余暇
左腕につけたロンジンの黒い針は7時30分を示していた。朝の光を反射して鈍く輝くそれを顔の前まで持ってくるのも一苦労に感じられるほどの、濃い疲労が彼の全身にまとわりついていた。
最終的に誰の所有物になるのかもわからない自動車のための部品を作るために一晩中酷使された両足は、自転車のベダルを動かす努力を放棄することを要求していた。姫野は肉体の要求を無視した。
この白いビアンキを買った時には、それは彼のステータスと、若い男らしい肉体的な健康の象徴となるだけのはずだった。それを毎日片道6キロの移動に使うことになるとは想像するはずもなかった。今ではそれは分かちがたい足となり、生活と疲労の代弁者となっていた。
道路に沿って乱立する樹木の壁越しに、太平洋が潮の香りを届けた。誰にも名前を気にされたこともないような木々が潮風に揺らされて、葉を震わせていた。壁の間を通り抜けた風が、姫野の五感に触れた。青年は額の汗を拭った。
白いセダンが、その速度からすると驚くほど小さな音を立てながら疲れた自転車乗りを追い抜いていった。同僚に車を買うことを薦められたことを彼は思い出した。俺もあんなのを買うことにしよう、と彼は頭のなかで言った。いつかそのうち。そのいつかがいつになるのかは全くわからなかった。彼が未来についていえることは、部屋に帰ったらすぐに何時間も前から楽しみにしていたお菓子を口に入れ、シャワーを浴びてから泥のように眠るだろうということと、後2日だけ働けば、またやってくる新たな5日間に備えるための、2日間の休みがやってくるということだけだった。そんな日々は永遠に続くかもしれないし、運が良ければもっと早く終わるかもしれない。しかし未来など彼にはどうでもよかった。どうせすぐにやってくることに関して、どうしてあれこれ妄想する必要があるのだろう?
車輪にまとわりつく泥がその動きを鈍らせるように、疲労が自転車のタイヤの動きを遅めようとしていた。青年はギアを変えて重くなったペダルを全力で踏みつけた。自分の疲れを認めたくなかった。
人類の誕生以前からずっと回り続けているのではないかと思えるほどに粛々と回転を続ける風車の影の上をのろのろと走り抜けた。視界を遮るのは木々から人口の堤防へと変わっていた。無機質なコンクリートの堤防が、東からやってくる、巨大な金属の羽の塊を動かす不可解な力と労働者の間に立ちはだかっていた。
更に3つほど風車を通り過ぎたところで、人気のない浜辺に降りる小道の脇を通りかかった。降りてすぐのところは駐車場にも使われることがあるため、始めてクレヨンを手にした子供の落書きのように無秩序なタイヤ跡が残っていた。その向こうでは白い波が誰もいない浜辺に向かって、打ち寄せては引き下がってを飽きもせずに繰り返していた。目に見える波のずっと向こう側で夜勤明けの目には眩しすぎる空と海が合流していた。姫野は目から数センチのところで風に揺れている前髪を手で払った。それはまた元の位置で揺れ始めた。
彼は疲れていた。そしてそんなことには構わなかった。ごく僅かでいいから、食べて、寝て、再び働き始める以外の何かを求めていた。彼は砂浜へ降りて行き、車の太い轍の上に、ビアンキが頼りなげに細いタイヤ跡を砂の上に作った。この跡も次に車が入ってきた時に消えてしまうだろうな、という考えが彼の頭をよぎった。彼は自転車を置いてから太平洋の方へ進んだ。靴と靴下越しでも柔らかな砂の感触を感じることができた。
海は姫野がまだ美大にいた頃、習作の題材として気に入っていたものの一つだった。彼は多くの男が綺麗な女の目鼻立ちを観察するときのような注意力を持って対象を観察し、目の届かない部分は想像力でもって補完し、それら全てを統合したものを、どれだけ努力しても不完全な色にしかならない絵の具と、多くの人を驚かせる緻密さでもってカンバス上に投影しようと試みてきたのだった。多くの男が金と人生を女のために費やすように、彼は若さと才能を、自分の作品を優れた芸術に一歩でも近づけるために捧げていた。姫野の周囲の人々のほとんどは姫野はすぐにそれに成功するか、あるいは既に成功したものだと考えていた。間違いなく彼は最良の生徒の一人として扱われていた。見習い芸術家は短時間の官能と不定期不定量の幸福ではなく、名声と羨望、将来への期待を勝ち取りつつあった。それらはもともと目的としていたものではなかったが、それでも一度そういったものを手にしてしまうと、手放してしまうことのできるものでもなかった。それに彼は自らの作品には常に満足できなかったが、彼のことを評価してくれる人々からの尊敬や、そして嫉妬までもが、彼の仕事に対する報酬となった。
それに姫野は芸術を愛していた。まさにその理由によって、いつか芸術も彼のことを愛してくれるだろうということを信じていた。彼はそれを確信していた。だが、姫野の絵と、彼自身を愛していると主張する女が現れる方が早かった。
