクに手入れされない。塀は苔と黴だらけだった。日当たりも悪く、ムッとして湿気と臭気が立ち込め、電灯の位置も遠かった。
不気味で不潔で時折、蛇やムカデも出る為、痴漢やひったくりの類いは出ないことがせめても救いだった。
それでも小田晶子は、今日ばかりはここを通りたくなかった。手前で立ち止まってしまった。気分も悪いが、それより右の足首の辺りに違和感を感じた。
半年程前に会社員時代の上司が偶然を装って店に来て、長居をし、仕事の後に嘔吐してしまったことがあった。
そのまま陰鬱としてここを通り掛かった時に、右足首を何かに触られた気がして小田晶子は慌てて走って逃げていた。
冷たい体温、ヌメヌメとした感触、古くなった魚や生野菜の様な臭い。
その時は夜で、雨も降っており、傘を差していた小田晶子の視界は悪かった。
その為、野良猫にでも触れられたのかもしれない、生ゴミ等に触ったのかもしれない、或いはストレスからくるチックの様な物なのかもしれない、そう思っていた。
しかし今日、まだ夕方で、曇空だが雨は降っていなかったが、かつて触れられた様に感じた右足首に鈍く痛みを感じ、身体がこれ以上先へ進むことを拒否している気がした。
「嫌、だなぁ」
小田晶子は呼吸を整え、姿勢を正し、カッカッと、痛んだ右足で靴底を湿ったアスファルトに数回軽く打ち付けて、気持ちを入れ直した。
今の生活になるまで、こんな瞬間は幾度もあった。負けてたまるかっ。小田晶子はそう思った。
「よしっ」
小田晶子は一際暗い、湿ったモルタル塀と荒れた草地に挟まれた道へと歩き出した。家に帰らなくてはならない。
歩いて、歩いて、歩いて歩いて・・。小田晶子は足早に湿った道を歩き続けた。すると、
「・・え?」
いつまでも、モルタル塀と草地に挟まれた道を抜けない。振り返ると塀と草地の前の通りが遥か後方に見えた。
そんなワケがなかった。潰れたクリーニング工場のモルタル塀は50メートルもなかったはずだった。
「痛っ」
また右足首、それもさっきよりも強い痛みを感じた。更に、
コポ、コポコポッ、コポコポコポ・・・
塀のアスファルトとの接地面から、草地の根元から泥水が泡立つ様にして染み出してきた。
「何? ・・最悪っ」
意味はまるでわからなかった。だが、よくない事が起こったことはわかった。小田晶子は少なくとも遠くには見えない前方に向かって走り出した。
右足首は痛み、重かったが、構ってられない。小田晶子は走った。道に悪臭を放つ泥水が溜まり、水溜まりを走る様になっていった。
塀と草地の果てには中々近付けなかったが、少しずつ距離は縮まっていた。果てを遠ざける現象よりも自分の走る力の方が強いと小田晶子は感じた。だが、
「堀ヲ枯ラシタナ」
ガラス板を掻く様な耳障りな声がして、右足首を強く、はっきりと、掴まれた。
冷たい体温、ヌメヌメとした感触、古くなった魚や生野菜の様な臭い。半年程前と全く同じ、いやより鮮明な不快な何者かの接触だった。
「ひっ」
見下ろすと、一瞬、右足首に大蛇が喰い付いている様に見えが、それは手だった。水掻きの付いた子供の様な小さな左手。
質感は蛙や魚に近かった。その手は、今や湿地帯に見える草地の奥から長々と伸びてきていた。
草地の奥には青く暗い蝋燭の灯りに似た光が2つあった。それは何者かの両目だった。
「殿ニ何ト申シ上ゲラレヨウ」
それは沼と化した草地を掻き分け、小田晶子の元へ近付き始めた。
「嘘っ? 何でこんな・・」
子供の手の様でも足首を掴むそれの握力は凄まじく、とても振りほどいて再び走ることはできなかった。
「赤江ノ城ハ落チテハオラヌッ!」
「城?」
