最終話 決別
茶器に口づけるような、水の、音がする。
烏龍はあたたかな液体の中にいた。ゆったりと、優しく揺れるそれは、まるで包み込んでくれるかのよう。全身を撫でられ、口づけられて、自分が香ってゆくのを感じる。
――――烏龍。
「誰……?」
――――烏龍。俺だ。
目を開ければ、そこは、烏龍の知らない場所だった。緑と青の木々が生い茂り、宝石のような木漏れ日が差し込んでいる。たゆたっていた身体がゆっくりと降りてゆけば、何か、「フカフカ」のような感触がする。
それは、茶畑だった。やわらかな緑と青に光る、不思議な、見たこともない茶樹たちは、「仲間」である烏龍を嬉しそうに迎えた。さわさわと揺れる音が人の世にはない言葉となって耳葉に口づけてくる。
――――ふふ……本当に、かわいい子だ。俺に化けるとは大したものだよ。
烏龍が飛び起きると笑い声がした。
少し、離れたところから、青衣をまとった誰かが歩み寄ってくる。そのひとは切れ長の目を細め、唇を少しだけ三日月形にして、烏龍の目の前にしゃがみ込んだ。
「だがな、目の色を忘れているぞ」
途端に烏龍が真っ赤になると、また、笑い声がした。どこか耀青に似た笑い方、と思ったとき、そのひとの正体に気づく。
「あなたは、烏蘭、ですか……?」
白い顔が頷いた。
自分と本当にそっくりだ、と、烏龍は思った。否、思っていた。確かに唇や目のかたちは輪郭はよく似ている、が、頬から顎、首を描く線も、青衣から姿を現した手も、自分よりはいくらか引きしまっている。例えるならば筆で描いたか彫刻かといったように。
「ここは、どこ、ですか? わたしは、一体……」
「『森』だ」
「もり……?」
烏龍が首を傾げると、烏蘭はふふ、と笑って頭を撫でてくれた。切れ長の目が細められて、まなじりに甘さが滲む。
「安心しなさい、じきに戻れる」
「戻れ、る……? 耀青に、会えるの、ですか?」
「そう。あなたはまだ、ここに来るべきではない。さ、これを飲んで」
烏蘭は、烏龍に蓋碗を差し出した。
「これは……?」
「俺が作ったお茶だ。いつか、こうして、『お茶の精』に飲んでほしかった」
透明な蓋碗の中では不思議な茶葉が。緑と、青の光を帯びたお茶が揺れている。それは水底にある森を、耀青が好きな色を、烏龍の瞳を思わせる。烏龍と、烏蘭は、同じ蓋碗に口づける。
「烏龍……耀青をよろしく頼む。妹の木蘭も、陛下も」
「烏蘭?」
「これからは俺の代わりとしてではなく、あなた自身として生きるんだ。男でも、女でも、精霊でもない『あなた』として。人の理にとらわれず望むように生きて、望むように、愛してほしい」
段々と、烏蘭の姿が消えてゆく。霧の帳で包まれてゆくように、何煎も淹れた茶の味が薄くなってゆくように。烏龍は、蓋碗を手にしたまま、烏蘭と見つめあう。
いつしか、烏龍はまた、深い眠りに落ちていった。
「烏龍が皇后をかばった」
耀青が報告を受けたのは、獄中だった。
朦朧とした意識もさめるほどであった。葉の制止も振り切り牢をを脱け出して、木蘭の案内で親王邸に戻ったとき、愛しい烏龍は「炎帝」耀煌の前で眠っていた。
青白く、大きな背を向けたままの兄君に、歩み寄る弟君。木蘭を部屋の外に控えさせ、そっと、剥き出しの肩に触れる。
途端に耀煌は泣き出した。