平野香織――あの姫野と対照的に背の低く、髪の長い、幼気に見える女――彼女は女であるということ以外に、大した特徴のない女だった。しかし女であることに関して彼女は絶対的な自信を持っていた。その自信のほとんど全ては自分の容姿から来ていたのだが。そしてそれに関して香織を批判しようとする人間はいなかった。彼女はウォーターハウスの絵画の中から出てきたと不思議ではなかった。
姫野はその女のことを愛していたのかどうか思い出すことはできなかったが、香織と特別な関係にあるという事実が周囲の男達の心の中にわき起こす感情が、彼の心に幸福をもたらしたのは確かだった。彼は何事に関しても誇ろうとはしなかったが、彼のことをけなしたい人々はけなし、賛美したい人々は賛美した。それだけで十分だった。
大学を卒業し、本腰を入れて絵の制作と販売に力を入れられるようになってから、この芸術家にありきたりだがもっとも重要な出来事、すなわち金銭的な成功が訪れるまで大した時間はかからなかった。作者の目には欠点ばかりが主張する、まだまだ無限に手を入れる余地のある絵に対して、鑑賞眼を持っていると自称する人々はなんだかよく意味の分からない、どこかの埃を被った本から引っ張り出してきたかのような大儀な形容詞を使って賞賛し、それどころかその絵の具で化粧したカンバスに気軽に使えないような金額を提示することまでためらわなかったから。
初めの頃は、不完全さばかりの目立つ作品を売ることに違和感と、罪悪感に近いものを感じずにはいられなかったが、結局はすぐに慣れてしまった。どれほどの偉大な行為も、巨大な罪悪も、繰り返されていくうちにその輝きも生臭さも薄れていってしまうのだ。
それに金のある若者という称号は、何者にも代えがたいということに気づいた。青年と、栄光あるその作品との間には僅かな隔たりがあったが、彼と彼の金とは完全に同一のものとして扱われたからだ。それは軍人が自らの武勇を証明してくれるとはいえ、誰にも読まれないで引き出しの中に封印される功績証明書よりも、胸にぶら下げておける勲章の方をありがたがるようなものだった。
それに世界の大半の人間は、最も偉大な芸術家に対してさえも、極めて漠然とした意見しか持っていないか、あるいは消極的な無関心の対象でしかないが、金のある人間となるとそうもいかない。姫野は描くことによってではなく、稼ぐことによって、そしてそれを消費することによって、最も一般的な”成功者”の概念に当てはまることが出来たのだった。それが姫野にとっては特別すぎるほど特別なことのように思えた。
それが錯覚でしか無いことに気づくのには数年の年月と、芸術が彼に背を向けることを要した。あるいは姫野の方がこの抽象概念をがむしゃらに追い求めることに疑問を抱いたという方が正しいかもしれない。
それは誰にでも起こりうるものだと聞いていた。そして姫野は誰もと同じように、誰にでも起こりうることが自分にも起こるかもしれないということが理解できなかった。全国の交通事故の総計を見せられた人間が、自分もその数字の変化に関与するかもしれないということが考えられないのと同じように。なによりスランプという言葉は、青年にとってあまりに漠然としすぎていた。彼の置かれている状況はたった一言で表せるようなものではないはずだったのだが、皆がその言葉を使うので、その言葉が正しく状況を表しているのだろうと姫野自身も考えるようになってしまった。
彼の筆がさっぱり進まなくなってからしばらくの間は、周りはただやる気が起きないのだろう、とか、次の巨大な作品の制作に備えて充電期間に入ったのだろうとか言っていた。そのため姫野自身も、自分にはやる気が無いのか、新たな仕事のために備えているのだろう、と考えた。一方でもっと根源的なところに問題があるのだということに薄々気づいていた。すぐに彼は絵を描くどころか、自分の引いた線にさえ納得できなくなりつつあった。時間が全てを解決してくれるさ、と誰もが言っていた。姫野はそれを信じた。彼らの口ぶりは、テレビ越しに貧困で死にかけている人々を見ながら、政府がなんとかしてくれるさ、と言っている人のようだった。
香織もしばらくは周りと同じような反応を示していた。それどころか姫野が仕事ではなく自分のために時間を割いてくれることが増えたのを喜んでいるようなところさえあった。彼女は他の人々よりも楽観的だった。それは全てが丸く収まってくれなければ困るのだから、何もかも丸く収まるはずだ、という考えからだった。面白げもない広告のデザインに従事する日々から姫野が解放者してくれる日がこなければならないと彼女は考えていた。
楽観的な希望どおりに、時間という最良の医者をもってしても姫野の容体に決定的な変化が訪れないことに気づくと、かつての楽観はそれ以上に大きな不安に変わった。彼女は事態を改善するために幾つかの手法を試みた。姫野の過去の作品を褒めたり、小旅行に出たり、無理やり筆を取らせたりした。絵を失いつつある画家は感謝の念から出来る限りの協力をしたが、効果は現れなかった。
