第8章
このセカイに来てから、康大は獣道レベルの全く舗装されていない藪の中ばかり通っている。
だんだん砂利道がアスファルト道路のように思えても来た。
そのため、リアンが城を出たとたん当然のように藪の中をかき分けながら入って行っても、何ら疑問も抱かずその後をついて行くことができた。
(しかし想像していたとはいえきついな)
康太は斜面を登りながら心の中でぼやく。
国土の大部分を山脈が占めるグラウネシアでは、平地はほとんどない。猫の額のような台地がある程度だ。王都も例外ではなく、街以外で誰か探すこととなったら嫌でも登山をしなければならない。
それも現実セカイにあるような整備された登山道ではなく、獣道すらないような場所を。
康太は歩きながら、はぐれたら二度と元に戻れないだろうなと確信する。
「……やっぱりそう簡単には見つからないっすね」
崖のわずかに開けた場所に到着した時、リアンは言った。
どうやらそこが最初の候補だったようだ。
ここに来るまでかれこれ2時間はかかった。
リアンの最初の発言が脅しなどではなかったことを、康大は思い知らされる。
「それじゃあ次に――」
「待っていただきたい」
歩き出そうとしたリアンを、不意にコルセリアが止めた。
リアンはめんどくさげに振り返る。
よほど早く終わらせたいのだろう。そしてそれを隠そうともしないあたり、性格的にもかなりハイアサースに近い人間に康太には思えた。
そんなリアンには構わず、コルセリアは止めた理由を淡々と話す。
「私が見た限り、大司教猊下はつい最近までここにいたようです」
「どうしてそれが分かるっすか?」
「ここにわずかですが聖油の臭いがします。そこまで臭いが残るものではないですから、今朝方までいらっしゃったのは間違いないでしょう。ですから探すとしたら、このあたり周辺を重点的にするべきかと」
「なるほど」
リアンが感心する。
コルセリアは恐縮しながら、それでも圭阿に対してだけは勝ち誇った顔をした。
「・・・・・・」
そんなコルセリアに圭阿は視線すら合わせない。
根が深そうだなと、康大は心の中で苦笑した。
その後、コルセリアの意見を取り入れ、リアンは周辺を中心に探す。
その途中でまた遠くの山で爆発音が響いたが、リアンがうんざりした顔をしたぐらいで、特に一向に反応はなかった。
康太もチートスキルを持った、中二病の人間になど会いたくもない。
会えば自分がみじめになる。それに今はそういう人種と話が合いそうにない。
圭阿もあまり興味はなさそうだった。
それからさらに2,3時間ほど経った頃だろうか。
一行の視界に空にたなびく煙が目に入る。
現実のセカイなら死ぬほど歩いた感覚だが、今の康大にはさほど歩いた感覚がない。むしろ意外に早く見つかったなと、安堵した。
少なくともここに来るまでの間、命の危険に脅かされることがなかっただけでも上出来だ。
「とりあえず拙者が様子を見てくるでござる。何すぐに戻るでござるよ」
リアン以上に山野に慣れている圭阿がすぐに偵察に出かける。
リアンは一瞬止めようとしたが、声をかける前に姿は消えていた。
それから言葉通り数分して圭阿が戻ってくる。
当然迷っても怪我をしてもいない。
目的地が分かれば、そこまでの行き方は誰に聞かなくとも問題はなかった。
「ご老人が1人焚火をしていたでござる。拙者大司教様の顔を知らない故断定はできませぬが、山賊にも見えずおそらく当人かと」
「そっか、さんきゅ」
康太は普段通り労いの言葉をかける。
すると圭阿は普段と違い、勝ち誇ったような顔をした。
もちろん相手はコルセリアだ。
康太は再び心の中で苦笑した。
まるで自分の庭のように歩く圭阿に先導され山を歩く。やがて話にあった焚火を前にしている老人の姿が、康大にも確認できた。
「遅かったのう。もう少し早く来ると思っておったが」
