第6章
「あれが王都かな」
馬車の窓から顔を乗り出し、康大は言った。
その景色はまさに山城そのものだった。
国境を越えてから全体的に上りだったが、王都に近づいた辺りからその角度は急になり、王都は道の終点にあった。
中心に城、その周りに街、そして周辺を城壁と構造的には今までいた王都と同じだ。
ただ、その周りは森か崖でであることと、山地に作られたため規模が大分小さい点は違っていたが。
予想通り、馬車は城壁の門で止められる。
ただ、あれこれ詮索されることはなく、康大が書状を見せたらほぼ素通りであった。
今回はコルセリアも我を通して自分だけで解決しようとはしなかった。
衛兵の幾分恭しい対応を受け、馬車は城壁を抜ける。
グラウネシアの町並みは康大の目から見て、かなり簡素……というか粗末だった。
木材が豊富なのは明らかなので、ほとんどが木で作られ、どれも小屋に毛が生えた程度だ。
地面も石畳は敷かれておらず土で、コルセリアの魔法がなければかなり尻が痛かっただろう。
たださすがに城には石やレンガが使われ、近づかなくとも堅牢な建物であることは分かった。
街を少し進むと、跳ね橋がかかっている城の前で再度馬車を止められる。
康大が件の書状を渡すと、受け取った衛兵の1人が今度はそれを城の中にまで持って行った。
その間、康大達はそのまま待たされる。
すぐに終わると思ったが数分経っても誰も応対に現れず、仏頂面の衛兵と顔を合わせるのも気分が悪かったので、康大は一度馬車の中に戻る。
台車には仲間たちと御者台から来たコルセリアがいた。
「如何でしたか?」
「うん、ああ問題ない……はずです。ただ、最終的にアムゼン殿下がどういう事を書いたか……」
康大はため息を吐く。
ジェイコブが申請した通行許可の申請であるが、あの後どういう経緯をたどったのか、最終的にアムゼンの元までいっていた。通例ならもっと下の部署や、隣接している領主のところで裁可される事務であるにもかかわらず。
その際に、「せっかくだから」と頼みもしないのに康大は正式なアムゼンの使者扱いとなり、こうしてわざわざ王城にまで出向くことになったのである。
「殿下に限って落ち度はないでしょう」
アムゼンの性格の悪さを知らないコルセリアは、康大の言葉を額面通りに受け取る。
ザルマの無駄な真面目さも、彼女由来なのかもしれない。
一方、冗談が通じるようになった彼女の主は、康大の真意を過たず汲み取った。
「通れるか、ではなく余計なことが追加されたか心配か」
「まあな。もし内乱の件を糾弾するようなことでも書かれてたら、クソ面倒なことになるし」
「まあたとえそうだとしても、グラウネシアもあの件を公にするつもりはないだろう。笑顔のままお互いテーブルの下で蹴り合うのが政治だ」
「俺には絶対に無理な世界だ」
元のセカイでさえ対人能力に自信のない康大。
勝手が分からない異セカイならなおさらだ。
こういう問題はこれからもザルマに丸投げしようと、改めて心に決める。
「とりあえずこれからはぼっちゃまが交渉の前面に立たれるのでしょうか?」
「……立たんわ」
相変わらず変わらない呼称にうんざりしながら、ザルマは答える。
「今回の責任者はあくまでコウタで、俺はその付属物にすぎない。何より現時点で正式に叙爵されていない以上、階級的にもコウタの方が上だ」
「は?」
コルセリアではなく、康大がザルマの言葉に呆気にとられる。
ザルマの正式な爵位は知らないが、少なくとも譜代の騎士であるザルマの方が流れ者の自分より階級ははるかに上のはず。
一方、康大が異邦人であることすら知らないコルセリアは、対等の口調で話している康大ならばそれぐらい当然だとさえ思っていた。
ちなみにハイアサースにとってはどうでもいいことであるため、理解しているような顔をしながら完全に話を聞き流していた。
「なんだその顔は。お前ひょっとして聞いてなかったのか?」
「うん、全然」
「……はぁ」
ザルマが呆れる。
今のところ、ザルマはこのセカイにおいて面と向かって呆れられると二番目に精神的ダメージが大きい人間だ。
「ガンディアセ殿が話していただろう。いくら何でも殿下の使者として赴く者が無爵では都合が悪いから、空いた爵位を特例で与えると」
「聞いてない」
康大は断言する。
ガンディアセが礼儀作法という名の説教をしている間、康大は心も耳も閉ざし、自分は石だと思い込んでいたのだ。
「あの時そんな話をしてたのか……。俺のATフィールドがあの時の話はなかったことにしてた。顔超怖かったし」
