02:ウソだと誰かに言って欲しい。
それから数日は平和そのものだった。
テレビのニュースでは相変わらず異世界の『王国』やこちらの政府のどこかが和平協定だ、イベントで友好をなんだかんだと賑わせている。凛も一応あの入院とその翌日は有休を利用してのんびりと過ごすついでに巨大な獣について調べてみたものの、そんなものはとりあえず一般人が読める書物には載っていなかった。
キアスと名乗った男も、現れることもない。ただのナンパ男だったのかもしれないと凛は内心胸をなでおろしていた。あんな事件の直後だったので得体が知れない、人間の姿をした何かかもしれないと思った自分を少し恥じたほどだ。
ただ、マルコキアスとも呼ばれてる、というようなことを言っていたので気になったついでに書物で調べて疑念は残るのだけれども。翼を持つ狼だという悪魔だと文献にあって、あの巨大な獣を髣髴とさせたのだがそれを現実として結び付けるにはばかばかしいと彼女は見なかったことにした。
した、のだけれども。
それからいつもどおりの忙しい業務を始めて、1日過ごしてみて休んだ分動きやすいと喜んだのも束の間、何故か上司が青い顔をして彼女を呼び出したのだ。社長が呼んでいると言われ何かやらかしたのかと上司に聞けば上司も知らないらしく、どうしようと2人で動揺したまま社長室をノックした。
するとそこにはパリッとしたスーツを見に纏った若い男性がいて、その横には中世の騎士を思わせる鎧とマントに身を包んだ男性がいて、その傍らで社長席に座る顔色のあまり良くない社長の姿があった。
「し、失礼します……お呼びと伺いまして…。」
とりあえず上司がなんとか声を出したところで、社長が「波瀬くんだけ残して君は戻りたまえ、彼女には別件があるので本日は早退扱いにしておくように。」と告げられる。このよくわからない状況で、普段から頼りにならないとはいえ唯一会話をまともにしたことのある人物が退席する事態に凛は眩暈に似たものを覚える。
足元が震えそうだと思ったところで上司がへこへこと頭を下げてドアを閉めていく姿に薄情者めと八つ当たりの罵倒を心の内でだけ叫んで、凛もまたなんとか笑みを浮かべようとしてみた。
「波瀬さんですね。波瀬、凛さんでお間違いないでしょうか。」
「は、はい。企画部の波瀬です!」
「私は政府関係者で安藤と言います。こちらはリューゼ公国の騎士団員で、アリュートさんです。」
「アリュート・デラファル・デ・オミ・ロンダと申します、お嬢さん。突然お呼び立てして申し訳ない。」
「それでは本人確認をさせていただきましたので、社長、申し訳ありませんが彼女をお借りいたします。先ほどお話したとおりの措置でお願いいたします。」
「……承知しました。元がつくとはいえうちの社員だった人間です、手荒な真似だけはなさらないようお願いしますよ。」
「当然です。」
「え? え?」
「事情は移動しながら説明させていただきますが、貴女の身に大きな問題が生じましたので安全のため今日で会社を退職していただきます。ご家族やご友人に迷惑がかからないための措置でもありますので、納得はいかないでしょうがご了承いただきたい。」
「ええ?!」
「それでは行きましょう、大丈夫、貴女のアパートはちゃんとこちらで半年は家賃を払わせていただきますから。」
「そ、それはありがとうございます…?!」
何が起きてるの、ウソだと言って。
折角平和な生活が戻ってきたのに。
そう叫びたい凛の気持ちなど男たちに伝わるはずもなく、何故か哀れみに満ちた目で社長に手を振られて(平社員の凛からすれば、言葉も交わしたことはほぼないと言って良かったのでなにを説明されたのかをじっくりと逆に聞きたかった)両脇に男たちに囲まれてビルを出る羽目になったのである。
ビルの前にあったのは一般的な車両だ、そこで後部座席に凛が座り運転席に安藤、助手席にアリュートが座った。
車の助手席に鎧姿の男性がいるというのはなんとも不思議な光景であるが、男たちの顔は至って真面目だ。
「数日前、貴女は巨大な獣に出会ったと仰っておられたと報告を受けておりました。」
「巨大な獣とは具体的にどんな風だったか教えてもらえないだろうか、もし我々が恐れる事態であるなら本当に緊急を要するんだ。」
「え、あの、大きな…おおかみ、みたいな。」
「狼。それで、何か言われなかったか?!」
「え、あの、気に入った、って…。」
「むぅ…。可能性は高いな、安藤どの、やはり急いで会わせる必要がある。」
「わかりました、準備はできています。」
「あの、どこに行くんですか? 私本当に何もわからな……ッ」
「わからないことだらけかと思いますし、正直私もよくわかりません。『異世界』側でもレアなケースとしてあまり知らせていないことが起こったのです。それだけに先がわからないので、日本と友好的なリューゼ公国に協力していただいて穏便に対処したいと思っています。」
「私に拒否権はないんですか?!」
「ありません、もし我々が考えていた事態であるならば、貴女の行動ひとつで国が滅びることもあるのだと知っておいてください。」
「く、国が滅ぶ……?!」
凛が顔を引きつらせても、安藤は冷静に前を向いたままでアリューゼは若干哀れんだ目を向けるだけだ。
ウソだと誰かに言って欲しい。と彼女が言ったところで、今彼女のそばにはそれを言ってくれそうな人物は1人としていなかったのだった。