第4話 永遠に旅立った友
皇宮に黄昏時が訪れた頃、麗親王耀青が烏龍を迎えに来てくれた。
「そうですか、皇后娘娘が……」
「陛下は貴女を部屋に住まわせたがっていたよ。だが、娘娘のご反対もあるゆえ、屋敷から通わせることになった。それでいいかな」
薄紫に染まった皇宮は、別れ際の炎帝のようだった。寂しそうだが確かに希望が芽生えたような。訪れる夜をひとりで過ごさせるのは不安だったが、炎帝は、大丈夫じゃと。耀青も心配ないよと言ってくれた。
「親王殿下のお屋敷なら、安心です」
「あはは『耀青』だよ、ヨ・ウ・セ・イ。さあ着いた!」
親王邸の門をくぐった瞬間、耀青は晴れ晴れと笑ってみせた。
皇族の顔、陛下の代理「麗親王」の顔から耀青に。感情も言葉の表現も豊かなひとりの人間の男になって、嬉々としながら烏龍の手を引き庭を通り抜ける。
「お帰りなさいませ殿下、烏龍様!」
駆け寄ってきたのは屋敷で唯一の女官・木蘭。きっちりと挨拶はしながらも烏龍を恐縮させない朗らかさは、再会の喜びに抱きついてくるほどだった。後からやって来た側仕えの若者・葉がハラハラとしているのが分かる。
「心配ないよ、この屋敷ならね。それにしても女人は羨ましいな」
心なしか耀青の言葉づかいも変わったようだ。見せつけるような木蘭を剥がそうとする葉の必死さに、笑いが起きた。
四人は揃って食卓を囲んだ。他の皇族とは違い、麗親王邸では皇族も使用人も一緒に食事をするという。皇宮の外、民と同じようにしたいのだと耀青は言った。
「殿下は仰々しーい作法がお嫌いですものね」
「木蘭! 殿下に何てことを!」
木蘭と葉はまるで兄弟か姉妹だった。おかずを取り合いながらわいわいと騒ぐ様を、なよやかな美人の葉と勇ましささえ感じる木蘭の組み合わせを、主の耀青は微笑ましげに眺めている。
「わたし……今日から、ここで暮らすのですね」
「そうとも。私とも、この賑やかな二人とも一緒だよ」
耀青の、視線がこちらに移ってきて、くすぐったいような感じがした。烏龍がもじもじとしていると目の前におかずが差し出される。
「はい、あーんして」
今までなら恥ずかしさで逃げ出していただろう。だが烏龍は、恥じらいながらも唇を開いた。
「美味しい……」
耀青に見つめられながら、よく噛んで、飲み込む。仕草のひとつひとつを愛でられているような眼差しだった。あの夜を思い出し、烏龍も慣れない箸を使っておかずを耀青の口元に運ぶ。
「あっ」
震える箸先から赤い肉が落ちた。花びらに見立てたそれは耀青の衣の上にぽとりと、豪華な刺繍に染みをつくる。
どうしよう、と焦った烏龍だったが、耀青は何食わぬ顔で花びらをつまみ口に放った。そして唇の端をきゅ、と上げ、いたずらっぽく微笑んでくる。
「困る貴女もかわいいな」
顔を赤くする烏龍を、いつの間にか、木蘭と葉の二人までもが見つめていた。
食事の後、烏龍は木蘭に案内されて自分の部屋に入った。
心なしか、昼間よりも調度品が増え、部屋全体がほんのり飾りつけられている。卓の上には何が入っているのだろうか、紅地に金の模様が描かれた箱がいくつも積まれていた。隣には茶器たちがちょこん、と佇んでいる。
「お気に召しましたか? 殿下が陛下から賜った品で飾ってあげてくれと仰ったのです。あまり派手だと落ち着きませんから、控えめに」
「まあ……親王、殿下が?」
「ふふっ、まだ慣れないんですね。私の前でも『耀青』と呼んで差し上げてください」