「お前は本当に……いいか――」
ザルマがそこまで言いかけた時、不意に馬車の扉が叩かれる。
康大が特に警戒もせず反射的に扉を開けると、そこにはいかにもな貴族風の男が立っていた。
男は馬車の中にいる人間たちの姿を確認すると言った。
「貴方方がコウタ子爵御一同の方々ですね」
「・・・・・・」
どうやら与えられた爵位は子爵だったようだ。
このセカイと現実のセカイが同じ制度かは分からないが、もしそうなら五段階――正確にはもっと細かく、場所や時代によっても変わるが――の中で下から二番目だ。
康大は中二病にありがちな偏った趣味嗜好から、爵位に関しては最低限の知識を持っていた。
そのため、それがどう考えても自分にとって分不相応なものだとも理解できた。
(その下の男爵でも十分、ていうか騎士でも十分すぎるぐらいだろ……)
内乱を秘密裏に鎮圧した功績より、自分の血筋や能力からそう思えてならなかった。
そんな康大にかまわず男は話を続ける。
「本来なら王城で歓待しなければならないところですが、いろいろ事情がありまして、離れでのお話になりますがよろしいですかな?」
「はい」
康大は素直にうなずく。
どこでするにせよ断る理由はない。
それにこの貴族然とした男が、それを許すようにも見えなかった。
服装は以前康大が着ていたようなぼんぼりのズボンに白タイツ、さらにちょび髭にてっぺんだけ禿た頭と情けないが、その目力は自分とは比べようがない。終始にこやかな表情を保っているが、有無を言わせない圧力があった。
おそらくそれなりの修羅場をくぐっているのだろう。
外見通りのおバカ貴族ではない。
康大もこれまで様々な人間と接し、それなりに人間の質のようなものが分かるようになっていた。
なおこの時の康太の格好は、ザルマのファッションセンスに任せた貧相ではないが現代日本的にもおかしくない、フォーマルなスーツのようなものを着ていた。もうタイツは二度と履きたくない。
「ではコウタ子爵以外の方は別の場所に――」
「いえ、この場にいる全員が使節の一員です。私だけ行くことはあり得ません」
今度の申し出はすぐに断る。
このセカイ……に限らず、それなりの身分にいる人間がお供一同で重要な会見に臨むことはない。現実セカイでも運転手が重要な取引の場にいるなど、考えるまでもなくおかしい。
だがここは仮想敵国、これから何が起こるか分からず、会合の席で突然血なまぐさい事態に発展してもおかしくはないのだ。
自分の力を正確に評価していた康大は、1人で交渉の場に臨む気は毛頭なかった。
康大の頑なな態度を見て言うだけ無駄と判断したのか、貴族はそれ以上何も言わずに、そのまま全員を先導する。
離れと言っても城の中にあるらしく、5人は城門は徒歩でくぐった。
馬車は城門近くにあった馬場に繋がれる。
城門を越えた城内は外から見た通り、こじんまりとしていた。
まず建物の数が少なく、通路も狭い。噴水のような文化的設備もなかった。
おそらく中央にある一際壮大な建物が王城だろう。
「こちらへ」
康大が案内された離れは、城壁に囲まれた城の端のあたり、粗末な小屋のような建物だった。
それだけで康大は、自分達がそこまで重視されていないことがよく理解できた。
尤も、それは康大にとってマイナスどころかプラスだ。
アムゼンの書状から重要人物と思われ行動を監視されるより、軽視されて放っておかれた方がはるかにいい。
そう思いながら小屋という名の離れに入ると、康大は自分の考えが甘かったことを思い知らされた。
「どうぞ」
貴族の男に勧めらた椅子は建物の外見からは想像がつかないほど豪華で、中央にある円卓も高級木材が使われているであろう重厚かつ壮麗なものだった。他の調度品もすべてが豪華であり、決して粗略に扱われいるわけでないことを、康大はすぐに理解する。
ただし、歓迎されているわけでないことも明らかであったが。
円卓の向かいに男が座り、仲間たちは康大の脇に座る。
そして部屋の壁沿いにはずらりと騎士……というより傭兵のような恰好をした戦士達が。
とてもではないが、お互い笑顔で談笑する空気ではなかった。
そのうちの1人がそっと扉の前に移動し、すぐに軟禁状態になる。
圭阿とコルセリアは席を立たずに、そっとそれぞれの獲物に手を伸ばす。
入って数秒でお互いの臨戦態勢が完成していた。
(マジかよ……)
結局予想していた中でかなり悪の部類に入る歓迎に、心の中で大きなため息を吐いた。
