01:いかがなものかと自分に問う。
凛が次に目を覚ましたのは病院だった。
事件が起こった近隣から『強い魔力が発生している』という通報があり、現場近くにいた警官が向かったところで彼女が倒れていたというのだ。小山のように大きな獣に遭遇してその上話しかけられたと正直に話したところ、どこかたちの悪い魔術師くずれに幻術を見せられたのでは、という話になってしまった。
会社にも警察から連絡がいったようで今日はもう出てこなくてもいい、明日も有給を使って構わないという温情に預かった。それはありがたいが、地方に住む両親からの心配の留守番電話と怒涛の着信履歴に若干引き気味だ。
思いの外痛い出費になってしまった1日入院はもぎ取る休養としてはちょっとサイフに痛すぎた。
(ああもう、今月切り詰めないと厳しいかな~……新しい制御装置買いたいし…そろそろ古くなってきたし…それにしても母さんの都会は恐いところだから帰っておいで攻撃もたまったもんじゃないよ…電話したらきっとそればっかり言われるんだろうなあ。)
とほほ、と自然と肩が下がって溜息が零れる。
警察が言うようにあれは幻術だったのかもしれない。というよりはあんな巨大な獣、現実にいたらもっと大騒動だ。ドラゴンは写真で見たことがあるものの、あれと同じサイズの獣となればもはや脅威だ。しかも喋るとかなればその知能は相当なものでそれが知られてないはずが無い。
だからあれは幻術。
会社帰りのOLをからかう目的なのか、犯罪目的だったのかはわからないがとりあえず無事だったのだ、それで済んで良かったじゃないか。ちょっとサイフの中身が軽くなっただけで貴重品も無事だったし五体満足で貞操も無事で多くを望むべきじゃない。
「よっし、とりあえず帰って着替えてお風呂入ってゆっくり寝よう!」
「そうそう、それがいいぜー。」
「ですよねっ! …え?」
「隈ぁできてるし、顔色も悪いぜお嬢さん。」
「え、え?!」
するり。
病院から電車に乗って地元の駅に着いたところで昨日の場所だ。
といっても昨晩と違い今は日も高く人通りもそこそこあるが、声をかけてきてその上さらに肩まで抱き寄せてくるような男に彼女は覚えが無かった。
ぎょっとして見上げた相手は西洋人の顔立ちで、暗めの茶髪に同じ色の瞳を持った凛よりも少し年上らしい男だ。髪を後ろで結んでいるが、さほど長い風でもなく短めの尻尾のようでそれが妙に男臭い顔立ちに愛嬌を与えている。にっかと笑っているその表情は朗らかで、まるで往年の友人かのようだ。
「だ、だれ……?」
「そうそう、それは俺も思った。なあ、名前教えてくれよ。俺も教えるから。」
「り、りん。波瀬凛。」
「そっか、俺はキアス。」
「きあす、さん?」
「正確にはマルコキアスって呼んでたヤツがいたってだけなんだけどな。でも伝説の悪魔とやらじゃあないんだ。気軽にキアスって呼んでくれよ!」
「ちょ、ちょっと離してください……ッ。」
「凛か、可愛い名前じゃねーの。」
「な、なに言って、るの?」
有名な悪魔と同じ名前で、けれども悪魔ではない、そしてきょろりと彼女を見下ろす眼差しに見える光は凛の身体をぞくりと竦ませるには十分だった。とはいえ昨晩のように体が竦んで動けないとか恐怖を感じてはいても相手が友好的だからちょっと違うもののように思える打とか、とにかく結局彼女が混乱していることには変わりなかったのだけれども。
知らない男に友好的に絡まれて、これはナンパなんだろうと凛は身を固くするものの何故か逆らいがたい圧力のようなものを感じて動けない。
普段ナンパされても挙動不審になって慌てて逃げ出すのがオチなのだけれども、今は逃げることもできそうに無かった。がっちりと肩を掴まれてにこにこと見てくる男の得体の知れないことこの上ないが、見目だけで言えばハンサムな男だけに周囲からは熱烈な愛情を示す外国人男性とそれにおたおたしている女としか見えないのだからなんとも滑稽だ。
「帰るのか?」
「か、関係ないです! 離してください!」
「おっと……ちょっと急ぎすぎたか、嫌われちゃあ意味ないしな。それじゃあ凛、また、な?」
「ひっ?!」
ちゅ。
頬に男の顔が寄せられて、音がした。それがリップノイズというものであることは彼女も知っていて、思わず悲鳴を上げてしまったが「ひどいなー。」なんて笑いながらマルコキアスと名乗った男は楽しそうだ。
どこか名残惜しそうに凛の頬を撫でる指先はかさついていて、にやりと笑う口元には牙も見えてきそうで彼女はくらりと眩暈を覚えて一歩下がった。
「おっと。もう倒れてくれるなよ。これでも心配してたんだ。」
「あな、あなたはなんなんですか……からかうにも人が悪すぎます! 失礼します!」
「おいおい、あんま急に走ると身体に良くねえから――」
驚いた風の男の声は、まだ何かを言っていたように思うが凛はもう振り返ることもなく走っていた。
昨日まではあんなに仕事が忙しかっただけの、平凡な日々だったのに。そうげんなりしながら。