木蘭は卓の上を片づけ、烏龍を座らせると肩を揉んでくれた。痛いようなくすぐったいような気持ちに変な声を上げてしまい彼女を笑わせる。
「とっても凝っていらっしゃる。緊張と、お疲れと……色々な御苦労と」
「分かる、ものなのですか?」
「ええ。心にも響いて心が響いてくる場所ですから。頭から首、肩、背中、ここをほぐせばだいぶ楽になるんですよ」
木蘭の手つきは優しかった。未だ耀青に触れられるのは慣れないが、彼女には全く緊張もびくつきもしない。性格もあるのだろうが、やはり耀青が言う「同性」「女人」だからだろうか。
段々と慣れてきてくすぐったさが心地よさに変わってゆく。時々、木蘭が淹れてくれたお茶を口にすると、ほぐれた肉にあたたかさが染み渡る。
「あぁ……」
ふと漏らした吐息に木蘭は言った。
「烏龍様は、殿下のことが好きなのですか?」
何故だろう。途端にびく、として、蓋つき茶碗を蓋碗を落としそうになる。
「好き……です、か?」
木蘭は揉みほぐしの手を止めて烏龍の隣に座った。手に手を添えて蓋碗を卓にそっと置き、蓋の裏についた香りをかぐ。
そしてにこりと微笑んだ。
「なんだか、殿下と一緒の烏龍様を見ていると、微笑ましくって。まるで恋をしているようなんですもの」
「『恋』……?」
初めて聞く言葉だった。恋、とは、一体何だろう。木蘭に尋ねると彼女は耳に、三つ編みをほどいた髪の毛に触れてくる。
「お気づきでしたか? 殿下が微笑んだり、お手に触れると、烏龍様の耳に少しだけ紅が差すんです。まるで椿の花のように。そして髪はさわさわと揺れる……まるで、風にそよぐ茶畑のように」
髪が、揺れる。
烏龍が思い出したのは炎帝の燃え盛るような髪だった。手や指の代わりに触れてきて、包み込むよう抱きしめてきた。彼の髪でありながらどこか別物のようでもあった。
烏龍は自分の耳に、髪に触れた。
今はどちらも大人しくしている。試しに、炎帝のように動かそうとしてみたが、ひくりともしなかった。首を傾げると木蘭が言う。
「殿下と一緒の烏龍様はとても綺麗で、見ているこちらまで心が洗われるようで。あたし、昔を思い出してしまうんです」
「昔……?」
「兄がまだ生きていた頃のことです」
木蘭は立ち上がり、棚からひとつの茶缶を、茶の容れ物を取り出した。
なめらかな曲線を描く錫の中から茶葉を取り出す。どこか見覚えがあるかたちにすぐ、炎帝が烏龍に飲ませてくれたお茶を思い出した。寝台の上に散らばっていた、龍の身体のようにうねり烏の濡れ羽のよう艶めいていた茶葉を。
木蘭が取り出したものはもうひとつあった。透明な、何の色もついていない蓋碗だ。そこに茶葉が入り湯が注がれた途端、烏龍は、あの雪の夜のことを思い出す。
あなたと、一緒に、いたい。
初めて誰かに抱いた想い。初めて抱いた、狂おしく、身体の底から溶かされてゆくような熱。それを言葉に出来なくて自分がしたことは。
「まあ、烏龍様、お耳と髪が……!」
烏龍は、血相を変えた木蘭に姿見の前へと連れてゆかれた。
わけも分からず姿見を背にして立たされ、いいですか、落ち着いて振り返ってくださいねと念を押された。一緒に深呼吸をしてくれる木蘭の髪にも耳にも変わったところは無いのに、彼女の激しい鼓動が、荒い息づかいが伝わってくる。
どうしてしまったのだろう。
自分に、何か、あったのだろうか。
烏龍はもう一度深呼吸をして、ゆっくりと、振り返った。
「きゃあああッッ!」
甲高い悲鳴が上がり、茶樹の精は人間の女性にしがみつく。