ちなみに最悪なのは会った瞬間殺されるというケースだ。
「さて、事情があるとはいえ、使者殿をこのようなむさくるしい部屋に招待するのは心苦しいのですが……。せめて現状できる精いっぱいのおもてなしを」
そう言って貴族の男は張り付いたような微笑をたたえたまま、小屋の奥の扉に向かって手を叩く。
するとそれを待っていたかのように何人かの侍女が陶器のコップに入った薬湯のようなものを、いくつか持ってきた。
「我が国自慢のお茶です。見ての通り山に囲まれていてこれといったものはありませんが、茶葉や薬草には事欠かないので。さ、冷めないうちにどうぞ」
「・・・・・・」
康大は無言でお茶の匂いをかぐ。
日本茶というよりジャスミンティーに近い匂いで、自慢というだけあって清涼感のある気持ちのいい芳香だった。
もし何も知らなかったならただの歓迎と思えただろう。
しかし康大は、あの内乱でファジール草という毒草が大きな意味を持っていたことを知っている。そのファジール草が最悪まじっているかもしれない。
貴族の目が歪にゆがみ、芝居ではなく本心から楽しそうな顔になる。
どうやらお互いの事情をよく理解しているようだ。
その目が、お前のような貧相な人間には、怖くて飲むことなどできないだろう、と言っていた。
(大方そこから会話のイニシアチブでも握ろうとでも思ってるんだろうけど――)
康大はそう思いながら「いただきます」と言い、ゆっくりとお茶を飲む。
事前に用意したおかげで温めだったため、ほぼ一息で飲み干した。
「……確かにおいしいですね。今までの疲れが飛ぶようです。まあ無駄に元気になっても困りますけど」
そう遠回しに嫌味を言いながら、わざとらしく空になったコップを見せた。
そもそも自分にはほぼあらゆる毒が効かない。
最初から毒に関して警戒する必要などないのだ。
康太は勝ち誇った気持ちになった。
康大の反応に貴族の眉がわずかに上がる。
その変化にはハイアサース以外の仲間達も気づき、彼らは康大同様内心で「ざまあみろ」と思った。
「……それはよかった。それで、アムゼン殿下の書状には詳しい話はコウタ子爵からとの事でしたが……」
「そ(んなふうに書かれてたのか)……うですね。えっと……」
「私、サムダイと申します。以後お見知りおきを」
慇懃かつ心のこもっていない挨拶を貴族――サムダイがする。
それをいちいち指摘するほど康大も幼稚ではない。
「(あいつ軽薄そのものだな)」
ただ隣のハイアサースはそうでもなかった。
内緒話にしては大きい声で康大にささやく。
それはサムダイも、周りの戦士達にも聞こえただろうが、誰も表情すら変えなかった。色々と訓練はされているようだ。
そしてお互い何事もなかったように話を続ける。
「単刀直入に言います。大司教様に取り次いでもらえないでしょうか」
「要件をお聞きしても?」
「申し訳ありませんがお話しできません。ただし、大司教様と親交があるジェイコブの書状はあります」
康太はザルマに目配せし、ジェイコブに書いてもらった紹介状をそっと見せる。
サムダイはふむ、と言っただけで、内容に関しては詳しく聞かなかった。
このあたりは分を弁えているのだろう。
「ご用件のほどは分かりました。ただしそれは少し難しいですな」
「何か特別な事情があるのですか?」
「いえいえ」
サムダイが首を振る。
「単純にどこにおられるか分からないのですよ。大司教猊下は普段から街にも城にもおられません。あの方はその、何というか野放図なところがあり、一か所にはとどまっておられない方で……」
「ではグラウネシアにいないかもしれないのですか?」
「いえ、国内にいることは確かです。曲がりなりにもご要人ですから、陛下に何の挨拶もなく国を出ることなどありえません。おそらくどこか山にこもって、薬草探しでもしておられるのかと思います。……ああ、そうだ」
サムダイは手を叩いて戦士の1人を呼び、指示を出して離れの外へ向かわせる。
まさか援軍でも呼びに行ったわけではないだろう。人数はすでに十分いるし、これ以上人が増えたら戦士たちまで椅子に座る羽目になる。
康大は特に警戒もせずにそれを見送った。
サムダイが場をつなぐようにお茶のお代わりを勧め、康大がそれを飲んでいると、先ほど出て行った戦士ともう一人の人間が部屋に入ってきた。
ちなみに康大以外の人間は念のためお茶には口をつけていない。
ハイアサースは当然のように飲もうとしていたが、それは康大が止めた。
「え、あ、え?」