自分のせいだと。自分が、耀青を投獄しなければ、烏龍は自分を天空の茶園に連れて行こうと、皇宮を脱走させようとせずに済んだ、と。秘密の抜け道を使い都の外に出たところを皇后たちに見つかり、烏龍を気絶させようとした宦官に激昂して、また、我を失わずに済んだ、と。
烏龍は皇后をかばって炎に包まれた。皇后は今、宮にひとり閉じこもっているという。
どうして皇后を。そう問うと、烏龍は。
「『ひとりぼっちで、耐えて、いらしたから』……烏龍がそう言ったのですか」
「そうじゃ。そなたの屋敷を去った夜、ひとり涙を流す皇后を見たという……あの『氷面天女』がじゃ。それだけではのうてな、『娘娘のお傍にいてあげてください』と言うて気を失うた」
暫くして、耀煌は、部屋を後にした。
横たわった烏龍の頬を撫で、閉じられた目蓋をなぞる。
炎に包まれたはずの体にも、顔にも、傷や火傷はなかった。横たわる美しい娘の姿は、青衣に包まれた姿は、初めて会ったときの彼女を思わせる。
あの頃は二人を隔てるものなどなかった。二人だけの関係でいられた。いつの間にかそれが見えなくなっていたのだ。
もし、烏龍が目を覚ましたら、約束の通り。すぐにでも結婚を申し込もう。ささやかでいい、式を挙げて、正式な伴侶として迎えよう。考えているうちに耀青の目からは涙があふれる。
あまりに時間をかけてしまった、と。
そのときだった。
「耀……青……」
烏龍が目を覚ました。
手を伸ばし、耀青の、髪を剃り落としたところに触れてくる。頬の、顔のかたちを確かめるようにして、やがて唇に触れてくる。
「烏龍……!」
耀青は烏龍をしかと抱きしめた。熱い口づけもした。二人の今までを取り戻すかのように愛らしい音が響く。
起き上がろうとした烏龍を制した彼は寝台に潜り込んだ。あの夜のよう、ひとつの布団で身を寄せあい、抱きしめあう。
「やっと……やっとだ、これで、私たちは一緒になれる」
「耀青…………?」
「結婚してくれ、烏龍。私の生涯の伴侶として、共に、暮らしてくれ」
熱い吐息、熱い言葉、熱い体。二人は再び唇を重ねる。
長かった。あまりに、長かった。耀青はようやく自分自身を取り戻したかのようであった。烏龍とて同じである。「お茶の精」でも「烏蘭の生まれ変わり」でもなく、烏龍そのひととして、今、愛するひとと一緒になったのだ。
部屋の中はたちまち芳香に包まれた。青く、甘く、清らかな香りは一段と沁みるようで、耀青は烏龍の髪に顔を埋める。揺らめきを取り戻してゆく黒髪は耀青を包み、青みがかった光を帯びる。帳は二人を見守るよう、音もなく、下りる。
部屋の外にいた木蘭は、漂ってくる香りに目頭を熱くした。すると肩に触れるものがあるではないか。おそるおそるそちらを向いた彼女は涙を流さずにはいられなかった。
「まったく、世話の焼ける殿下だ」
微笑んだ烏蘭は、彼女の兄は、妹に茶を託して消えた。
それからしばらくの月日が流れた後、炎帝・皇后・耀青・烏龍と木蘭たちは、宮廷劇団の芝居を観ていた。
二人の希望でささやかな結婚式を挙げ、晴れて夫婦となった麗親王夫妻は、揃いの青衣を着ている。三つ編みを垂らした髪型までよく似ていて、炎帝は「まるできょうだいじゃな」と皆を笑わせた。
皇帝夫妻は関係を修復している途中である。まだ、ぎくしゃくとしながらも、歩み寄りだした二人は新婚夫婦のようであった。木蘭は皆に茶を淹れながらつぶやく。
「兄さんも、ここにいるのよね」と。
四人それぞれの蓋碗の中では、烏蘭の茶が、緑と青の光で湯を染めていた。




