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第5話  傷を抱える者

――――烏蘭ウーラン

――――烏蘭、私だ。耀青ヨウセイだ。

――――この子は、あなたなのか?


――――あなたは、お茶の精だったのか?





 何年ぶりの朝だろうか。誰かと共に澄んだ空気を、小鳥のさえずりを感じたのは。

 親王邸の庭は陽の光を浴び次第に目を覚ましてゆく。冷たい空気が段々と、人肌にも似たぬくもりを帯びてゆく。


 結局寝つけずにいたレイ親王耀青ヨウセイは、夜通し、烏龍ウーロンの寝顔を愛でていた。薄い帳一枚を隔てながら。時々帳をめくって心の中で呼びかけるたび、かつての友と烏龍の姿を重ねていた。

 初めから気づいていたのだ。亡くした友に、烏蘭に似ていると。

 だがそれを受け入れられなかった。


 友が探し求めた「単叢美人タンソウビジン」、陛下の希望、兄の病を治してくれる茶樹の精霊。人の世を知らぬ無垢な娘だと、友とは別の存在なのだと思うようにしていた。

 いつかは別れが来るのだろうとも思っていたから。

 だが、烏龍のあの姿を見て、心が揺らいだ。


「烏蘭……あなたが見たら、どう、思っただろう」

 帳をそっとめくってみる。烏龍は、穏やかな寝顔のまま、小ぶりな胸を静かに上下させている。

 肌は白磁のように白く、髪は烏の濡れ羽色。ひとたび切れば、龍のようにうねる美味な茶葉となる。烏龍という名をつけたのはそこからだ。だが、烏蘭と響きがよく似ていることに気づかなかった。


 いや、違う。

 友が好んだ青衣しょうえを着せ、女人ではなく男の格好をさせたのも。皇后の反対を受け入れ、陛下の部屋ではなく親王邸に住まわせることにしたのも。面倒を避けるためではない。

 友の、悲劇の茶師の面影を、手元に置いておきたかったからに他ならない。

「烏龍……私はなんと身勝手な男だ。その私に、貴女は……」


 恋。

 己は、二度とするまいと思っていたものを、されたのだろうか。





 烏龍が目を覚ましたとの報せを受けたのは、昼前だった。

 政務の合間を縫って屋敷に戻ったときのこと。新しい、緑がかった青衣を着て庭に出ていた烏龍は、耀青の姿を目にするなり頬を染めた。


「あ、あの……昨日は……」

 恐縮したようにもじもじとしている。もし、謝ってきたら、その必要はないと言おうとしたが、烏龍から紡がれたのは意外な言葉だった。

「昨日は、ありがとうございました」

 ずっと、傍にいてくださったのですね。歩み寄ってきた烏龍は耀青の胴衣をちょこんと握った。


「お礼を、させてください。殿下……いえ、耀青」

 ますます顔が赤くなり、耳が、ほのかな椿色になる。髪がさわさわと揺れるのはそよ風のせいではないのだろう。

「烏龍……恐縮する必要はないのだ。私こそ、すまなかった」

「そんな、耀青、様は、何も」

 すがるように見つめてくる目のなんと美しいことか。遥か南にある海は、雲の上から見る森は、このような色をしているのだろうか。しっとりと潤み、自分を、見つめて――――


「はい、そこまで! 皇后娘娘じょうじょうの使いに見られたら一大事ですよ」

 木蘭ムーランの張りのある声が響き渡った。


 烏龍の「お礼」とはお茶だった。食卓に並べられた菓子は木蘭と一緒に手作りしたものだという。ちょっぴりいびつな、かわいらしいかたちをした点心テンシンを一生懸命に作る様を想像すると、自然と唇がほころんだ。

 差し出してくれたお茶は、数ある中でも今日の茶菓子にぴったりである。

 さっぱりとしていながら飲み応えのあるそれは、岩山に根を張る茶樹から作られたものだ。「肉桂」の名を冠する通り、何も混ぜていないはずが、かすかに甘く魅惑的な香辛料の香りがする。


「烏龍様がひとつひとつ試飲なさったんですよ」

「何と、それはまことか?」

「ええ。『香りと味はまた別ですから……』と。ねえ烏龍様?」

 木蘭の笑みに烏龍はもじもじとしつつ、こくり、と頷いた。耀青は点心を口に運ぶ手を止めて烏龍に歩み寄る。


 爽やかな緑茶から、艶めかしい毛皮を飲むような黒茶プーアルまで。親王邸で所有している茶葉はゆうに百を超える。その中から香りで選び、更にひとつひとつ飲んで選び……この綺麗なかたちの鼻が、愛らしい唇がと、耀青は密かに夢想した。