それから香織は人間の習性にしたがって、起きてしまったことに原因と理由をつけようとしてあれこれ追求し始めた。彼女は姫野の部屋の風水からはじめて、最終的には事態が変化する直前に行ったイギリス旅行での経験が原因に違いない、と結論するに至った。ナショナルギャラリーやバーミンガム美術館での体験によって自信をなくしてしまったのだろうと考えたのだ。姫野にとっては風水の方がまだ説得力があったが、表面的に彼女の名推理にに同意しなければならなかったそれは結局何の改善ももたらさなかった。
売り物の作れない画家の経済が行き詰まるのに意外と時間はかからなかった。というのも、姫野もその交際相手も、鼻先がぶち当たる時まで、目の前にまで来ている壁の存在に気づいているような素振りをしなかったからだ。生活品の質も量も全く落ちることはなかったし、姫野の誕生日には彼の金を使って高価な腕時計が贈られたりした。あまり趣味に合わないスイス製品をプレゼントされた男はまた自分の金を使って相応の返礼をしなければならなかった。
二ヶ月後には彼は生まれて始めて金銭的な必要性から筆をとった。後ろから首を掴まれているかのような不快感と物質的な形をとりだしそうなほどに濃い罪悪感がそれを投げ捨てさせた。意味の感じられない、あるいは醜いとしか思えない仕事に対して金を受け取るには政治家のような根性が必要だったが、幸運にも彼はそんなものを持ち合わせていなかった。
元絵描きは自分の生活のために違う仕事を探し始めた。そして他に労働から解放してくれる男を探しだそうとしている香織に出来る限り手助けした。
青年の靴は、波打ち際の、海水で固められ変色した砂の上に刻まれているちっぽけで寂しげな鳥の足跡を追うようにして進んでいった。軽く手のひらを開いて、指の間を抜けていく風の感触を楽しみながら水分の混じった空気を呼吸した。砂の中にはまり込んでいるような白い貝殻を蹴飛ばそうとしたが、足の重さがそれを止めた。
指先に乗せることができそうなくらいに小さな白い鳥の群れが、やってきては引いていく波の最前線に沿って走り回り、人間にはその存在も知覚することができない小さな餌を求めて砂の中に嘴を突っ込んでいた。
彼らの必死さは姫野の目を楽しませた。そして空腹を思い出させた。
姫野はしばらく何も考えずに彼を包む世界の印象に浸っていた。全てを細部まで観察しようとする必要はなかった。青年は腕時計を外してポケットに投げ込み、強い波が来た時に両手を海水の中にさらした。心地よく冷たい感触が両手から神経を辿っていった。ふと頭のなかに、自分がかついて描いた絵のどれか一つでも、水の冷たさと感触を表現できたものがあっただろうか、というあまり愉快でない疑問がふと生じた。作品の幾つかと、その制作にまつわる日々、そして人々――、あらゆることが詳細に思い出された。表現に成功したものはなかったのだろう、という結論に達した。彼は絵の具の匂いを忘れた手から水滴を振り払った。
そもそも色のついた油をカンバスに塗りつけることによって真に何かを表象することができるのだろうか? 彼はそれを信じていたし、今でも信じていた。まず最初に必要なのは才能と天才なのであることに気づくのに彼はあまりに長い時間をかけてしまっただけだった。
疲れが両脚を締め付けていた。
手だけではなく靴まで濡らしてしまったことに姫野は気づいた。靴から水分を追い出せるかもしれないという馬鹿な考えから彼は足にぎゅっと体重をかけた。水が出たのは足元のくぼんだ地面からだった。そのくぼみと釣り合いをとろうとするように周囲の砂が僅かに浮かび上がった。どちらにせよ水は中まで浸透していないから、明日の出勤の時には完全に乾いてくれるだろう。
香織から贈られた時計は、次の出勤まで12時間あることを教えてくれた。休み、眠り、また働くための時間が。それは十分な時間だったが、十分に感じられたことはなかった。それに世界に十分な時間というものが存在するだろうか? 生活し、生命を楽しんだり、愛したり愛されたりするために? その何よりも貴重に感じるものを僅かな金のために費やしているのだ。それでも彼は今の生活が嫌いではなかった。
姫野は手の中のロンジンを、秒針の音が聞こえたと錯覚するほどまでに顔の近くに近づけた。頭の一部が、今の時給ではこれを買うのに何百時間働かなければならないのだろうか計算しようとしたが、すぐに諦めてしまった。忠実な機械は持ち主の視線など気にも留めずに動き続けていた。ちっぽけな白い文字盤を覗きながら青年はあらゆることに思いをはせることができた。そして彼は何もかもに満足していた。自分の過去にも、現在にも、優しくない世界にも、あらゆる幸福と不幸にも。姫野は時計を贈ってくれた人間が幸福であることを願った。
彼は顔を上げ、疲労した体をぐっと伸ばすと、すっかり手に馴染んだ時計を波の中に投げ込んだ。