老人は背中を向けたまま、康大達に向かってそう言った。
康太は身構える。
圭阿は山賊ではないと言っていたが、その背中は聖職者にも見えない。まるで巌のようで、ガンディアセのような歴戦の戦士を彷彿とさせた。
しかし振り返った老人――大司教の顔は歴戦の戦士というより、農夫に近かった。
長いこと外にいたのか肌は日に焼け、顔中しわだらけ、特に目じりが深く、好々爺然としている。少なくとも威圧感を覚えるような人相ではない。全体的な体のつくりももずんぐりむっくりで、頭に巻いているバンダナと合わせ、聖職者要素がかけらもなかった。
それでも、こちらが来ることを予測していたあたり、ただものではない、という雰囲気は康大にもなんとなく感じられた。
康太は視線でリアンにこの老人が大司教がどうか確認する。
リアンはそれに答える前に本人に対して、
「大司教様、ちょっと今日は用が会ってきたっす」
はっきりと呼びかけた。
「なんじゃお前、珍しく真面目に仕事としているみたいじゃのう。儂の案内をしていた時は、自分の趣味に没頭していたくせに」
「趣味じゃないっす、勉強っす。大司教様も人間は一生勉強しなければいけないって言ってたじゃないっすか」
「おうおう、これは一本取られたわい。わははははは!」
大司教は豪快に笑う。
裏が感じられない、素直な笑い顔だった。
ただあまりに豪快すぎて、高位の聖職者からはさらに遠くなる。
「……さて、と。お主らが来るとはわかっていたが、まさかこんなに美人が多いとはのう。長生きはしてみるもんじゃ」
そう言って大司教は目じりを下げ、それこそひひ爺というのが適切ないやらしい顔をした。
ただし、幸か不幸か今いる女性陣にはそれにいちいち反応する人間がいない。
全員が全くの無表情だ。
反応したのはむしろ康太とザルマの男性陣の方である。
「あ、あの……」
「ん、なんじゃ、つまらんのう。それで、儂に用とは大方お主ら2人のことだろう。やれやれ嬢ちゃんの方はまだましじゃが、小僧はひどい面をしておるのう」
大司教の視線が康大とハイアサースに向く。
声をかける前からこちらの存在を察するだけでなく、アビゲイルが施した幻術さえ見抜くあたり、やはり力のある人間であることは間違いないようだ。
普通の人間には、隠してしまえばグロテスクな傷跡も肉球も見えないのだから。
康太はゆっくりと頷いた。
話がゾンビ化に関することになりそうだと察したのか、ザルマがコルセリアに目配せする。
コルセリアはザルマの意を察し、その場から離れようとした。
しかし、それを部外者であるはずの大司教が止める。
「なんじゃ、お主せっかくの美女を追いやるとか、正気か?」
「いや、正気と言われましても……」
ザルマが困った顔をする。
実際困っているわけだが。
「ま、その子と他の連中の間には壁が見えるから、大方内緒にしておきたいというとこじゃろう。しかし、儂はせっかくなら美女に囲まれながら話がしたい。その子が帰るというなら儂は話は聞かん」
「じゃあ別に美女じゃない自分は用が済んだんで帰っていいっすか? その子がいれば帰り道も問題ないっしょ」
「うむ、そうじゃな、気をつけて帰るがよい」
「……正直ちょっとは止めてほしかったっす」
リアンは肩を落としながら去っていく。
その小さな背中がより小さく見えた気がした。
さすがに悪いと思ったのか、大司教が慌ててリアンを止める。
「すまんすまん、冗談じゃ。お主も十分可愛いぞ」
「なんかとってつけたような言い方っすね」
「否定できんのう」
「殺すぞジジイ」
「怖……お主曲がりなりにも公爵の娘じゃろ」
「マジか」
リアンの大司教を大司教とも追わない態度にも驚いたが、それ以上に彼女が大貴族の娘であることに康太は絶句する。
大司教以上に特権階級の人間には見えなかった。