「さぞかし疲れているだろうに……私のためにしてくれたのだな」

 白々とした手を取れば甘い香りがした。ひんやりと、少し冷たかった肌が段々とあたたかみを帯びてくるのは、白磁の茶器そのものだ。まるで自分があたたかな湯にでもなった気分である。


 この白無垢を染めるのは、自分。

 ひどくよこしまな考えが浮かんだ気がし、耀青は、抑えるように目を細めて烏龍の頭を撫でた。

「ありがとう、烏龍」


 ほんの一瞬烏龍の耳が染まったのも、耀青は、見て見ぬふりをしたのだった。





 烏龍のまなこがとろりとした頃、耀青は彼女を抱き上げ寝台に運んだ。

――――陛下のところへ行かないと……。

――――無理はするな。まだ疲れが抜けないのだから、今日は休め。

――――でも……陛下はきっと、寂しい思いをしています。

――――無理はさせるなと言われている。もし、あなたが目の前で倒れたら、陛下はご自分を責めてしまうぞ。

 代わりにあなたの点心を持ってゆくから。その言葉に安堵したのか、烏龍はやっと目を閉じてくれた。


 木蘭に烏龍の世話を任せた耀青は炎帝の元へと向かった。

 兄が、皇帝が住まう部屋の周りにはいつも通り誰も、いない。静寂は寂しさにも、物言わぬ安寧にも感じられる。

 淫魔の子宮のような部屋は、大扉の前に立つと待ちかねていたように口を開けた。歩くたびにするぐちゅぐちゅという音にも、蠢く壁にももう慣れた。だが壁にはりつけにされた、かんざしや尖った茶具で串刺された絵には未だ慣れない。

「あの頃」を。三人が笑いあい、共に茶を飲み語らっていた時代を描いた絵には。


 耀青は目を閉じ、寝台の前でひざまずいた。

「麗親王耀青、皇帝陛下に拝謁します」


 帳がゆっくりと開き、中から炎帝が、腹違いの兄・耀煌ヨウコウが顔を出す気配がする。

「なんじゃ……烏龍はおらぬのか」

目に見えずとも落胆の色は明らかだ。耀青は頭を垂れたままで続ける。

「畏れながら申し上げます。お茶の精・烏龍はその繊細さゆえに体調が優れず、本日は親王邸にて静養させることにいたしました」

「なんと、烏龍が? 詳しく申せ」

「ご安心ください、眠ればやがて回復します。それと申しますのも陛下に手作りの点心をお届けしようと、慣れない料理を頑張っていたからなのです」


 しばしの沈黙が流れる。部屋の中には、壁が蠢く妖しい音だけが響く。

 面を上げた耀青が見たものは感激のあまり言葉を失う炎帝だった。予想通り、と言うべきか。丁寧に箱詰めした点心、少しいびつなかたちをしたそれを捧げると、震える指でいたわるようにつまみ口に運ぶ。

「…………美味じゃ」

 ぽつり、と一言。それきり口をつぐんだ炎帝だったが、やがて、寝台の奥をごそごそと探りはじめた。

「耀青、これを烏龍に賜る。朕の髪を練り込んだゆえいつでもあたたかい蓋碗ガイワンじゃ。これで薬や茶を飲んで、元気になって、朕に会いに来てくれと。そう、伝えてほしい」


 天子たる皇帝の身体を持つ幼子。耀青が見た異母兄の顔は、久しく目にしていない無垢そのものの顔だった。同じ顔を見せていたのは、烏龍と、自分以外に一人だけ。

「…………陛下」

「何じゃ、かしこまってからに。心配事でもあるのか」


 耀青に見つめられ、炎帝は不思議そうな顔をする。

「そなたらしゅうない顔じゃのう……烏龍がよほど心配なのじゃな」

伏し目がちになる耀青の手に蓋碗が手渡され、大きくあたたかな手で包まれる。

「のう、耀青。そなたは朕の恩人じゃ。烏蘭なき今、朕が心を開けるのは烏龍とそなただけ。朕はやっと光を目にした気分なのじゃ……いつかまた、あの頃のようになれると。三人で笑いあえると信じておる。朕はの、耀青」


 烏龍が好きじゃ。


 大好き、じゃ。


 その後、耀青は炎帝の部屋をいかにして出たのか、覚えていない。

 呆然と、うつろな表情で部屋を後にした彼は、物陰に佇む皇后の姿にさえ気づかなかった。





「殿下、ご気分が優れぬようですが……」

 屋敷に戻った耀青を迎えたのは側仕えの若者・ヨウだった。

 元は宮廷劇団の女形であっただけあり、物腰も話し方もやわらかい。木蘭とは正反対の彼が差し出す茶を飲み、耀青は深いため息をついた。


「葉。私は、疲れているのかな」

主が珍しく見つめるからか、葉は少しどぎまぎとしている。

「そ、それはもう……陛下の代わりに政務を引き受け、おひとりで山奥に乗り込み、その上烏龍様の面倒まで見ておいでです。いくら私と木蘭がいても、お疲れは溜まる一方でしょう」