途端によろめいた木蘭だが、しっかりと、烏龍を受け止めてくれた。震える背中を懸命にさすりながら声をかけてくれる。
「烏龍様、どうか、どうか落ち着いてください。何も恐れることはありません」
「でもっ、でも…………」
「初めてのときは誰でも戸惑ってしまうものです。大丈夫、私の兄も……」
木蘭が何かを言いかけたときだった。
「どうした! 何があった!」
耀青が部屋に飛び込んできた。
湯浴みでもしていたのだろう、髪が寝間着がぐっしょりと濡れて、逞しい肉体の線が露わになっている。木蘭はとっさに烏龍を背中にかばってくれたが、耀青の、炎帝陛下の弟君である親王殿下の表情は、みるみるうちに変わってゆく。
「木蘭……そなた、まさか」
「勘違いしないでくださいよ! それより何ですかその格好は! 着替えて出直してきてください!」
主に対し何という迫力だろう。一歩でも近寄られれば牙を剥いて飛びかかりそうな木蘭の陰で、烏龍は姿見の中の自分を思い出し震えていた。「あれ」を、耀青に、見られてしまったのだと。
「早く! 戻ってください! さもないと殿下が覗きをしたわと皇宮中に触れ回りますよ! 陛下にも!」
猛獣と化した木蘭。彼女と、涙目になり後を追ってきた葉により、耀青は一度退散したのだった。
再び二人きりになり、部屋は急に静かになる。
木蘭は、先ほどまで猛虎と化していた女性は、烏龍の身体を優しく抱き起こして寝室まで連れていってくれた。そして「フカフカ」に横たえて、頬を、撫でてくれる。
「今日は……もう、休みましょう。あたしも余計なことを言ってしまいました」
きっと「恋」のこと、兄のことを言っているのだろう。彼女の顔に浮かんでいるのは真摯さだ。快活さで竹を割ったような木蘭は、過ぎたことをと思えば潔く認めるひとでもあったのだ。
「ううん、いいの……話してくれてありがとう、木蘭」
彼女はハッとしたようだった。初めて見る涙を滲ませながら。
笑顔と、涙と。烏龍の手を握り、耳に、髪に触れてくる彼女は自分と正反対のはずながら、どこか通じるものがある気がした。しばらく見つめ合っていたが、烏龍をひしと抱きしめた木蘭は、寝台の帳を下ろしてくれる。
「あたし、これから殿下のところへ行ってきます。烏龍様、もし…………」
何かを言い掛けた木蘭だったが、ニカッ、と笑うと礼をして部屋を後にした。
外はすっかり暗くなり、月が出ている。
部屋の中には淹れっぱなしのお茶の香りと、耀青の、湯上がりの残り香が漂っていた。ひとりぼっちの烏龍は繰り返し、繰り返し胸いっぱいに吸い込む。
ぼんやりとしてゆく意識の中、烏龍は鏡の中の自分を思い出した。
炎のよう、天に昇る龍たちのように揺らめいていた黒髪を。
深い緑から椿色になり、小さな、白くかわいらしい蕾をつけていた耳を。
麗親王耀青は寝つけずにいた。
猛虎・木蘭に追い返され、湯冷めした身体をあたためようと飲んだ茶のせいだろうか。紅茶を選んだからだろうか、湯浴みのときよりもずっと身体が火照っている。
胸の鼓動も速かった。忠実な側仕えの若者・葉を心配させまいと平静を装ってはいたが、頭に焼きついた「お茶の精」は消えてくれはしない。
美しかった。
この世のものとは思えないほどに。
詩聖と称えられた詩人も。試験に首席で合格した詩書に通じる官僚も。お茶の精を、烏龍を讃えられる言葉など持ち合わせてはいないだろう。