むしろこの2人はその立場に見合わぬ立ち居振る舞いだからこそ、こうして軽口が聞ける関係なのかもしれない。
「それで、お嬢ちゃんをここらか帰すのかな?」
「……わかりました、コルセリア、ここにいていいぞ」
「御意」
コルセリアは申し訳なさそうにうなずく。
文句を言っても許される状況でこういう態度をとるあたり、根っからの使用人気質なのだろう。
康太もさすがにこれには同情したくなる。
本人がどう思っているかは別にして。
「だが先に言っておくが、お前が何を知ったとしても、俺が旅を止める気はないしお前にそれを言う資格もない。それだけは理解しておけ」
「ぎょ、御意……」
「なんじゃ、お主やけにその嬢ちゃんにつらく当たるのう。暴力主か?」
「ただ過干渉してしてほしくないだけです。できることなら今すぐ帰ってほしいぐらいです」
「こんな美女に傅かれててそんなこと言うとは、つまらん男じゃのう。そこの金玉は飾りか?」
大司教がこれ見よがしに溜息を吐く。
康太もザルマの気持ちはよくわかっていたが、心情的には大司教に近かった。
腹違いととはいえ、巨乳美女にあそこまでべったりされたら、どこかで間違いを起こしていたかもしれない。
「それより大司教猊下」
矢継ぎ早の俗物的な発言に当初あっけにとられていたハイアサースが、ようやく恭しい態度を取り大司教に話しかける。
そもそも彼女はメンバー内で唯一の聖職者だ。
一番そうしなければならない人間である。
康太も空気が変わったことを理解し、表情を改める。
「ご承知の通り私とコータは問題を抱えております。改めてお願い申し上げます。ぜひ我ら2人にお慈悲を。ザルマ」
「あ、ああ」
珍しくハイアサースに指示され、ザルマはジェイコブからの書状を恭しく大司教に渡す。
その間ハイアサースは地面に膝をつき、深々と首を垂れていた。
康大にもそれが高位の聖職者に対する正式な対応だと理解でき、同じような態勢で頭を下げた。
2人の態度に大司教はなぜかつまらなそうな顔をする。
まるで知り合いに金の無心をされた金持ちのように。
本当にうっとうしそうな顔だ。
「やめいやめい。こんなものもらわずとも、話ぐらい聞いてやるわい。それより、その、なんじゃ、こう、あるじゃろ?」
まさか、金の無心でもされるのか。
そう思いながら康太が顔を上げると、自分の考えが間違いだったことに気づかされる。
現実はもっと低レベルで、バカバカしい。
大司教は両手を突き出してワキワキする――いわゆるおっぱいを揉むポーズをしていたのだ。
これには女性陣のみならず男性陣さえ呆れる。
ハイアサースなど「はぁ」とあからさまな溜息を吐いた。
「つまり拙者たちの胸を揉ませればいいのでござるな。では好きなだけどうぞ」
圭阿はそう言うと、自分のごくわずかな隆起を大司教の前に突き出す。
ザルマは絶句したが、大司教はあまりうれしそうな顔をしなかった。
その理由は康大にはよくわかった。
「悪いがお嬢ちゃんの胸では……」
「まあお嬢ちゃんの胸じゃ揉む価値ないっすよね」
「お主は自分のことを棚に上げてよくそこまで言えるでござるな」
「自分の方がギリ勝ってると思うっすから」
「ほう……」
圭阿とリアンが見えない火花を散らす。
おっぱい評論家の康大からすれば、大きさは同程度、争うこと自体ばかばかしい気がした。
「できるならそうじゃのう、そこのお姉ちゃんに頼めんかの」
おずおずと切り出した大司教の視線の先には、ハイアサースがいた。
確かに女性陣の中ではハイアサースが最も胸が大きく、自分が大司教の立場でも同じ選択肢をしただろう。
しかし、婚約者としては平静でいられない。
康太はあからさまに不機嫌そうな顔をする。
ただ当人は別にそんなでもなかった。
ハイアサースはため息を吐くと、豪快に胸当てを外す。