赤江町には戦国末期まで城があったが敵軍に敗れ、兵糧攻めの末、焼き討ちにされていた。
「いつの話してんの?! 私は関係無いっ!」
小田晶子は悔し涙を溢した。
「許サヌ許サヌ許サヌ許サヌッ! 堀ハ枯ラサセヌッ!!」
それが唸り、近付く程、道に泥水が溢れ、膝まで浸かった。
「何で、何でいつも私ばかり・・」
足首を掴む握力が増し、ミシミシと音を立て、小田晶子は右足首の骨を砕かれた。
「ああっ!!」
激痛に、堪らず泥水の中に座り込むと、 沼のごとき草地からそれはもう、汚ならしく水苔と水草にまみれた半身を出そうとしていた。しかし、
「アォオオオーーーーンッ!!!」
犬の吠え声が響いた。足首を掴んでいたそれの手がビクリッ、と震え、掴む力がやや緩み、肉までも握り潰される程ではなくなった。
吠え声は小田晶子が走って来た方からした。そちらは遠ざかり過ぎて、もはや数kmは暗い。
その暗がりを、放たれた矢の様に駆けて来る物があった。遠目にはそれは火球にも見えたが、近くまで駆けて来るとそれが筋骨逞しい犬であることがわかった。
但し、鋼の針山の尾、爛々と耀く三つ目を持ち、荒い吐息は炎だった。数珠と勾玉を組み合わせた首飾りをしていた。
もはや濁流となった道の水面の上を、浅い水溜まりであるかの様にして沈まず駆けてくる。
「犬メェッ!!!」
それは草地から右の腕を鞭の様に駆け寄る犬に放ったが、三つ目の犬は針山の尾から無数の針毛をその腕に撃ち込み、ズタズタにした。
「ギャッ!!」
慌てて右腕を引き戻すそれ。
「ガゥウウゥッ!!!」
三つ目の犬は小田晶子の右足首を未だ掴んでいるそれの左腕に燃え盛る大口で喰らい付き、咬み砕いた。
「ギャアアアアアーーーーーッ!!!!」
砕かれた腕は傷口から燃え上がり、それは絶叫しながら消し炭に変えられてゆく腕を引き戻し、バシャバシャと草地の泥水を掻き分け闇の底へと逃れていった。
たちまち、道の泥水も引いていった。 遠ざかっていた塀と草地の前後の端は一気に縮まり、本来の長さに戻った。
小田晶子の右足首に残っていたそれの千切れた左手も傷口で燻っていた火が燃え上がり、やはり消し炭となって消滅した。炎が小田晶子を傷付けることは一切なかった。
三つ目の犬はまだ湿る道の上に座った。
「あ、ありがとう。でも・・お前達は、何?」
犬の目には高い知性を感じさせたが寄せ付けない物もあった。
「狭間に妖しき者。なれど、我が廟を整え、道を清め、水の淀まぬことを心掛けよ。丘上の社に頼るがいい・・」
三つ目の犬は朧な自らの炎に包まれ、消えていった。
・・病院で足の治療を受けた小田晶子は翌日、堀の跡の道の近くの高台にある赤江神社で御祓いを受け、神主に事の顛末を話し、今後の暮らしを鑑みて可能な限りの寄付を託した。
この4日後には働いていた店を辞めた小田晶子は赤江町を去って行った。
神主は堀跡近く住人達からも寄付やボランティアを募り、小田晶子が起こし直した石仏の苔や黴を浄め小さな霊廟に納め、側溝を直し、道の苔や黴も可能な限り取り除き、草地も刈って塩を撒いた。
モルタル塀の通りには街灯も1つ建ち、堀の跡は雨に振り込まれても容易にいつまでも水浸しになることはなくなった。
これ以後、この通りで堀に纏わる人に害為す怪異が騒がれることはなかった。
それでも、梅雨の長雨の夜や台風の夜等は、塩を撒かれた草地から、
ウウ・・ウウウ・・・ッ
と恨みがましい呻き声が響き、生臭い悪臭が漂うことは希にあった。
今回の怪異は戦国時代、堀を強化する為に河童を生け贄にさせた為に死後呪われた赤江士族の重臣、という裏設定です。ワンコは鬼○郎とタイマン張れるくらい強い・・はずっ?!