連れてこられた人間は、康大より少し下ぐらいのそばかすが目立つ小柄な少女だった。飾り気の一切ないぼろぼろの布の服を着て、ぼさぼさの髪をしており、とりあえず貴族には見えない。美少女とは到底呼べないが、何か安心感を抱かせる顔をしていた。
(……Aかな)
また体形的には康大の興味を引くような人間ではなかった。
「彼女はリアンと言って、大司教猊下の世話役のようなものをさせております。彼女が大司教猊下の居場所については最も詳しいでしょう。どうぞ好きなようにお使いください」
「え、あー……」
リアンが呆然とした顔をする。
どうやらここに連れてこられた経緯を全く聞かされていなかったらしい。
あの短時間ならそれも理解できたが、察することができるような勘の鋭さも持ち合わせていないようだ。
その場にいるほぼ全員の視線を浴びしばらく気まずそうにしていたが、やがて、
「なんかいまいちよく分からないっすけど、リアン・ロックです。よろしくお願いします」
そう適当に言って頭を下げた。
「(なにか頼りない奴だな)」
ザルマが康大にしか聞こえない声で囁く。
同じ感想だった康大は微かに頷いた。
リアンの態度はサムダイにしても予想外だったのか、わずかに頬に汗が流れる。
ここまでざっくばらんな態度をとるとは想像もしていなかったのだろう。
サムダイはリアンを呼び、何か耳打ちする。
それがくすぐったいのか、リアンはいちいち「うひゃひゃ」と下品な笑い声をあげた。
「・・・・・・」
ここにきて康大は何かいたたまれない気持ちになり、サムダイに同情した。
そして用件が済んだ後、
「あー多分無理っすね」
リアンがはっきりと言った。
サムダイはリアンを叱責するのではなく、初めて感情を隠さず深い溜息を吐いた。
どうせスパイとして情報を探り出すよう頼んだのだろうが、どうやらリアンには重荷だったらしい。
「……ところで、他にも何か私たちにできることはありませんか? 可能な限り協力いたしますが」
サムダイは気を取り直し、話を変える。
「あの、あたし帰ってもいいっすか? まだやることがあるんで」
『・・・・・・』
その直後、空気を読まずにリアンが言った。
確かにこれ以上リアンに付き合っていたら、大幅にペースが狂いそうだ。
康大は苦笑した。
――そう思いながらも言うべきことはしっかり言うが。
「では、この国にあるという素晴らしい図書館をぜひ見せていただけないでしょうか?」
「王宮図書館ですか……なるほど」
サムダイは顎に手を当てる。
初め康大は素直にトーガ草について聞こうかとも思ったが、そこは止めておいた。
グラウネシアの人間に知られれば、先に採取され、交渉の材料にされるかもしれない。
その点図書館の閲覧だけなら、こちらが欲しいものを知られる可能性も低い。
「申し訳ありませんが、王宮図書館は限られたごく一部の方しか入れない場所、さすがにその頼みを聞くことはできません」
「あたしも入れないっす。入りたいです」
「お前は黙ってろ」
いい加減サムダイも無視できなくなったのか、はっきりとそう言った。
かなりきつい視線で言っていたが、言われたリアンはどこ吹く風といった様子だ。
頼りない見た目でも、メンタルは康大と比較にならないほど強いらしい。
「……そういういわけで、他には何か?」
「それじゃあどこか宿はありませんか? さすがに今日はもう時刻も時刻ですし」
康大が王城に到着した頃はもう夕方になっていた。
今から山を探し回れば、野宿になることは確実だ。
グラウネシアにまともな宿があるか分からないが、少なくとも野宿よりはマシだろう。
「それなら全く問題ありません。今すぐにでも宿泊場所をご用意できます」
「それなら厚意に甘えることにします。あと――」
康大はザルマに目配せする。
不意に視線を振られたことで、ザルマは驚いたような顔をした。
「お前から何か聞きたいことはあるか?」
今まで康大はゾンビ化に関わる話だけで、政治的な話は一切していない。
一方、ザルマはアムゼンの陪臣というれっきとした立場がある。
それにもかかわらず話を勝手に切り上げるのは、ザルマに悪い気がしていた。
康大もこの頃になると、ザルマの立場を慮れるようになっていた。
「……いや、今のところはない」
ザルマはそう言って首を振った。
急には思いつかなかったのか、本当に政治的な役目が何もなかったのかは分からないが、康大は頷き、サムダイに「ではお願いします」と言って席を立った。
「それではこちらに」
5人は離れを出、サムダイが用意したという宿泊場所に向かう。