例によってばるん! と音がしそうな勢いで、その胸が締め付けから解放された。
初めて見るリアンとコルセリアは、その勢いに目が点になる。
そんな2人を取り残したまま、平然とハイアサースは言った。
「じゃあとっとと揉んでください」
その様子には恥じらいはない。
ただ面倒くさいという感情と嫌悪感だけがあった。
ハイアサースの堂々としすぎた態度に、逆に大司教が面食らう。
「その、言い出しっぺの儂が言うのもなんじゃが、ちょっと態度がおかしくないか?」
「私は故郷の村でシスターをしています。老人ばかりの村で大司教猊下のようにやたら胸を触りたがる老人もいました。今更年寄りに胸を揉まれる程度でグダグダ言うほど、おぼこではありません」
「・・・・・・」
大司教は心の底からがっかりした顔をした。
どうやら赤面したり、取り乱したりするハイアサースが見たかったらしい。
ただ、それでもいちおう胸は揉んだあたり、スケベ根性は筋金入りのようだ。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・もう良い」
それなりの回数を揉んだ後、大司教はため息を吐きながら手を離す。
その間、ハイアサースは全く表情を変えなかった。
ただただ汚物でも見るような眼で、自分より背の低い大司教を見下ろしていた。
康太もここまでの対応をされると、寝とられたという感覚があまりない。ほんのわずかだが、大司教に同情する気持ちさえあった。
「……こんなことなら、おぬしたちが女ならよかったのにのう。反応に関しては圧倒的にお主らの方が面白かったぞ」
「そりゃどうも」
ここまで下世話なことをされると、康大もあまり慇懃な態度はとれなくなる。初対面の時に感じた、ただ者ではないという評価も、今ではすっかり地平線の彼方に走り去ってしまった。
「それで大司教猊下。こちらが約束を果たした以上、猊下にも約束は守っていただきますよ」
「仕方あるまい。今までの人生の中で、最もつまらないもみもみだったのう……」
がっくりとうなだれながら大司教は答えた。
そんなダメ老人を見ながら、同じおっぱい星人でもこうはなるまいと、康大は心に誓った。
「さて、と。それでは本題に入るがよいかな?」
「・・・・・・」
康太は少し考えてから、リアンに視線を送る。
コルセリアはぎりぎりで認められても、さすがに仮想敵国の人間であるリアンには問題があった。
その点に関しては康大も譲れないし、なによりザルマが首を縦に振らないだろう。
「申し訳ありませんが大司教様。リアンだけはさすがに認められません。彼女はグラウネシアの人間です」
「まあ実際、サムダイ様からスパイするように言われてますしね。いや、こんなことなら戻ってくるべきじゃなかったっすよ」
何ら悪びれることなくリアンが答える。
ただ職務に対する低い忠誠心から、再び去ることには抵抗が無いようだった。
しかしなぜか大司教は首を横に振る。
「なにもお主らを困らせるためにそう言っているわけではない。あの時はおっぱいに目がくらみ、帰ってもいいと言ったが、考えてみればリアンは必要な人間なんじゃよ。むしろリアンがこの場にいるのは、お主らにとって幸運であった。これぞまさに女神のなせる御業」
そう言って大司教は印のようなものを結ぶ。
その姿はひどく様になっており、康大もようやく彼が聖職者であることを多少は認められた。
「リアンが必要……ですか?」
「うむ、間違いない。お主らがこれから言おうとしていることは、おそらく儂だけの力ではどうにもならん……いや、むしろリアンに頼るところが大きいじゃろう」
「そこまで言うなら。ただ正直グラウネシアに私達のことが筒抜けになるのは……」
「儂も事情はだいたい察する事はできる。確かにお主らの立場なら問題があろう。ただリアンはこれで腹芸ができる女じゃ。リアンよ、ここは儂の顔を立ててうまくごまかしてくれんか?」