「そうか……それも、そうだな」


 少し眠気がしている。葉がお休みになりますか? と尋ねてくるので、このままでいいと答えた。

「烏龍はどうしている?」

「よく眠っていらっしゃいます。……時々、殿下のお名前を」

「私の……?」

 葉が遠慮がちに言ったのは何故だろう。だがそれよりも、烏龍が自分の名を呼んでいたということが胸に突き刺さった。思わず葉に薬酒やくしゅの用意を命じてしまう。部屋を出てゆく彼の心配そうな表情さえ、今は、刺さるように思えてならない。

 耀青は炎帝の蓋碗を卓の上に置いた。


 烏龍に下賜された、炎帝の大のお気に入り。今まで一度も手放さなかった品である。それもそのはず、彼自らが髪を切り、烏蘭の、かつての友の茶を飲むために作らせた茶器なのだ。

 触れてみれば予め湯を注ぎ、あたためていたかのよう。白磁でありながら白磁らしくないぬくもりに触れていたとき、ふと、烏龍を助け出したときを思い出す。


 雪に埋もれていた彼女の身体の冷たさ。服の着方を教えたときに目にした真っ白な裸体。粥を食べさせるうちにほんのりと帯びだしたぬくもり。

 朦朧とした意識の中で感じた唇のやわらかさ。

 幻であればどんなに良かったことか。昨晩の彼女もだ。

 自分は死んだ友と皇帝陛下のためだけに生きる、そう、誓ったはずなのに。


「烏蘭…………陛下」

 炎帝の無垢な笑みと、素直な言葉が脳裏に響いたときだった。





「殿下、殿下! 皇后娘娘がいらっしゃいました!」

 血相を変えて駆け込んできたのは木蘭だった。息も荒く卓の上にある蓋碗を見、目の色を変える。

「どうしたというのだ、そんなに慌てて」

「どうもこうもございません! 娘娘が『烏龍とやらの様子を、下賜された品を見にきたわ』と……」

途端に耀青の顔が引きつった。


 二人が炎帝の蓋碗を隠した直後、宦官かんがん――後宮に仕える去勢した「男」に手を引かれた皇后が姿を現す。

 相変わらず背筋が凍るような目だ。気を抜けば心を見透かされそうな。耀青が立ち上がり木蘭が礼をしようとすると、冬の高山のような声がする。


「挨拶は結構よ。あの者の様子はどう? レイ親王」

「烏龍、でございますか」

「そう。陛下から『あの蓋碗』を賜った、お茶の精よ」

「――――!」


 気づかれている。


 動揺を押し殺す耀青の前で、皇后は、椅子に腰掛けもせず木蘭が差し出した茶も飲まずにいた。まさに氷の彫像、といった出で立ちで、夫の。皇帝の弟君を見つめている。

「陛下の宝物を下賜された。あの者は、まことの精霊のようね。されど今は床の中と」

「……左様にございます。繊細なお茶のごとき身体ですゆえ」

「よく知っているのね」


 短い言葉、澄んだ声が耀青に突き刺さる。

 隣では木蘭が、踏み出そうとするのを必死に抑えていた。左手で彼女を制した耀青に皇后は言う。

「まるであの者を抱いたような口ぶりだこと。男とも女人ともつかぬ精霊ならば、そなたとて惑わされそうね」

「……ご冗談を。私が心を捧げるのは、陛下ただお一人のみ」

「そうかしら? 烏龍は『もう一人』によく似ていてよ」


 真円になろうかというほど目を見開いた耀青に向かい、皇后は、うっすらと笑みを浮かべた。なんという寒々しさか。まるで氷の刃を喉元に突きつけられているかのようだ。

いにしえより人と精霊の交わりはよくあること。こなたはずっと、そなたの伴侶について案じていたのよ。陛下とて同じだわ」

「ありがたきお言葉、娘娘に感謝します。されど私は……」

 ふわり、と、長いつけ爪をまとった指先が舞う。


 宦官の手から離れたそれは耀青を指した。木蘭と二人、弓矢を向けられたように息を呑む。言葉を、声を、奪われる。

「麗親王。烏龍がまことに『お茶の精』であるならば、何としてでも手元に置いておくのです。手込めにしても構わないわ、とにかく、陛下の病を治して差し上げることが第一よ。二度と手放すような真似はしないで」


――――二度と手放すような真似はしないで。


 その言葉が、耀青の胸を深く、深く刺す。

 皇后が立ち去った後、猛虎と化した木蘭が憤慨する横で、麗親王耀青は唇を噛みしめていた。

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