第11話 天空の茶園へ
あのひとに、なる。
わたしとそっくりな、あのひとに。
親王邸に帰った烏龍はすぐに湯浴みをした。
汗を、化粧を落とし、木蘭に身体を拭いてもらう。胸をきつく布で巻き、乳房を潰し、そして鏡の前に座る。
「うぅっ…………!」
焼きごてに挟まれた髪は悲鳴を上げた。揺らめく髪は、半ば無理矢理引き伸ばされ、大人しくなってゆく。白く、やわらかな頬を、うねりがなくなった髪が覆う。
「烏龍様、目を」
閉じられた目蓋のきわに引かれた墨は細くつり上がった。眉墨は、くっきりと、目の上に弧を描いてゆく。繰り返し唇に当たる指には白粉がついているのだろうか、ほのかに甘い香りがした。
再び目を開けたとき、鏡には、炎帝の部屋にあった絵と同じ顔が写っていた。
首から下にまとった青衣も。うねりなく墨垂れた髪も。涙ぐんだ木蘭の顔が何よりの証であろう。
「木蘭……お茶を」
差し出された炎帝の蓋碗。蓋を手に取り、裏返せば、木蘭の兄の形見が香る。
烏蘭の。彼が遺したお茶、最後の一杯が。
「行きましょう」
再び「男」の装いをした烏龍は、外套を深々と被った。
ここは燃え盛る髪の主・炎帝こと耀煌の居室である。
ドクドクと脈打っていた壁は、床は、不気味なほど静まりかえっていた。壁から滲んでいた粘液は乾き、糖衣のような膜を張っている。
剥き出しになった寝台に、耀煌はうずくまっていた。
広々とした寝台の上に広がるは茶道具。すべて粉々にひび割れている。彼自らがしたことである。
抱きしめた烏龍の白い外套は、汗と、涙と、よだれに濡れていた。触れる指はひくりとも動かない。紅の髪は、婚礼衣装をかけてやったよう、青白い肉体を覆っている。
「烏龍……」
消えゆくような声がしたときだった。
帳を引きちぎった寝台の向こう。見覚えのある青衣が耀煌の目に入る。
墨を垂らしたようにまっすぐな黒髪。切れ長の目。白磁を思わせる美しい肌。
色がほとんど無い唇。
「そな、た、は…………」
今度ははっきりと見て取れる。間違いない、疑いようもない、かつて失った友の姿がそこにある。
耀煌は、消えかけた力を振り絞り、手を伸ばした。
友は、「烏蘭」は、かつてと同じ良い香りがした。
炎帝を部屋から連れ出すことに成功した烏龍は、かつて、「三人」が使っていたという秘密の抜け道を進んだ。
皇太子になってからというもの、なかなか外へ出られなくなった炎帝のために、耀青が密かに作らせた地下の道。大火事を生き延びたそれの話を、側仕えの若者・葉が、涙ながらに伝えにきてくれたのだ。
耀青が皇宮を抜け出し、岩山に行ったときも使った、と。
静寂と冷気で満たされた地下道に二人の足音が響く。
声を出せば烏蘭ではないと知られてしまう。烏龍は、無言で、にこりともせずに炎帝を導いた。
耳は外套と黒髪の中に、手は、たっぷりとした袖の中に。髪が揺れぬようゆっくりと、深い呼吸をして。炎帝は怯えたような、思い詰めたような、夢の中にいるかのような顔をしている。
紅の髪は地下道をぼんやりと照らした。広がり、揺らめきながらも、烏蘭に扮した烏龍には触れようとしない。このまま夢を見ていたい。ここから、ずっと、出なければよい。重い足取りは言葉よりも多くを語っている。
やがて、遠くに小さな光が見えた。
冷たい風も吹き込んでくる。烏龍は耳が見えぬよう、片手でそっと髪を押さえて、振り返る。炎帝は半開きだった口を、きゅ、と閉ざし。
「のう、まことに……行くのかえ」と言う。
烏龍はただ、頷いた。
出口は皇宮の、都の外へと繋がっていた。これならば耀青が、誰にも気づかれずに都を飛び出せたのも頷ける。親王がひとり皇宮を飛び出しただけでも一大事であるのに、自分は、皇帝陛下を連れ出したのだ。
今頃皇宮は大騒ぎになっていることだろう。木蘭は「大丈夫ですよ」と笑ってくれたが、遅かれ早かれ、彼女が何らかの処罰を受けるのは明らかだ。麗親王耀青という後ろ盾が投獄されたのだから。お茶の精に脅されたと言っても信じてはもらえないだろう。
炎帝を脅し、耀青の解放を迫ることも出来た。だが、そのようなことをすれば、炎帝に……耀煌に本当のとどめを刺すことになる。
もう後には引けないと、烏龍は、まなじりと唇を引き締めた。
そのときだった。
「ご苦労だったわ」
凍てつくような声がした直後、烏龍は、首筋に鈍い痛みを覚えたのだった。