黒い髪は烏の色をした翼。耳は椿が牡丹の花が咲いたよう。ゆっくりと、身体を起こした耀青は、傍に掛けられた長衣を手に取る。
うっすらと残る染みは刺繍された龍の頬を染めていた。烏龍が、慣れない手つきで食べさせようとしてくれた肉の花びらの跡だ。
「烏龍……」
高貴な指先が、龍の頬を愛でていたときだった。
「葉! 殿下は?」
「しーっ、大きな声を出さないでください……!」
木蘭の声だ。烏龍に付き添っていたはずだが、何か、あったのだろうか。耀青が聞き耳を立てると自分に仕える二人のひそひそ話がする。
「烏龍様はいかがなさったのですか? あなたがあんな風になるなんて」
「何言ってるのよ、これだから葉っぱは。例えばの話……」
「例えばの話?」
「想いを寄せるひとに宛てた恋文を、他の誰かに見られたら?」
葉が女形時代のような甲高い声を上げる。
「ちょ、ちょっと、それってどういうことなのです? 烏龍様は恋をしてらっしゃると?」
「しーっ、アナタが悲鳴を上げてどうするのよ。それより殿下は?」
「今はもう眠ってらっしゃるはずですけど……」
二人が、息をひそめてこちらを伺っているのが分かる。
耀青は寝台に戻り、寝たふりをした。部屋の入り口に背を向けながら二人の会話を思い返す。
(想いを寄せるひとに宛てた恋文を、他の誰かに見られたら……)
木蘭の例えが頭の中でこだまする。
烏龍は、己が救い出し己を救ってくれたお茶の精は、恋に落ちたというのだろうか。確かにあの姿ならば納得がゆく。陛下も、燃え盛る髪を持つ皇帝である兄も、心が揺れると決まって髪を揺らめかせるのだ。
烏龍は髪だけではなかった。艶々とした深い緑の耳を染め、小さな、白くかわいらしい蕾をつけていた。助け出したときには無かったものだ。
それに己に見られたときは怯えていた。
木蘭が、猛虎と化したのも、兄の亡骸を目にして以来だ。
「烏龍……一体、誰なのだ。あなたが恋をした相手は……」
まさか。
その、相手は。
耀青が唇を噛みしめたときだった。
「ねえ、葉。殿下はいつも仰ってたわね」
「……あのことですか」
「そう。『私は誰とも結ばれぬ』『私は陛下と、失った友のために生きるのだ』って、アレよ」
しばしの沈黙が流れる。耀青は、息を殺して二人の話に聞き耳を立てる。
「……烏龍様を連れてきてから一言も聞いてない」
息を呑んだのは葉だけではなかった。
とうに夜は更けている。親王邸の庭では小さな花をつけた茶樹が、月の光に染まっている。
「殿下は……兄さんが死んでから陛下のため、陛下のためって、そればかり。まるでご自分なんかどうでも良いみたいだった。烏龍様を連れてきたのだって、無事にお戻りになったから良いけど」
「…………後を追ったのではと眠れませんでした」
茶の樹と寄り添うような椿は、あなたの次は私よと、紅い蕾をふくらませていた。葉は月の光でいっそう艶めき、これからの花を楽しみにしている。茶の花は、月を見上げて微笑みながら、ぽと、と小さな命を終える。
「そう。その殿下が、烏龍様に兄の服を着せたとき。一緒に食事をされたとき、あたし思ったのよ。烏龍様は、殿下の、本当の意味での希望でもあるんだって。その烏龍様が、殿下、に……」
木蘭が言葉を詰まらせたときだった。
「木蘭、葉。私を烏龍のところへ案内してくれ」
昼間と同じ服を着た麗親王耀青は、目を赤くし丸くした従者たちに、凛々しい声で言い放った。
「烏蘭……」
夜空を見上げ、庭の茶樹を目つめた親王は、地面に落ちた花をひろい口づけた。




