鎮雨歌
先月、僕の幼なじみがこの世界を去りました。
その日はしとしとと小雨が降っていて、彼女は一人で出掛けたそうです。決して交通量の多くない交差点で、彼女は軽トラックにはねられました。不慮の事故でした。
この話を彼女の母から聞いた時、ふと説明のできない違和感を感じました。その正体が何なのか掴めないまま、大学のある都会から、故郷へ帰ってきました。
駅から実家へ向かう途中、今はいない彼女のことを考えていました。
昔から人見知りかつ臆病で、一人で出歩くなんてとんでもない、「タクちゃん一緒についてきて」とメソメソと泣いて懇願している女の子でした。
小学校に入る頃、彼女の母は娘にピアノ教室へ通わせたかったようですが、彼女は例の如く「やだ、怖い」と泣き叫びながら駄々を捏ねました。結局、彼女の母に頼まれて僕が同伴することになったのですが、毎回通ううちに、オマケだった筈の僕の方がすっかりピアノにのめり込み、今や音大生にまでなってしまっています。
大学へは自宅からは通えないので、親元を離れ、下宿をしています。そういえば、彼女はこの時も「タクちゃん、私を置いて遠くへ行っちゃうんだ」と涙ぐみながら子どものように呟いていました。
ああ、と納得しました。最初に彼女の母から聞いた時に感じた違和感。一人で出掛けた、ということだったようです。
彼女ももう年齢は十分大人ですし、一人で出掛けることなんて当たりな筈。でも、記憶の奥にいる臆病な彼女と一致しなかったようです。
ぽつりと空から雫が落ちてきました。──雨。生憎、傘は持っていなかったので、コンビニで安っぽいビニール傘を購入し、再び歩き始めました。
横断歩道の手前の信号が目の前で赤に変わり、ぴたりと足を止めました。サァアアア、と雨が傘を叩き、土の匂いがふわりと鼻腔をくすぐります。
「あ、れ」
ふと気がつくと、僕の前に人が立っていました。信号待ちは自分一人だった筈。それに、目の前に現れたなら、いくらぼーっとしていたと言っても気付いていたでしょうに。
ところが次の瞬間、スッと鳩尾が冷えました。
「あ……う……」
うまく言葉を発することができず、無様にも口をパクパクさせるだけでした。
僕のすぐ前に立っている女性の向こう側が、まるで水のように透き通って走り去る車が見えていました。しかし、僕が驚いたのはそれだけではありません。
『タクちゃん一緒についてきて』
不意に、幼き日のたどたどしい声が蘇ってきました。
ごくり、と唾を飲み込み、やっとの思いで科白を吐き出しました。
「──ゆ、由花?」
女性はゆっくりと顔を上げました。雨に濡れた長い髪が頬に張り付いていて、血の気はなく真っ青でした。
由花は、僕の姿を見て、青白い頬をほんの少し朱に染め、目を輝かせました。
「タクちゃん」
僕の幼なじみは、嬉しそうに、右足を引き摺りながら僕に近寄ってきました。
「久しぶり、タクちゃん」
「……うん」
由花の全身を一瞥。足を引き摺っているものの、目立った怪我は見当たりませんでした。
由花がはにかんだその時──今まで胸に詰まっていた不安が一気に雪崩れ、ボロボロと熱い涙がこぼれ落ち出しました。
由花の母に聞くまでもなく、何となく感じていたのです。本当は事故なんかじゃないってことに。
「ごめん、由花……!お前から離れてっ……!俺のせいでお前は──」
がっくりと項垂れ、ひたすら自責の言葉を並べ続けました。手から傘が滑り落ち、止むことを知らない雨を全身で受け止めながら、ごめん、ごめんと繰り返しました。その間、由花はじっと口を閉じ、静かに耳を傾けていました。やがて、嗚咽で何も言えなくなってしまった頃、「ねぇタクちゃん」と由花は口を開きました。
「タクちゃんのせいなんかじゃないよ?」
「っ由花!」
「私、友達は少なかったけど、だからと言ってタクちゃん一人いなくなったくらいで死んだりしないよ?」
はっと息を飲み、顔を上げました。由花は、からりと晴れた空のような表情をしていました。
「じゃあ、なんでここに、今も……」
「知らない場所へ行くのが怖いから」
これじゃ子どもの時から変わらないや、と由花は遠くを見つめ、困ったように肩を竦めました。
「……一緒に行こうか?」
僕が尋ねると、由花はふるふると首を横に振りました。
「もう一人で歩ける」
由花はくるり、と背を向け、右足を引き摺りながら横断歩道を渡り始めました。
「バイバイ、タクちゃん」
ズルズル、ズルズルという音は次第に遠ざかり、由花の姿は光の泡となり空に昇っていきました。
トオリャンセ、トオリャンセ……
錆び付いた機械音が僕の意識を現実に引き戻しました。ビニール傘を拾い上げ、たった一人で雨の街へと歩いていきます。
彼女は、大切な友の心を救い、再びこの世界を去りました。