それまで扉をふさぐように立っていた戦士も脇にどき、康大はようやく解放された気がした。
サムダイが案内したのはやはり城にある施設で、離れよりは王城に近く、規模もはるかに大きかった。さりとてあの時の宿舎のように元々要塞だったわけではなく、明らかに居住を目的とした外装をしていた。
中に入ってみると想像通りの落ち着いた木造の内装で、通路に扉が並び、ロッジやペンションのような構造をしていた。
山岳地帯にあるグラウネシアでは、こういった建物が平均的な宿泊場所なのかもしれない。
康大達が案内されたのは3階にある、かなり広い部屋だった。ベッドも数があり、おそらく全員いっぺんに泊まれということなのだろう。
待遇は雲泥の差があるとはいえ、宿舎と同じ階泊まることになったことに康大はあまりうれしくない運命を感じた。
「必要なものは外に控えている侍女に言えばすぐに届けます。それでは私はこれで」
サムダイが恭しく一礼し、部屋を出ていく。
リアンは案内の途中で勝手に姿を消していた。恐らく先ほど話していた仕事に戻ったのだろう。
サムダイの足音が聞こえなくなったところで、全員が大きく息を吐いた。
たとえ表面上有効的な態度を示していても、仮想敵国の人間にずっとそばにいられては落ち着かない。
だが、素直に気を抜いていい状況も出なかった。
「(康大殿、お耳汚しを)」
不意に圭阿が康大の耳元で囁く。
それを目から血が出るほどうらやまし気にザルマが見ていたが、さすがに面と向かって抗議できる環境でないことはわきまえ、黙っていた。
さらに、そんな主を残念かつうんざりした表情で見るコルセリア。
問題なくリラックスできているのはハイアサースぐらいであった。
「(あの神父とこの国が内通していたということは、おそらく件の魔法も使えるはず。拙者たちの話は筒抜けでしょう)」
「(言われてみれば……)」
康大はその可能性に失態を犯す前に気づかされた。
あの魔法なら小声でも十分記憶される。もし圭阿に指摘されなければ、外にいる侍女だけに注意して、小声で話し合っていただろう。ひょっとしたらそれを見越して、わざわざ侍女の話をしたのかもしれない。
「なんだどうした?」
2人の話を察することができないハイアサースが地声で聞く。
康大は口に指を当て黙っているようジェスチャーした。
幸いにもその仕草はこのセカイでも同じ意味だったようで、ハイアサースはすぐに口に手を当てた。
(しかし、こういう場合筆談するのがセオリーなんだけど……)
幸いにも……というべきか盗聴の魔法はあっても盗撮の魔法はない……はずである。
しかし康大には、このセカイの文字が未だに理解できない。"食べ物"や"武器"といった単純な単語はぎりぎり覚えられても、文法までいけばさっぱりだ。
「結局なんなんだ?」
しびれを切らしたのか、ハイアサースがはっきりとした口調で言ってきた。
康大はため息を吐きながらハイアサースに耳打ちする。
ハイアサースのような美女にそこまで接近するのは現実セカイにいた頃では考えられなかったが、今はさすがに慣れた。
「(この部屋で盗聴の魔法を使われる可能性があるから、まともに話もできないんだよ)」
「(ああ、そういうことか)」
ようやくハイアサースも納得する。
するとハイアサースは、今まで蚊帳の外であったコルセリアにも状況を説明しだした。
唯一彼女だけは、盗聴魔法についての知識が全くない。
こういう心遣いができることは、婚約者にとって誇らしくもあった。
コルセリアは一通り話を聞き終えると「なるほど」とうなずき、今度は康大に耳打ちをする。
妙齢の美女の積極的な行動に康大は背筋が一瞬でピンとなる。ハイアサースに対しては慣れても、コルセリアに対してはまだまだ時間が必要だった。
そんな康大にかまわずコルセリアは話を続ける。
「(ハイアサース様に話を聞きましたが、それが魔術的な方法なら、同じく魔術的な方法で防ぎようもあるのではないでしょうか? )」
「(……コルセリアさんにできるんですか?)」
康大は少しためらってから、コルセリアに耳打ちする。
ハイアサースとはまた別の女性らしい甘い匂いがした。
コルセリアは話を聞き終えた後顔を離し、申し訳なさそうに首を横に振る。
アイディアはあってもそれを実行できる力まではないらしい。
ただその代わりに、視線をハイアサースに向けた。
コルセリアはその後康大と視線を合わせると、無言でうなずく。
(つまりハイアサースにはできると? 初対面なのに?)