「……大司教様の頼みならサムダイ様の頼みより優先されるっすね。まあ、自分も皆さんが何でここまで来たのか、それなりに興味はあるっす」
「ではこれで問題ないな」
「・・・・・・」
本音を言えばリアンは未だ信用できない。
苦楽を共にしてきた仲間ではないのだ。
だが、拒めばやはり大司教が協力してはくれないだろう。
康太は不承不承頷いた。
「ではまず確認からじゃ。何度も言うが年寄りはせっかちでのう。おっぱいシスターのお主、名はなんという?」
「ハイアサース・ゼオ・シュヴァンガウと申します。イオ・ビトム・ミルシュバンの末裔でカソ村でシスターをしております」
「・・・・・・」
康太はハイアサースのフルネームを久々に聞くと同時に、彼女の故郷の村の名前を初めて知った。
さすがに過疎化が進んでいる村というわけでもないだろう。
「あの伝説の騎士の末裔か。どおりでシスターの癖に鎧なんぞ着ていると思った。じゃがまあそれはいい。ハイアサースよ、結論から言えばお主もう死んでおるぞ」
『――――!?』
愕然としたのはコルセリアとリアンだけだった。
仲間たちは表情一つ変えない。
もちろん康大自身もそうだ。
ハイアサースが死んでいるのは分かりきった事実である。
コルセリアとリアンを残したまま、大司教は話を続ける。
「じゃがさっき胸を触ってみたが、心臓はしっかり動いておった」
「ただ下心から胸を触ったわけじゃないんですね」
「当たり前じゃ!」
康太の言葉に大司教は殊更に否定する。
ただ完全に否定したわけでもなかった。
「まああんなデカパイを見たら、触ってみたくなるのも人情じゃが」
「結局エロジジイじゃねえか」
「人間下心が無くなったらおしまいじゃ。それで話は戻るが、肉体と違いオーラは確実に死者のものじゃ。何より魂が明らかに乖離しておる。しかし、本来天に還るべきその魂はずっと肉体に居座って……というかまとわりついておる。全く訳が分からん状況じゃ。ただ推測は色々できる」
「教えてください!」
ハイアサース本人より、康大が大司教に詰め寄る。
責任感から自分の体以上にハイアサースの体が気になった。
大司教はそんな康太を、年相応の深く優しい目でただ見つめる。
その若さを愛おしむかのように。
「まず嬢ちゃんよ。お主自分自身に神聖魔法を使ったことはあるか?」
「はい何度か。それで今の体を維持しています」
「となると、お嬢ちゃん自身の魂は闇に落ちておらん。神聖魔法は悪霊には使えんからな。じゃが乖離した魂が死体を動かす場合、それはほぼ確実に悪霊の仕業じゃ。また、肉体から離れさ迷っている魂が悪霊化しないこともあり得ん。となると、考えられる可能性としては、魂が肉体の檻から出られず、さりとて生者の様に同化もできずに、まるで魂が肉体を被り物にして動かしているような状態ということじゃ。死んだように見えるのもそのためじゃろう」
「着ぐるみみたいなものか……。それじゃあいったいどうすれば!?」
「肉体と魂をつなぐことを阻害している何かを排除するしかあるまい。嬢ちゃんは神聖魔法で体を維持しているというが、あまり良い傾向ではない。そのような理に反することを続けていれば、やがて魂も消え去るじゃろう」
「なるほど、つまり急がなくてはいけないということですか」
ハイアサースは対照的にのんびりとした口調で言った。
彼女自身、ある程度達観している節があった。
一方婚約者の康太はのんびりとはしていられない。
「じゃ、じゃあ具体的にどうすれば!?」
「それを言う前に、まずなんでこうなったか説明してくれんかの? お主らは儂のことを何でも知っているように思っているようじゃが、儂なんぞただ山が好きなだけのエロ坊主にすぎんぞ」
「それは……まあそうですね」
