僕は人が嫌いだ。
僕は人が嫌いだ。あたりの人を見ていると、皆、僕のことを嫌っている。そういう風に感じてしまうからだ。だから、僕も同じように、人を嫌うんだ。そうやって、自分は、ただ1人で生きている。そう演じている。でも、僕は、演じていることに気づいていない。本当に僕は、独りぼっちなんだと思っている。
例えば、僕は、今年で30歳になるにもかかわらず、独身だ。1人で、古ぼけたアパートに住んでいる。洗濯だって自分でやるし、自炊だってする。暇さえあれば、テレビの前でぼーっとするか、スマホを触るかのどちらかだ。Twitterを眺め、自分は独りぼっちと、自分に再認識させている。
でも、よく考えてみる。今、アパートに住んでいるのは、大家さんが部屋を貸してくれるからであって、決して1人でできることではない。大家さんの協力あってこその生活ができている。洗濯も、そもそもその服はどうしたの?とか、自炊だってするには、材料など買う必要がある。それにはお金が必要であって、そのお金はどうしたの?とか、少し考えるだけで、自分1人では何もできないことに気がつけるはずだ。それすら気づけないから、独りぼっちだと思っている。
この世界に生きるなら、独りぼっちになるのは難しい。でも、本当に独りぼっちの人もいる。でも、そういう人は、自分自身で“独りぼっち”とは言おうとしない。むしろ、それを隠す。つまり、“独りぼっち”と言ってる人は、まだまだ、独りぼっちではない。
隠し通してきた、本当の“独りぼっち”は、誰にも気づかれない。そして、死んだ時に、初めて、気づかれる。
僕は人が嫌いだ。そう言い続けてきた。でも、そろそろ、それも疲れた。そろそろ、みんなに飽きられてきた。そろそろ、気づかれなくなり始めてきた。だから、もう、言うことはやめようと思う。それでいいんだ。そう思うから。
僕は、少しずつ仕事を休むようになった。そして、辞めた。お金もない。つまり、なにも、ない。生きる気力もなくなった。だから、今日、死のうと思う。遺書なんて書かない。書いたところで誰も見ないから。
僕は今、歩道橋の上にいる。睡眠薬を片手に立っている。歩道橋の下は、車が動いているんだと思う。死ぬぞ!と思って、ここまできた。でも、死ぬのが怖いから、睡眠薬を持ってきた。少しでも楽がしたいし、死にたくないという気持ちもあった。だから、歩道橋の手すりの上に立って、睡眠薬を飲み、寝れば、自然と落ちて死ねると思った。これなら、歩道橋に落ちれば死ぬこともない。
僕は震えながらも、睡眠薬の瓶に書いてある、注意事項を読んだ。でも、暗くて見えない。どうせ死ぬんだと思い、手のひらから、こぼれるほどに薬を出して、一気に飲み干した。あれ?なにも起きない。そう思いながら、手すりの上に立った。
誰も、僕には気づかない。動く車さえ、僕を無視していく。僕はもう、快感に感じた。僕が誰にも気づかれない、それは快感でしかなく、嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。
そのうちに、記憶が薄れていった。頭の中が、だんだんと白くなってきた。あたりに人の姿はない。
気がつくと、周りにはたくさんの人がいた。そして、みんなは笑顔で僕を見つめる。
「ようこそ。」
と1人の男性が言った。僕も笑顔で、
「ありがとうございます。これから、よろしくお願いします。」
と言った。
でも、なぜ生きているんだろう。僕は不思議で仕方ない。僕は、テレビをつけた。
“昨夜、無職の30代男性が、歩道橋から飛び降り、その後、走ってきたトラックにひかれ、全身を強く打ち死亡しました。
当時は、多くの人が見守るなか、警官が止めに入りましたが、男性は笑顔で飛び降りたとのことです。”
僕は驚いた。死んでいたことに対してではない。その瞬間を多くの人々が見ていたことに対してだ。独りぼっちだと思っていたが、これほどの人々の中で死んでいたのだ。
僕は、泣いた。すると、また、あの男性が僕に言った。
「これからは、独りじゃないですよ。」
僕は少し、人が好きだ。これからの生活の中で、もっと好きになるかもしれない。そう思って、新しい生活を始めています。