そうだとしたら、最初に話したときに言ってもいいものだといぶかりながらも、康大はハイアサースにどうにかできるか尋ねた。
「(……というわけでお前できるか?)」
「・・・・・・」
ハイアサースは即答せず、しばらく考える。
……しばらくどころかかなり長い間考え、室内が沈黙に支配された。
さすがにここまで静かだと、グラウネシアも盗聴を警戒されていることに気づくだろう。
そんなハイアサースにコルセリアが助け舟を出すかのように何やらささやいた。
するとハイアサースはっと目を見開き、荷物をあさって何かの準備を始める。
彼女がしたのは、聖水を部屋にばらまくことだった。
床は絨毯なので、現実セカイでは迷惑行為以外の何物でもないが、このセカイおよびこの状況なら十分許されるだろう。
そう思いながらハイアサースの様子を康大が見ていると、不意にはっきりとした声で呪文を唱え始める。
「慈悲深き大いなる空の女神よ、そのあまねく知啓の片りんを力なきわれらに与えたまえ……」
そう言って胸に手を当て祈ると、室内がほのかに光り始める。
光は数十秒続いたが、ハイアサースが胸から手を離す頃には完全に何もなくなっていた。
「……とりあえずこれでいいかコルセリア?」
「はい、おそらく十分かと」
外の侍女に聞かれない程度の音量で2人は言った。
2人は納得しているようだが、それ以外の人間には何をしたのかさっぱり分からない。
特に部下に勝手な行動をされたザルマは、不機嫌そのものといった顔だった。
「お前は一体この乳女に何をするように言ったのだ?」
「順を追って説明します。この部屋は魔法で盗聴される恐れがあると聞き、まずその魔法を打ち消す方法を考えました」
コルセリアは康大のようにもったいぶらずに聞いたことを話し始める。
腹違いの姉弟とはいえ、お互いの立場をはき違えることはない。
「しかし、壁に声を記憶する魔法事体初耳ですから、どうしようもありません。そこで考えを変え、どうすれば記憶させずに済むかを重視することにしました。おそらくこの魔法は声を魔力に変換し、それを壁に記憶させているのでしょう。そこでその効果を阻害する結界が使えればと、ハイアサース様に相談したのです」
「使うのは私たちがいる間だけだし、魔法疎外の結界は初歩的なものだ。その程度ならまあ問題はない」
ハイアサースが自信満々に答える。
康大は話を聞きながらなるほどなと思った。
てっきり康大はレコードのように、物理的に声が壁に記録されるものと思っていた。
しかし、魔法に詳しい人間にしてみればそういうわけではなく、魔法である以上とにかく魔力に変換しないことにはどうしようもならないらしい。
そこまで頭が回るあたり、コルセリアも決して頭が悪いわけではないのだ。
ただザルマが絡むと、途端に親ばかならぬ姉馬鹿になってしまう。
こういう点は、腹違いの弟であるザルマと似ているのかもしれない。
そう思いながら康大はようやくこれからの方針について話し始めた。
「現状をまとめると、図書館には行けないが大司教様に会うことは問題ないってことになる」
「つまり、あの女の助けを借りて大司教猊下に会いに行けばいいのだな」
ザルマのまとめに康大は頷く。
「しかしあの女信用できるのか?」
「スパイって言う点に関しては、あのおっさんもがっくりしてたぐらいだし、何とかなるんじゃないか。ただ能力的には……」
「ふむ、つまりそうすんなりいくわけでもないということか」
「さすがにもう慣れたけどね……」
そう言って康大は力なく笑う。
そしてグラウネシアにおける最初の夜が更けていくのだった……。