「否定はせんのか」
「ははは……」
康大は愛想笑いを浮かべる。
とにかく大司教相手だとついつい口が滑ってしまう。
これもある意味で人徳と言えるのかもしれない。
(とはいえ……)
どこまで話そうか康大は悩んだ。
ハイアサースの件でもすでにいっぱいいっぱいだ。
この上、たとえ大司教相手でもあまりあけすけに話せば、非常に問題がある気がした。
そんな康太の心情を察したのか、大司教が諭すように康大に言った。
「何が大事かはおそらく小僧にはわからんだろう。本当に治したかったら隠さずすべて話すしかない。そしてここで小僧が話したことは、儂は絶対に誰にも話さん。その誓いは当然リアンにも結ばせる。よいな?」
「と いうことは聖約を結ばせる気っすね。まあいいっすけど」
「せいやく?」
康太は首をかしげる。
それがどれほどの拘束力を持つのか全く分からなかった。
「聖約とは女神に対する誓いだ。破れば女神の加護を失うことになる」
康大の状況を最も理解しているハイアサースが説明する。
ただそれだけではまだ話は通じなかった。
「それってまずいのか?」
「そうか、お前はそこまで知らないんだな。女神の加護を失った瞬間、人は悪しきものに対して無防備になる。自身の魔力がなければ、一日で発狂するだろう」
「何それ怖い。ていうか信仰心もない上にすでにゾンビの俺には、最初からない気が……」
「いや、気づいていないだけでお前にもある。尤も、私が信奉している女神とは違うようだが」
「・・・・・・」
康太の脳裏に勝ち誇ったようなミーレの顔が浮かぶ。
鬱陶しいので一瞬で頭から振り払った。
「……そこまでおっしゃられるなら私に異存はありません。ではお話しします」
「うむ。だがその前に誓約を結んでおこう。あとあと約束を反故される心配があっては、口も滑らかには動くまい」
そう言って大司教は左手を胸に当て、右手を空に差し出す。
「大いなる空の女神よ。ご照覧あれ。貴方の子羊はこれより貴方の庭において貴方の掌の元契約を結びます。ご照覧あれ、ご照覧あれ……」
大司教はそれだけ言うとリアンの方を向く。
リアンは珍しく神妙な顔をし、指を顔の前で結びながら跪いていた。
「私とこの者は以後、この場で見聞きしたことを決してグラウネシアの者に吹聴しません。その契約を天におわします貴方に誓います。然らばせめてわずかばかりの慈悲と寛恕で見守ってくださいませ。ご照覧あれ、ご照覧あれ……」
そんなリアンの頭に右手を当て、大司教は目を瞑りながら言った。
そして、数十秒後手を離し、ゆっくりと目を開ける。
「これで大丈夫じゃろ」
「え、あ、はい」
呆気にとられながら見ていた康太は、反射的にそう答えた。
やっていたことは単純で簡素だが、見ていると確かに胸に中に何か神々しい気持ちがあふれてくる。
大司教という役職も、今ならほぼ100%信頼できた。
その一方で、まだ気がかりなこともあった。
「その、おせっかいの上今更なんですけど、その気もないのにぽろっと口を滑らせたり寝言とか酔った勢いとかで話したら……」
『・・・・・・』
全員の視線が康大に集まる。
そこにある感情は驚きだ。
ただ、康大の発言にはっとなったと、というわけではなく、そんなことも知らなかったのかという呆れであったが。
「康大、聖約を結べばそんなことはあり得ん。聖約の力で必ず口がふさがれる。話すときは自ら聖約を破る意思を示したときだけだ」
「そ、そうなのか」
康太はそれを聞いてようやく安心できた。
「しかしお主は本当に何も知らんの。まるで子供と話しているようじゃ」
「……その点も含めてどういう状況でこうなったかお話しします」
すべてが片付いたことで、秘密を話すことに対する障害はなくなった。
康太は頭で今までの出来事をまとめながら、ゆっくりと話し始めた――。